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2月, 2021の投稿を表示しています

第1節 柏レイソル戦。

花粉症との戦いのなか、なんとか一ヶ月以内にはと思っていた書き起こし「 CEREBAKA EPISODE3 」が完了し、公開にこぎつけることができた先週末。多くの方の共感をいただいたことで、実現できて本当に良かったな、とつくづく感じる。 改めての「育成のセレッソ」と銘打って始まった2021年。思うところも多々ありながら、二人の会話をテキストにしていて感じたのは、クラブを生かすも殺すもサポーターの存在なのだなということだった。それを再認識できた喜びが今、ある。 人を育てるという行為はとても難しい。機械にプログラムを追加して、思い通りに動かすというわけにはいかない。教わる側も教える側も、そこには「心」というものがあるから。歳を取り、暇ができ、時間ができたからこそ、大事な要素だ。 開幕戦の柏レイソル戦は、結果こそ満足いく終わりかただった。しかしながら要所要所においてこの先のゲームで良い面と悪い面に出るだろうなと思える、いくつかのシーンも見てとれた。相手が10人になったことで、良い訓練にはなっていた。 もちろん勝利は一番のモチベーションにもなりえるし、特に若いセッターバックの二人の落ち着きは目を見張るものがあった。CEREBAKAで話してきた、サポーター側から見る育成の姿を意識していくことは、監督が誰であろうと同じでもある。 目の前の一瞬も大事。しかしながら一瞬の出来事だけに目を奪われることなく、僕らは次のステージへと向かう必要はある。僕も、もっともっとセレッソ馬鹿な方々と語り合って、そして、多くのセレッソファンに伝えないといけないのだろう。 そしてセレッソ大阪としてクラブの在りかたを認めさせるには、大久保嘉人選手の200という数字をなんとか成し遂げること。 YOSHI METERを前人未到の域にたどり着かせる、 そのためには多分僕らの役目も重大かもしれない。未来のために。 十代のヨシト、二十代のヨシトそして三十代のヨシトを知る人が先頭に立って、という必要性を改めて知った。たかだか15年、いや加入から言えば20年という距離は、1ゴールによって「ほんの一瞬」に変わったはず。さて、ここからである。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

多くの「声」を纏める。

セレッソ大阪の、というかJリーグの開幕まであと一週間となったこの週末。季節特有の症状と戦いながら(とは言え去年とは雲泥の差)先週から始めたClubhouseのなかでも話したのだが、多くの期待と不安が入り混じる、そんな時期でもある。 このClubhouseでは現コールリーダー、前コールリーダーおよび不肖僕との三人でウダウダ語っている。コールリーダーは一体何を考えていて、どう動いているのか。大半の方にはそもそも「どうでもいい」内容をウダウダ話す一時間でもある。 それでも、このJリーグというスモールワールドにおいて、多くのサポーターを鼓舞し、もう一方の側から試合を作り、チームを勝利へと導くために身体を張り続ける。そんな姿に憧れる方々に向けて少しでも何かを残していければと思っている。 そのようなコールリーダーにとってのこの一週間は、選手たち同様、非常に重要であり、この一年間のサポートをどのように進めていくかを熟考する時間だ。しかしながらコロナ禍の2021年は、コールリーダーにとっても厳しいという話があった。 キャンプを見に行けない。当然のことながら「声」を出しての応援もできない。できることが限定されたなかでコールリーダーがどのように生活しているのか、本当に興味が尽きない。純粋に僕が聴きたい。そこから旅路は始まったようなものだ。 サポーターの世界はまさに社会の縮図のようでもある。クラブを応援するという利害関係のうえに成り立っているこのワールド。チームのために多くの「声」を纏めるこのコールリーダーという役割。人としての成長をももたらすと改めて知る。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

「石」を投げ合うのか。「意志」を投げ合うのか。それとも「意思」なのか。

先日、アルゼンチン代表のウェアを着込んで、映画「ディエゴ・マラドーナ 二つの顔」を鑑賞してきた。俗に言う"格好から入るタイプ"では無いのはご存知のとおりだが、なぜだか気持ちのスイッチを入れなければ、と思い立ってしまったのだ。 もちろんのこと映画館のスタッフさんはすぐに気付き、どの映画を見るのか一目瞭然のような面持ちで誘導される。この「見た目」は、人に自分自身の印象を植え付ける、かなり重要なファクターでもある。その頭上に言葉という存在が、ある。 人間が、人として、他者と合意点を見つける旅。言葉とともに人間は何万年も生きてきた(どうもCMぽくなったが)。しかしながら、どこまで行ったとしても飽きもせず、この言葉によって争いは起こり続ける。賢すぎるせいなのか、それとも。 少なくとも批判だけを振りかざしていては引けないところまで行かなければならないし、そうなったところで一向に解決しない可能性もある。例のあの問題にレゴ®︎シリアスプレイ®︎を持ち込みたいと考えたファシリテーターは少なく無いはずだ。 アルベルト・アインシュタインの「 第三次世界大戦ではどうなるか分らないが、第四次世界大戦では、人間は多分、石を持って投げ合うのだろう 」という言葉がなぜかリフレインする。この名言には様々な意味合いが込められており、実に、深い。 戦うための道具が、石しか残っていないほど草木も生えない状況なのか。それとも、言葉の延長線上のメタファーとしての存在なのか(石打の刑というものも世の中にはあるにはある)。すべては言葉の行き着く先にあり、そして人は選択する。 「石」を投げ合うのか。「意志」を投げ合うのか。それとも「意思」なのか。日本語は同じ音でいくつもの解釈が生まれる。実に素敵な言語だと僕は思う。故にこの日本語には数多くの誤解も生まれやすく、また、数多くの責任も伴うことになる。 話は戻るが「ディエゴ・マラドーナ 二つの顔」を見て感じたのは、やはり愛すべきキャラクターなのだということ。光と闇、表と裏。完璧な人間など誰一人としてこの世にはいない。人には誰しも二つの顔がある。だから合意が重要なのだろう。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

こだわらない。こだわる。

随分とこだわりが減ってきた。若い頃なら考えられないほどの何でもあり感でもある。着るものも食べるものが毎日同じライフスタイルもそれほど悪くない。日常とはそれはそれでいい気もしているが、やはり刺激というか変化は欲しくなる。 大半の大人としてはウィークデーには仕事を勤しみ、そして週末には自分自身を取り戻す。もちろん、この週末の楽しみかたは人それぞれではあるが、日常とは、まるで川の水のように澱みなく流れているものだ。まるで一週間の歌のようだ。 だが本質は違う。いまこの瞬間に起こったことが同じように明日もやってくるかどうかは分からない。だからこそ一瞬一瞬を大事に生きなければという思いに駆られ、歳を取れば取るほど時間とのトレードオフを迫られる、そんな生き物である。 宮崎キャンプの様子が耳と目に入ってくる。選手は毎年のように入れ替わるものであり、この時期の調整は毎年のようにやってくる。企業で言うところの人事異動同様に、その毎年が必ず同じであるわけがない。特に今年はそんな思いが大きい。 そんななかでも、アカデミー出身の選手たちが活躍している記事を非常に見ると嬉しくなる。ちょうど先週収録した CEREBAKA で「クラブにおけるアカデミーの重要性」を話し合ったこともあり、自身の感情はより高まっている気もしている。 それにしてもこの第三節 EPISODE3 の内容は、すべてのセレッソファンがこの先も意識していかなくてはならないな、と改めて感じた。毎年のように行なわれてきた昇格の例の件も然り。一年は流れるが、その流れは決して一定ではないのだ。 こだわりの意識が限りなく低い僕がいうのも何だが、やはり我がクラブはアカデミーにはこだわったほうがいい。今朝、南野拓実のセインツでの (本当に素晴らしい) ゴールを見た。これこそ、こだわってきたアカデミーのDNAがなせる技だ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP