スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

11月, 2020の投稿を表示しています

手厚い看護。

新型コロナウイルスによる影響が日本全国各所で出ている。特に、キャンペーンを打って経済の回復を見込んだであろう、旅行業界と飲食業界では非常に厳しい状況だ。それより何より、医療現場の逼迫が本当に課題でもある。他人事じゃない。 もちろん感染者やお亡くなりになった方々も多くなっているからとても悲しい気持ちになる。こういうときだからこそグッと耐えることか大事だと自分自身に語りかける。そして同様に、僕らの生活のために働いてくださる方々へのリスペクト。 こんな話をするのは野暮かもしれないだろうが、多くの方々の感染対策によって助けられている面もある気もする。しかしながら自分の周りに感染者が少ないという理由で、PCR検査を拒否する方がいるという話を聞いて、少々考えさせられる。 僕の仲間も今は耐えている状況で、現状では感染したということは聞いていない。いつどこでどんな脅威に曝されるかは分からない。 死活問題になるにも関わらず店を閉める決断もだ。 耐えることができる国民性はどこまで続けられるだろうか。 話は変わるが、とある記事が目に入った。それは明治維新という革命についてだ。革命と聞くとどうしても死者が多くなるという印象のもとで物事を考えてしまう。現に、戊辰戦争においては一万人以上の方の尊い命が失われてしまっている。 だが、西南戦争を併せて三万人余りと言われていて、フランス革命やロシア革命といった海外の革命と比べてもその数は少ないとされる。これは日本人の身体が強いというだけでなく、周りの方々の手厚い看護があったからではないだろうか。 当然ながら、死者数に多いも少ないもなく、悲しい出来事であることに変わりはない。だからこそ、今を生きる僕がやるべきことやらなきゃならないことを、しっかりと理解した上で行動に移していかなくてはならないと改めて感じてしまった。 日本の新型コロナウイルスに対する、医療現場の皆さんにつながる話のような気がしてしまうのは僕だけではないはず。だからこそ医療現場の皆さんに負荷をかけないように手洗いやマスク着用など、自分自身の予防はなんとか保っていきたい。 革命という混乱期と並べてしまって大変申し訳無いと思いながら、明治維新について調べ回っている身として書かせていただいた。日本人という枠だけにこだわらず、世界中で手厚い看護が展開されていることに本当に感謝の念しか浮かばない。

第30節 横浜FC戦。

古橋達弥選手が先日、現役引退を発表した。セレッソ大阪でも5シーズンを共に過ごし、本当に素晴らしい選手だったなと今でも感じる。サッカー選手だけでなく、人としても素晴らしい方であったと思っている。お疲れ様でしたとお伝えしたい。 "あの"シーズン。J2で戦うことになり去就が注目された古橋選手の「残留希望」Tシャツなどを作った。サポーターが強烈な意思を示していたあの日のことを、つい先日のように思い出したりする。もう、あんな状態になることはないのだろうか。 2020年シーズンの残り試合は今日を含めて七試合となっていた。その貴重な一試合を勝利することができて本当に嬉しい。モニタ越しにもかなりの重苦しさを感じてはいたが、スタジアムの様子はいかほどだったのか、想像することができない。 アミーゴのタイムラインで、多くの幕が出されていたと知った。ここ数日でも書いたように、説明はおよそ理解できないものになるのか、それとも納得感のもとに収まる内容なのかは分からない。ただただサポーターは、意思を示すことだけだ。 珍しいと感じたくらいのロティーナ監督の喜びように、まるで自分ごとのように感じたことと、正月まではこのクラブで戦っていきたいという強い意思、意志を僕は見てしまった。若干気になる内容もほうぼうから聞こえてくるが、まずはそこ。 意思と意志を忘れてはならない。プロサッカーであるからこそ結果が一番の世界でもある。まずはここから4つ勝ち切って朗報を待つ。その先に見える景色がどうであろうと。十三年前の今日のブログにこんな言葉が書いてあったので引用する。 ーーーーーーーーーー 2007/11/29 01:34:22 魔法 もしかしたらそんな話なんて 世間にとっては句読点のひとつに 過ぎないのかも知れないけれど でもそんな一瞬のほんのほんの 些細な出来事に燃やす情熱の 素晴らしきことうつくしきこと たかが千円のされど千円の 祈りが願いが魂が込められるように 僕は魔法をかける 今、僕は魔法をかける でも僕の魔法なんていつだって すぐに破られてしまうんだ そりゃそうだよ みんなの気持ちが詰まった こんな沢山の思いだもの ーーーーーーーーーー NEVER STOP,NEVER GIVE UP

「ザ・イングリッシュ・ゲーム」。

セレッソ大阪の歴史などまだ三十年も経っていない。だから若気の至りと言ってしまえるのかもしれない。それでも「最高の週末」を僕らにくれているだけで幸せと感じられるのも事実だ。クラブとともに生きていると独りごちる瞬間でもある。 初めてプロサッカー推進室に行ったときも、このクラブを真剣にサポートしようという気位を持つアミーゴと初めて集まったときも、ここから始まる「最高の週末」を思い描いてニヤついていたような気もする。サッカーはそんな時間をくれる。 今更ながらではあるがNetflixの「ザ・イングリッシュ・ゲーム」を見ている。初のプロサッカー選手と言われているファーガス・スーターとスコッツ・ジョン・ラヴ。そしてFA会長を長く務めたアーサー・キネアード。本当に勉強になっている。 19世紀という自由と不自由の最中でサッカーというスポーツが生まれた。そして、その「おらが街のチーム」の試合を待ち望みながら働く人々。そのなかで悩みや葛藤や、もっと大きく広げると人生という波に揉まれながら、必死で生きていく。 そして、選手には選手の思いもある。このドラマのなかでもそれが多く表現されている。分かってはいる。事情は痛いほど分かるのだが、ファンやサポーターの心情では理解しがたいものもときにはある。だが、どこまでもファンは温かいもの。 だから、人々はその先にある「最高の週末」のために前に進む。愛するチームを応援するために家族とともに今を生きるために働きながら。そんな当たり前の日常をくれたサッカーの歴史を楽しみながら僕はインドアバイクをひたすら漕いでいる。 人生の半分以上をセレッソ大阪とともに生きてきた僕のような人間や、生まれたときには既にクラブが存在していたというネイティブな方々にも平等に「最高の週末」はやってくる。「ザ・イングリッシュ・ゲーム」はそんな僕らのバイブルだ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

ミューチュアルリスペクト。リスペクト。

時間の問題だとは理解していたものの、こうあっさりと発表されてしまうと心も身体もぐったりしてしまう。理由など聞いたところで何を言われたとしても信じることもできないだろうから、まずはこのシーズンを何とか戦い抜くことに賭ける。 個人的なことだけ書くとすれば、いまのサッカーを全面的に肯定すること自体、僕のなかではできていない。だから新たに形を作るという流れには少なからず理解しようと努力はするが、考えている問題はむしろそこではなく、もっと根が深い。 物事すべての構造は相互尊重ミューチュアルリスペクトでできている。信頼を失うというのは、この構造そのものの瓦解と言っていい。クラブと選手もそう、選手とサポーターもそう、そして、クラブとサポーターも、当たり前だが相互尊重だ。 そういう意味だと、多くの話を聞いてきて感じるのは、このリスペクトの精神がまったく存在していないと考えていいのだと、僕の脳味噌が訴えかけている。一体どこでそうなってしまったのかと思い返してみたら、終わりの始まりに行き着く。 今日、ディエゴ・マラドーナさんのお別れの会の映像を見た。ファン、サポーターによる数々のリスペクトの姿に、泣かない僕ですら涙腺が耐えられない状態だった。国のそしてチームのレジェンドに対する人の思いというものはまさにこれだ。 片方向じゃだめだ。一方通行ではだめなのだ。あくまでも両方向。だからこそ相互尊重ミューチュアルリスペクトなのだ。それがしっかりと確立しているからこそ、感動や辛い出来事も共有し合って前に進めるし、行動していくことができるのだ。 レジェンドには未来永劫いつまでもリスペクトの気持ちを持っていたい。レジェンドも人間。僕らも人間。過ちもあれば迷いもある。だが、根深く存在するものを断ち切る勇気とやらは、そう簡単に手に入るものでもない。涙腺同様、実に弱い。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

アルゼンチンの巨星、墜つ。

虫の知らせというわけではないのだろうけれど、本当にあった話として書いておく。昨日の夜にどうしても駄ブログを書くのが億劫になって、中途半端に投稿したあとワンコの散歩に出掛けようと着替えていた。いつものようにダウンを取る。 暑さ寒さの話かもしれないが、何故かこのウェアに手が伸びた。「今日はこれで行こうかな」と独り言を言いながら羽織る。さほどあったかいわけでもないこの上着を、どうして僕は着ようと思ったのか、今朝になるまでは知る由もなかった。 そのニュースを見て、なんだか分からないがもう一度このウェアを見てみた。感情が変化するわけでも無いのだが寂しさだけが込み上げてきた。タイムラインを見ていても本当に多くの方から愛されている、愛されていたことを改めて知った。 うちもそうなのだが選手はいつも、ファン、サポーターに愛されているという気持ちを前面に出してくれる。この方もそうだった。すべてがその通りだとは言わないものの、周りを取り巻く環境が選手を良い方向にもそうでない方向にも導く。 1986年のメキシコ1990年のイタリアも素晴らしかったが、僕個人としては我らの日本代表が寸前まで掴みかけた1994年のアメリカ大会がとても印象深い。ラウンド16のルーマニア戦に、この方が出ていたらどうなっていただろうと今でも思う。 まあそんな、僕のどうでもいい話など必要ないはずだ。今はゆっくりと休んで、そして天国でもあの楽しそうなサッカーを展開してくれることだろうと思っている。しばらくはこのウェアを着てワンコの散歩に行くことにしようと心に誓った。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第29節 大分トリニータ戦。

毎日、考えることが多すぎて、そして悩みが尽きない。そんなときにはワンコの散歩に出掛けてみる。この黒いワンコと歩いていると、それこそ何も考えずにいられることもある。人間にはある程度、このような時間も必要なのかもしれない。 大分戦を見ていて、考えること、考えすぎることが数多くある。もちろん例の件が一番なのだが、それ以外にも年末になってくるとファンサポーターに加えて選手ひとりひとりのことなどが脳裏を過ぎる。何とも言えない気持ちだけが膨らむ。 ロティーナ監督にとってのこの二試合にはどんな思いが含まれていたのだろう。攻撃的なチームと守備的なチームの境目。あの報道に対する、まるでそれはアンチテーゼのような。僕のような凡人にはどこまで行っても到底理解できないような。 清武弘嗣選手の、地元でゴールを決めてのインタビューが、心を身体をすり抜けていく。不意に出たものか、それとも意図的なのか。キャプテンの言葉にセレッソファンが騒ついている。今日はもう書く気がほとんどしない。散歩に行ってくる。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

「間」を埋める。「間」は抜かず。

海外サッカーを見る機会がかなり減った。もちろん興味ある試合は今でもリモート観戦するが、年間に数百試合を見るという、若い頃のようなパワーが湧き上がることが少なくなった。ダイジェストの流し見では駄目だなと最近思い始めている。 あの頃はまだ人生のステージを上がりかけていた時期でもあるし、そのうえで時間もたっぷりあった。ひたすら試合を録画して、ひたすら試合を見る毎日。当然ながら学ぶことも多かった。選手個々のテクニックだけじゃなく、環境含め、だ。 来年、2021年のJ1全試合を含む394試合でVAR(ビデオアシスタントレフェリー)の再開が決定した。審判も人の子であるのでミスをするのが常だと思っていたが、よりテクノロジーの力を得て正確なジャジが行なわれることになるのだろう。 僕は、あの「間」がとても苦手だった。海外サッカーを見ていても、プレイがその度に止まってしまう「間」。エラー混みがサッカーの醍醐味だと思っている派としては、このVARに対して非常にネガティブな感情を持っていたのが本音である。 そんななかで毎週のように「Jリーグジャッジリプレイ」を見ていて、なんだか感覚が変わってきたのが分かる。プレイが止まるのは変わらないものの、やはり場面場面でその状況を把握できる仕組みは必要なのだろうなと今ではそう思っている。 何となく、言いたい放題なところと、なかなか大手を振れない(!)ゲスト審判の方との掛け合いが心地良い。そのうえで、DOGSOだとかSPAといった言葉を知りながら毎週学んでいる気もする。やはりこういう番組を見るのもかなり好きだ。 今季はかなりレフェリングに泣かされていることも多い我がクラブではある(多分他クラブのファン、サポーターもそう思っているに違いない)。だが、来シーズンは純粋に「力と力」の勝負ができる環境を持てるようになるのはありがたい。 あとは、この「間」をどのように埋めるのか。できうる限り「間」が抜けることだけは避けたい。各クラブのサポーターも、この「間」をどのように埋めるか。そして、どのように抜けないようにするか。来季に向けて考えていることだろう。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

動かねば。

例の問題については多くの方がほうぼうで動き始めている。さきほども、署名サイトなどを見ながら、 剛柔使い分けながら どんな方向にベクトルが向いていくのだろうかと考えていた。とにかく早く動くこと。それが重要であり大事だと思う。 何となく過去のログを見ていたら面白いこと書いている。ブログそのものも20年以上書き続けているので、セレッソ大阪の多くの歴史と触れることができる。昔から色々と動いてきたんだなとしみじみするとともに、まだまだ感も漂っている。 僕にとって休日は仕事日だ。やりたいことが沢山あってそれがいつまでも続いていく。そんな休日は、好きなことを好きなだけ楽しむのが僕の流儀でもある。「働く」という言葉は「人が動く」と書くくらいだから、やはり、動かねばと思う。 仕事の目的が「お金」だけだったとしたらここまでは続けられない。もちろん「お金」は大事。とは言え、それだけではとも思ってしまう。やりがいは人それぞれ違うのだろうけれど、やはり「お金」だけだというのは寂しい感じもしている。 そんななかで新たに考えているのが、自分自身の持つ技能や能力を社会に活かすことだ。今、いろいろな方と話をしながら、僕自身がどんな貢献ができるのかを検討している。やはり先日受講していたソーシャルデザインが大きな刺激だった。 それに加えて試験勉強も僕には待っている。そしてサッカーショップ蹴球堂もある。休日は自由時間ではあるがとても大事で重要な労働時間だ。だからこそ、休日の概念が常にバランスを保っている。僕にとっては非常に均衡が保たれている。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第28節 サンフレッチェ広島戦。

 あの記事がネット状況に出た日に、とてもワクワクするような企画のことを話していたのを思い出している。どのように進めれば良いかは悩みどころではあるが、まあ、なるようになる、がモットーでもあるので、あまり心配はしていないのだ。 蹴球堂も、サポーターのためだけの単なるグッズの販売から、世の中に貢献できる組織になっていけるような努力を行なっていかねばならない。そのためには多くの徳を積んでいく必要がある。そんなことを噛み締めながら、毎日を生きている。 さてサンフレッチェ広島戦である。桜なでしこの試合を見に行っていた関係で前半途中からのリモート観戦となった。かなり押し込まれたなかでゴールを決められ、相手が一人少なくなった後半ですら、糸口を見つけられないままの敗戦だった。 アミーゴのタイムラインなどを見ていると、やはり幕なども結構出ていたようだ。理想と現実、妄想と保身入り混じる状況下において、何をもって愛を伝えていくか、すべてのセレッソ大阪に関わる人間が考えていくべきなのだろうなと感じた。 三十年近く付き合ってきて改めて思うがセレッソ大阪は本当に良いクラブだ(マ・クベ風ではない)。良い意味でも悪い意味でも、人間性というものが滲み出ている。だからこそ考えるべきときに考える。やるべきときにやる。それが大事だ。 この続きを書いていた最中、ちょっと人様にお見せできるような文章に留まれず、とても過激な内容になってしまったので公開する前に削除した。危ない危ない。いつかどこかでシェアしようとは思うので、そのときまで少々待ってもらえればと。 そう。サッカーショップ蹴球堂がF.C.OITOでRestartしてから半年を迎える。早かったような、そうでも無いような。桜スタジアムとの関係性も、先週色々とワクワクさせられるような内容を聴いて心がはやる。果たして年内に行けるのだろうか。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

なでしこリーグの「最後」の日。

理解することが到底不可能ものなどこの 世の中には 山のように存在している。数え出したらきりが無く、あまり考えないようにしたいと思ったりもするが、なかなかそういうわけにも行かない。どっちに向いたとしても、不条理であり理不尽だ。 何だか似たような言葉なので、つい同時に使ってしまったこの「不条理」と「理不尽」。何となくだがインターネットで調べてみたところ、このふたつは、かなり意味の違うことが分かった。知識が乏しい自分自身に恥じてしまう毎日でもある。 「不条理」とは一般的に「筋道が通らない」「道理に反すること」と書かれている。哲学的には更に衝撃的な言葉で括られている。「人生に何の意味も見出せない絶望的な状況」。いかなこんな僕でも、かなり落ち込んでしまうようなワードだ。 そして次が「理不尽」。こちらは「道理の不尽」から作られた言葉だそうだが、まさに「道理を果たしていない」「道理が足らない」状態らしい。要するにひとことで言ってしまうと「無茶苦茶」だということだ。日本語は本当に難しく感じる。 昨日今日と先輩方の話を聞かせていただいたお陰で、個人的に不満を抱いていたおおよその事柄について理解できた。言うなればこの「不条理」と「理不尽」のハイブリッドである。すべてを信じてきたわけでは無いが、何とも言えない気分だ。 それが、いみじくも試合内容に表れる。来年のことを話すと鬼が笑うと言うが、この言葉通りだとすると、まだ笑ってくれているだけ良いほうだ。ここからどうなるのか、不安しかない。「不条理」になる前に、何とか手を打っていきたいね。 なでしこリーグの「最後」の日をセレッソ大阪堺レディースと共に過ごす。 ファイナルを意識してなのか、 駒沢公園陸上競技場は物凄く強い風が舞っていた。知識が乏しいうえに書けないことがことさら多くて、文章づらに頭を悩ましてしまう。 繰り返しだが、世の中は理不尽だ。理不尽からの逃走か、それとも闘争か。ここからがサポーターとしての道理を貫く時間なのかもしれない。こんな日のトップが良い結果だったことはほぼない。「不信感」の幕がまた出るのも時間の問題だ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

健康体。チームの、人の。

健康診断当日は何歳になっても気が重い。それほど大したことでもないはずなのに、どうしてこんな気持ちになってしまうのかを考察してみた。真っ先に思い当たるのがバリウムという白い液体の話になるのだろう。どうしても得意になれない。 「じゃあ胃カメラにすれば良いではないか」と言われてしまいそうだが、胃カメラは胃カメラで、もっと苦手なのである。初めて行なったときのトラウマというかなんというか、もう耐えがたい苦痛を伴った検査に、号泣しっぱなしだったのだ。 健康体を保つためには大切な儀式なのだろうが、これはサッカーにおいても同様だと思っている。今日、多くのセレッソファンもニュースで見ただろうが、僕個人的に感じるのは、せっかく健康体に向けて進めてきたのにこれからどうする、だ。 監督を決める権利は、もちろんサポーターには無い。うちの歴史の中でも守備重視(という括りで置くのは違うとは思うが)な監督もいなくはなかった。そのたびに攻撃面のテコ入れに失敗してきたが、それは、監督だけの問題でも無かった。 まあ、綻びはここが始まりというわけでもなく、もっと前から蝕まれていた。日々多くの情報を聞くごとに様々な葛藤に苛まれる毎日でもある。冷静になって考えてみれば分かることでも、感情的になると見境がつかなくなるのが人の常なのだ。 健康体を保ち続けるには変化も必要。だが今かと言われたら何と答えればよいだろうか。様々な活動によって健康診断の数値は結構良かった気がする。齢五十。どうにかしてこの先しばらくは生きていかなければならない。続いていくのだから。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

1990年代の「人として」。

先日ある方と話していて、1990年代の日本中のウルトラだった方々が、素敵なビジネスマンになっているという話題で盛り上がった。アメリカワールドカップ予選、フランスワールドカップ予選と本戦での経験が、今の糧になっている気はする。 たしかにあの頃を思い出すと、今日とのギャップが激し過ぎる方もいたりして、「大人になる」とはそういうことなのかと妙に納得してしまう自分もいる。やはりあの1990年代の思い出は何物にも変えがたい。そんな「大人になる」がテーマだ。 大人とは何歳からのことを指すのだろう。まさに永遠のテーマのようにも聴こえる。もちろん少年の心を持ったまま大人になった方もいる(僕はこういう風に言われることがしばしばある)し、年齢だけがその基準では無いことを物語っている。 仕事場でもスタジアムでもそう。大人びた性格、物事の分別がしっかりとしている方がいれば、その逆も少なからず存在する。「大人になる」は人間性のバロメータなのだ。大人として、そして、人として、を、この時代で多くを学んだと思う。 時が過ぎて、今、この「人として」がフォーカスされる時代を迎えている。このふたつのキーワードが非常に重要だと感じる。冒頭の話に戻るが、1990年代を、ウルトラとして生きたことで、今まさに、ウルトラな人生へと向かっているはずだ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

壁。

日に日に感染者数が増えていてかなり大変な状況になりつつある。何度もこの駄ブログでも書いてきたが、やはり「感染しない」ことよりも「感染させない」がまさに壁なのだろう。重きを置くべきなのだろう。そんなことを考えながらの一日。 しっかりと対策したからといって感染しないとは言えないし、その逆もある。しかしながら、自分にとって大事な人のことを思うと、手洗いうがいは当たり前であり、ともに食事をしたとしても、取り箸を用意するなどが、心遣いの壁、なのだ。 今日は予定もかなり詰まっていて結局のところU-23の試合を見ることができなかった。結果だけは見たが、今季のJ3は実に思うことが多い。そこには数々の壁が存在しており、その壁を果たして何人越えられたのか。壁は来季には消滅してまう。 浜田省吾さんの歌に「壁に向かって」というものがある。1976年に発売された「生まれたところを遠く離れて」というアルバムに収録されている、結構お気に入りの歌詞の中、まさにサビの部分にこのようなセンセーショナルなフレーズがある。 死にかけているぜ蹉跌の空で 帰るところも見つけられずに 失くするものも何ひとつ無いまま 雨に打たれて壁に向かって 諸刃のやいば肩にかざして 脅え続けたいつもの通りへ 何だか、今の情勢を物語っているかのようなこの歌詞だ。ちなみにだが、このアルバムには、かなりの確率で心にグサッと刺さる歌がとてつもなく多い(実際、先輩歌手に浜田省吾さんが持っていったたころ「重すぎる」と言われたとか)のだ。 この浜田省吾さんのアルバムはすべて持っていたのだが、たぶん今はMy弟のところにあるはず(今となっては分かる由もない)。コロナ禍だからこそ聴きたい気分になってしまった。壁に向かって生活しているような、そんななかだからこそ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

思い立つのも悲喜交交。

ソーシャルネットワークにおいてはスマートフォンがとても大事なガジェットだ。思い立ったときに利用できて、ほぼリアルタイムにつながりが進行する。サッカーショップ蹴球堂のソーシャルネットワークも、もちろんスマートフォンからだ。 iPhoneを持ち始めてかれこれ十年以上になる。そんななかで多分初めて、手帳型のスマホケースに手を出してしまった。以前は「ケースをするのは漢じゃない」と、まるで何かの受け売りのような態度だったが、人の心はうつろいやすいものだ。 大きな決断というほどのお値段でも無かったが、やりたかったことはICカードをiPhoneと一緒に持ち歩きたかったというその一点だ。どうも別々にあると面倒なことになる憂いを取り除きたかったのだった。その点、このケースは本当に使える。 これはまさに、レビット博士の「1/4インチのドリルの話」だ。今回の場合、僕はスマホケースが欲しいのではなく、スマホとカードを一緒に持ち歩きたかっただけなのだ。そういう意味で考えたとき、ひとつの疑問も同時に浮かび上がってくる。 「なぜ僕はiPhoneとカードを一緒に持ち歩かないといけないのか」ということだ。そもそも相反するかのようなそのふたつの物質を一緒に持たなくてはならないという、根本的な原因を解決していくことこそ、今の僕には重要なのかもしれない。 とかく僕らは目先の問題をクリアしたらそれですべてが解決したと思ってしまう。その最たるものに直面して、安易な方向に行ってしまったのではないか。自責の念も少なからずある。やはり考えて様々試してみて、初めて見つかるものも多い。 ちなみにこの「1/4インチのドリルの話」。ドリルを購入した人はドリルが欲しかったわけではなく「1/4インチの"穴"」が欲しかったのだ。そして今、僕らが考えるのは「なぜ1/4インチの穴が必要なのか」を、その購入者に問うことなのだろう。 もしかしたらハンガーを掛けるためのピンを差し込むのかもしれない。何かの覗き穴を開けるためなのかもしれない。たとえどんな回答だったとしても「それ、本当にいる?別の方法ない?」と話を膨らましていく。ここがスタートなのだろう。 さてこのスマホケース。嬉しがって周りに話したところ、「たしかもうすぐ機種変更だと思いますよ。」という衝撃の事実。耳から脳に直接刻まれていく。だからもう少しだけ余韻に浸っ

困難に立ち向かえ。

サッカーファンやセレッソファンになると、実に記念日が多くなる。ほぼ毎日がアニバーサリーのような状況だ。もちろん、良いことばかりではなく、辛い思い出も蘇るのだが、それも記憶の1ページだと思えば懐かしさと戯れることができる。 23年前の今日。日本代表が悲願のワールドカップの切符を 初めて 手にした。日本サッカーの歴史に大きく関わっているとは言えないが、このジョホールバルにいたことは、その後の自分に大きく影響した。僕はこのとき27歳。まだ若造だった。 二年前にラルキン・スタジアムを訪れた際にも感じたが、やはり日本代表の大事さが身にしみて分かる。すべては日本のサッカーを強くすることだけを考えて走り続けていたように思える。そういう意味では日本代表は強くなり過ぎたようだ。 まあ日本代表はともかく、僕らは常に強くなっていくための努力をしなければならない。どうしても現状を維持することに終始してしまう若者もいたりするが、そんな彼らにはいつも、向上心を高めてもらうための言葉をかけるようにしている。 努力も結果も常にインフレでなければならない。同じことをしたとして、昨年と同じ結果が生まれたところで、それは成長でもなんでもない。目の前に強敵(困難)が現れて、それを超えていくからこそ自分自身が成長するものだ、と僕は思う。 この若者なら強敵を必ず倒してくれると信じているからこそ、その彼や彼女に託していく。これを「無茶振り」と取るか「成長の場」と取るかはすべて本人次第だ。自分に降りかかった火の粉は自分で払い除ける。当たり前と言えば当たり前だ。 それが責任の分界点だ。とは言えその分離がなかなかできないリーダーもいるので、受け取る側の気持ちも分からなくはない。だが、だからこそ、自分自身を成長させるチャンスでもある。日本代表のテストマッチ同様、相手は強いほうがいい。 また、どうせやるなら、その闘い(仕事)はわくわく(柿谷)を持って楽しむべきだ。楽しめない仕事は無いと思うし、もしそうで無かったとしてもどの道「逃げる」という選択肢は無いのだ。心の底から楽しんで立ち向かうほうが気が楽だ。 そしてその場では「持っている技が少ないから」とか、「このタイプとは戦ったことない」という言葉は必要ない。孫悟空だったらそんなセリフは絶対に言わないだろう。常に強敵に立ち向かい、何度傷つけられたとしても必ずこう言うだろう。

日本人ならおにぎりやろ。

今朝、あまりご飯でおにぎりを作って食べた。日本人ならお茶漬けやろ、と叫んでいた方もいらしたがやはり白米は美味い。しかしながら糖質を気にするお年頃であるのも事実で、食事に気を遣う年齢になってしまったなとつくづく感じてしまう。 日本人と言えば、日本代表とパナマ代表の親善試合を録画していたのでようやく見た(しかも後半からしか撮っていないという何たる不手際)。前半がどうだったかは置いといて、後半の選手の一人一人の動き、連動性が非常に素晴らしかった。 ベテランと呼ばれる30代、働きざかりの20代、そして可能性を秘めた10代が入り混じったハイブリッドな選手構成が、ある意味、今の日本の縮図と重なる。どのように融合していくのか、それとも違った側面を見せるのか。組織とは実に面白い。 オール海外組というフレーズも既に当たり前のことのように思えてくるから不思議だ。日本人という特性を活かして世界で活躍する選手たち。海外に出ていくことなく、国内で結果を出し続ける選手たち。それも日本人として素晴らしいことだ。 最近は、日本人としての誇りを問われる場面がことさら多い気がする。物静かで勤勉で清貧。集団での仕事が得意で、多くを欲しがらないという時代は既に過去のものかもしれないが、持っているDNAによって、あるべき未来へ突き動かされる。 次の試合は18日。世界トップクラスのメキシコ代表との対戦が待っている。メキシコ戦と言えば我らの社長、森島さんが日本代表初ゴールを決めた1996年5月29日の博多の森を思い出さざるを得ない。日本人の日本人たるプレイを見せてくれた。 日本は素晴らしい。日本人のポテンシャルは素晴らしい。おにぎりを食べながら僕は、そういや先週も美味しいおにぎりをいただいたことを思い出す。お茶漬けもいいが、たまには自分で握って自分で食べるおにぎりも、実に日本人らしくていい。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第27節 清水エスパルス戦。

幕末明治の大好きな僕として考古学にはそれほど興味が無いのだが、人類の起源については少々関心がある。その他の小説を読んでいると頭が変になりそうではあるが、幕末史のようなプチリアル感はなく、何となくだがロマンを感じてしまう。 特に、宗教的背景については黙々と調べたりしている。何かを話せるほど知識があるわけでもないのだが、やはりというか何というか、歴史の奥深さに酔いしれてしまう。僕はどこまで行ったとしても歴史という言葉から離れられないのだろう。 有史以来セレッソ大阪の長い歴史の中で、アウェイの清水戦というものにはあまり良い思い出が無い。しかもかなりの負けっぷりを見せつけられているような気がする。はてさて、これはDNAがなせる技なのか、それともこれが実力というのか。 今回も、なんだかモヤモヤ感が身体の中を駆け巡るような前半だった。思い出したのがロシアワールドカップ。あのベルギー戦の何気ないワンプレイだった。今日の試合でも嫌なシーンが何度も訪れるたびに、このモヤモヤ感が増福していった。 いつも書いているとおりではあるが「勝敗は兵家の常」だ。勝ちもすれば負けもする。ただ言えるのは、負けるにしても「負け方」が重要だということ。そんな観点からも、九月以降のこの「負け方」は、非常にモヤモヤ感が溜まり続けている。 もうひとつ思い出したが、アウェイの清水戦と言えば「雨」のイメージが強い。それほど回数があるわけではないが、僕が行った試合はほとんど大雨だったような気もしている。そんなことも、まあ歴史の1ページだ。有史以前になりつつあるが。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

予定は未定だということ。

諸々ワークを終えて、後半からセレッソ大阪U-23の試合を見ることができた。今シーズンで終了するこの育成の仕組み。やはりプレイヤーもひとりの人間。彼らを育てることの大事さ。改めて僕の心の中に舞い降りて僕の気持ちに混じっていく。 それにしてもこの若者たちは実によく走る。何かを信じて走り続けているという感がある。もちろん彼らもプロもしくはその位置を目指している身の上なので、チームが無くなってしまうことを考えれば、次につながっていくプレイが必要になる。 誰一人として今の立ち位置を良しとしていたわけでは無いだろうし、むしろ向上心が無ければプロなんて道を考えたりもしないだろう。だが、一歩道を違えば、その向上心が消え去ってしまう方々もいたりする。欲というものが抜け落ちていく。 今、メンタルについての勉強をしているのだが、この欲(欲求)というものの重要を感じながら学んでいる。今日を生き延びるためだけを考えていては、人は明日を迎えることができないのかもしれない。人とはそういう生き物だと書いていた。 明日に期待したり不安を感じるからこそ、人は今を生きられるのだ。何故、辛い思いをしてまで努力をするのか。それは明日、今日よりも成長した自分が見たい。強くなって何かを勝ち取りたい。そんな気持ちの表れが、欲求として現れてくる。 結果的にU-23の試合はスコアレスドローに終わった。来年、何名かの選手はトップでプレイをしているだろう。何名かの選手は、行き場を探してさまよう可能性もある。アカデミーの選手はもしかすると進学するのかもしれない。予定は未定だ。 未定だから期待もする。未定だから不安もある。そうやって人は生きていく。試合を見ながらそんなことばかりが頭に浮かんできた。時間軸で考えれば、今日など、たかだか長い人生のたかだか二十四時間。でもそこにドラマはあり、人がいる。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

ラジオ体操という共感。

最近ワンコの散歩がてら、朝のラジオ体操に参加したりしている。もちろんソーシャルディスタンスを保つために相当離れたところに立つ。かすかに聞こえるラジオ体操第一の音を頼りに、数分間の運動を行なう。何となく日課になりつつある。 特に接点も何も無いのではあるが継続してコミュニティに参加していると、時折お菓子をくださる方がいたり、ワンコの相手をしてくださったりと、人と人がつながっていく感覚にも似ていたりする。その上でお互いが距離を意識していくのだ。 パーソナルスペースという言葉がある。自分自身における他人との距離感。何人からも侵されざるべき場所。サポーターにとってもそうだ。だが、長い時間を共に過ごしていくことで、このパーソナルスペースそのものも共有していくようになる。 たまたま今日、ある写真を見ていて、そんなことを考えていたのだった。セレッソ大阪という意識の共有が可能な物質が存在していることで、僕らはエネルギーを貰いあいながら生きている。まさにそれは「共感」という言葉がしっくりくるのだ。 共感と書くと何だか綺麗事のように聞こえてしまう。正直なところ、そんなものですら超越している感もある。特にセレッソ大阪は2001年、2006年、2014年という三度の降格によって、そのパーソナルスペースが開放されたという気がした。 たかがサポーター。されどサポーター。共同体感覚としてのこの距離感。やはり癒される。しかも面白いのは、それが絶妙なほどに調和が取れていたりする。そしてそれは、何かに突き動かされたのではなく、自分たちの意志が優先されるのだ。 僕がラジオ体操をしている場所の近くに必ず座っているおばあさんがいる。体操することもなく、ただただ見ているだけなのだ。しかしながら、ラジオ体操という共感の観点で見たならば、おばあさんも僕も、もうその一員だ。実に興味深い。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

マフラーはいくらあってもいい。

寒い。寒すぎてついに電気ストーブを引っ張り出してしまった。この前、とある女性に「寒いのと暑いのではどっちのほうが好き?」と聞かれた。「どっちも受け付けない」と返答したところ「わがままな身体ですねー」と一笑されてしまった。 身体も性格もわがままな僕としては、なにより冬が辛いと感じる。そして、そんな冬のサッカー観戦は心が折れそうなくらいに冷える。いくら重装備でも、いくらカイロを持っていたとしてもだ。しかしながらスタジアムに行かない選択はない。 寒さ対策にはいくつかある。そのなかにマフラーが存在している。首に巻き付けると、少なくとも上からの冷えに対してこうかをしめす。サッカーとマフラーは切っても切れないものでもあり、また、重要なファクターともなり得るものなのだ。 今となっては一体何枚あるのかというくらい部屋には無造作に置かれているマフラー。試合のときにも「今日はどれを付けていこうか。やはりネバーストップか、それともボーダーか」なんていう激しいひとりごとを繰り返しながら決めていく。 マフラーはいくらあってもいい。なんだかM-1王者のような口ぶりだが、オフィシャルやサポーターオリジナルなど見ているだけで本当にそう思える。自分なりのマフラーとの付き合い方を見つめ直す季節の到来。マフラーだけに”首ったけ”だ。 そうこう書いていたら、メガストアがあんなことになるというニュースが飛び込んできた。またマフラーを買える場所がひとつ無くなる。だが安心して欲しい。鶴ヶ丘ワンダーランドでは、冬のお供が来店を待っている。あら、このネーミング。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP ※サッカーショップ蹴球堂BASE店は こちら

蹴球堂LINEアカウントの悲劇。

サッカーショップ蹴球堂ではかなり多くのソーシャルネットワークサービスを利用している。そのなかでもメインとしてはフェイスブックが大半なのではあるが、実はビジネス的な話になると、LINEをもっとも活用しているような気がしている。 セレ女 や ULTRAS といったLINEスタンプを販売しているクリエイターズマーケット、そしてLINE for Businessでお客様にサービス提供しているのだが、その LINEアカウント で少々トラブルが発生していた。そんな悲劇について書いていきたい。 とは言ってもそれほど大した話でもないのだが。それはある休日のことだった。クリエイターズマーケットからメールが届いていたため、管理コンソールにログインしようとしたところ、画面には認証コードの4桁が表示されている状況だった、 この画面久々に見たなーとか思い、昨年新たに購入したシャープのAQUOSの画面を開いてLINEアプリをタップするもログイン画面。しまった。てっきり引き継ぎをしているつもりだったが、まったくもってクリーンな状況になってしまった。 もちろん旧端末の回線は解約され、さらには初期化されておりどうしようもない状況。そして僕はあの歌のように途方に暮れた。とにかくLINEサポートセンターに連絡を入れることにした。フォームの入力仕様が難しい。少なくも僕には厳しい。 何とか申請ができたのだが、返信を受けるも、僕の問題だが意図がなかなか伝わらない。やはり語彙力は必要だ。何度かメールのやりとり(情報を何でも残しておく癖がここで役に立った)をすることで、無事、解決方法を教えていただいた。 かれこれ数週間経って、ようやくLINEビジネス関連が復帰したのだった。これは何かの戒めかもしれない。もっと使えよと誰かが言っているのかもしれない。そう思った僕は、これから先このLINEアカウントをフル活用していこうと心に誓った。 気持ちの切り替えと同時に、古いバナーを変えてみた。自分自身の怠慢が最大の課題ではある。しかしながら、ログインが緩すぎるのも問題であり、厳しすぎるのも同様のような気がした。だが、他人は変えられない。自分が変わるのが先だ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

背番号10とわらび餅の接点とは。

鎌倉で買ってきたお土産のわらび餅が美味過ぎて止まらない。夜にいただいた鮪しらす丼といい、やはり旅の醍醐味は「食」だ。しかしながら食べ過ぎには注意する必要が僕にはある。何と言っても近々に健康診断が待っている身でもあるのだ。 この健康診断。今年はどれくらいの箇所に異常があるのだろうか。今年に入ってからほぼアルコールは摂取しておらず、食べ物もかなり気を遣って生活している。最近ではアイスクリームの量も減っており、なかなかの健康体ではあると感じる。 だが、もちろんのこと加齢も相まって、日に日に衰えを実感する。そんななかで清武弘嗣選手の このインタビュー を見た。何故だか「引退」という言葉に対して寂しい気持ちと、不謹慎だがホッとしてしまった自分が共存してしまっているのだ。 そんな清武選手がフルタイム出場している姿をテレビで見ながら、My妻と「よかったよかった」を繰り返している。ここ数年間の怪我の状況からすると、ひとりのセレッソファンとして、正直なところ上位争いしていることよりも素直に嬉しい。 同様に「(怪我すんなよ)」とまるで自分の身体かのように、心の中で祈りながらの毎試合でもある。これこそ「生活の中にセレッソ大阪がある」のか、それとも「セレッソ大阪が生活なのか」という、偽らざる気持ちと言えるのかもしれない。 そうそう自分自身の健康の件。何とか食べ物だけは自分の好きなものを満足に食べてそして死んでいきたいなと思う。コロナ禍で食生活だけでなく生活リズムも今や「純粋無垢」になっているかもだ。そう思いながら頬張るわらび餅は絶品だった。 この背番号10とわらび餅に接点はほぼ無い。だが、このわらび餅の弾力性と清武選手のしなやかなプレイが重なって見えてきたりしないだろうか。・・・しないか(笑)でもまあ、一言で表すならば「どっちもうまい」。お後がよろしいようで。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP ※いやこれはマジで美味い。

旅をしなくちゃならない理由ができた。

何年かぶりに鎌倉を訪れた。前回はプライベートだったが今回はがっつりビジネスだった。だが、生まれて初めて江ノ電に乗ることができて、とても感激している。先頭車両の一番前の席に陣取ってまるで子供のようにはしゃぎ過ぎてしまった。 やはり僕は電車好きなのだなと、改めて思わされた。加えて「路面を走る」という興奮が止まらない環境にも身震いする。大阪にも阪堺電車があるのだが、趣も風景もまったく違ってみえる。当たり前だ。それぞれの良さというものが存在する。 途中の由比ヶ浜駅で降車する。朝が早かったのと日曜日なので人もまばらだろうなと高をくくっていた。しかしながら海まで出てみると、サーファー、サーファー、サーファー。三度言う。ものすごい数のサーファーさんが水の上で漂っている。 そんな高人口密度な海を右手に見ながら進み、目的地へと僕は向かった。砂浜に降り、トンネルをくぐった先にその場所は存在する。「 Le Garage Kamakura 」。そこは素晴らしい風景と多機能性を備えた、正に「最高のシリアスプレイな場」だ。 昨日初めて来た時とは違って見える。電車に揺られ、潮風を浴びて、さらに新たな気づきも加わり印象が変わっていく。所詮、僕の物事の捉え方など移ろいやすいもの(良い意味で)でもあるし、そしてそれは直感を信じるものだけが得られる。 そんな、鎌倉および江ノ島の夢のような旅が終わり、一日ぶりに ワンコと別の旅に出ている(何を偉そうに)。 そういやこの地域には多くのワンコも生息していたなとひとりと一匹が笑みを浮かべて歩いているのを人に見られないよう注意した。 実のところひょんなことからまた鎌倉に行く、いや、わずかばかりだがJリーグに関わる者としてはこの旅をしなくちゃならない理由ができたように思える。出会いはいつ、なんどき、どこにあるのかなど分からない。まあ旅とはそういうものだ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

今、ここにある「個」。

一対一の局面で逃げずに戦えるか否かが試合の鍵になることも多い。何となくチームスポーツの場合、グループとグループの勝負に思えてしまいがちだが、日本代表での議論のとおり、最後の最後は一人一人の強さ。まさに「個」の戦いになる。 「個」の戦いと口にした途端に言われてしまうのは、独りよがりだとかチームの和を乱す張本人的な言葉のオンパレードだ。だが僕的には、この、如何に対面の選手との一対一に勝てるかというところに、すべての要素が含まれている気がする。 ピッチには常に11の「個」が存在しており、それら同士がつながって(コネクトされて)いくことによって一体化を行なっていく。つながりかたはどうなのか。強いのか弱いのか。高いのか低いのか、距離はあるのか、それともすぐそばなのか。 だからこそ「個」の集合体がチームと呼べるのではないのだろうか。「個」は、すべての局面においての必要な要素でもある。そんな、魅力的でもあり、且つ、最も大事な「個」というものを、僕は出来得る限り追求していきたいと思っている。 今、レゴ®シリアスプレイ®の勉強会にこの二日間参加している。この勉強会での自分自身のテーマも、何の因果か「個」だ。何とも、めぐり合わせとは本当に突然訪れるものだ。素敵な出会いも相まって気力が高まっているのは言うまでもない。 そう言えばこの前読んだ記事に「三国志の関羽雲長がそれほど一騎討ちをしていなかった」という衝撃的な内容が書かれていた。確かにこの場合、三国志演義と正史のあいだにはギャップがあることは常に言われ続けてきたので、納得感もある。 そういう意味でもこの「個」というものは、長い道の先に起こる出来事なのではなく、今まさに、そこに、瞬間的に存在しているものなのだ。常に、一対一の局面で逃げずに戦える気持ちを忘れずにいたい。あと一日、まだ一日あるのが幸いだ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

リーダーは大変だ。

強いチームコミュニケーションはやはり素晴らしい。試合中にはいくつもの場面で話し合ったりしている。モニタ越しでもその対話の状況が見えてくる。ピッチに立っている全員の言葉が次々に繋がっていき、不確実性の中で結果を示していく。 そんな、コミュニケーションのひとつである会議はどうだろう。ある方に聞けばほぼ必要無いと言うし、ある方に聞けばやはり重要だという声も聞こえてくる。いるかいらないかの話をすると不毛になりそうなのだが、今日は少し書いてみたい。 「人には二種類しかいない」とあの御方は話しておられるが同様に組織の会議でも「話す人」と「話さない人」の二種類が存在している。だがこの二項対立のように見える状況が問題だ。その理由は、話がすんなり決まりすぎる、ということだ。 「鶴の一声」がすべてを決めるのならば、何のための会議なのかとなってくる。もちろん、何かを選択する瞬間は誰かが責任を持たなければならない。だが、それ以外のケースはすべて「話はすんなり決まらない」会議と言っても過言ではない。 ただ、このような会議になったら、言葉がシャワーのように出る組織と途端に言葉が根詰まりする組織という二種類に分けられていく。問題は後者のほうだ。当然ながら考えや思いはあるものの、言葉にするのが難しいと、いう場面も多々ある。 だから僕はレゴ®︎シリアスプレイ®︎のメソッドで自部門の会議やミーティングを置き換えてみることを薦めている。マネジメントやリーダーが、このような「話はすんなり決まらない」会議で疲弊していくのを見ているのが心苦しいのもあるのだ。 自分自身も同じような経験も多かったが、様々な場面でこのメソッドを利用することで、心が安らいでいく感覚を得た。マネジメントもリーダーもすべての答えを持っているわけでもないのに、何故か何でも知っていることが前提になっている。 それができる人間だけにリーダーの素質があるわけでもない。リーダーは、すべての言葉から道を照らす役目なのであって、自分が何でも決める役目ではない。その、すべての言葉を生み出す、見つけ出す、そして閃くを僕はお手伝いしていく。 我らのキャプテンも同じように悩んでいるのだろう。すべてにおいて不確実に見えるなかで、どのようにして個性やそこから生まれてくる言葉に向き合うのだろうか。どんな世界もリーダーは大変だ。大変さを共有できればな、と思ったりする

僕らには「歴史の語り部」が必要。

歴史を大事にしない人間は最後に歴史に泣くことになる。これは僕がいつも感じており、そして自らの糧としている事柄でもある。だからこそ若い頃からこの国の歴史に興味を持ち、わずか150年前のことではあるが幕末などの史跡を巡っている。 その、行く先々で史跡があるか無いかを調べる際には必ずと言っていいほど訪れるデータベースのようなWebサイト(ブログ)がある。都道府県、年代や人物などで検索でき、その詳細も掲載してくださっているので、本当に重宝しているのだ。 しかも解説だけではなく、ご自身が持つ感情や心情が文章には盛り込まれており、検索する人の心を揺さぶる。対象の内容そのものだけではなく、やはり魂がそこに込められているというだけで、気持ちの高ぶりを抑えられなくなってしまう。 だからこそ、というわけでは決して無いのだが、セレッソ大阪の歴史、特にサポーターの歴史については強く思うところもある。僕らには「歴史の語り部」が必要である。そして常に、その情報には誰もが触れることのできる環境が重要なのだ。 僕自身も取り留めのない駄ブログや CEREBAKA 。そして、あの2000年5月27日を思い出すための remember527.com を運営はしている。もっと多くの語り部が増えて、いろいろと多面的にサポーターを見ることができるのが望ましいと思う。 もちろんそのためにはコンテンツが必要で、その上でそれらを取りまとめるようなデータベースがあるのが良いと僕は思う。僕には才能は無いが、幸いにもその筋のセレッソアミーゴの存在を知っている。いつの日か動き出してくれるのだろう。 それともうひとつ。セレッソ大阪サポーターのための、語り継がれていくべき歴史を知る機会も同時に準備していかなければならないのだ。その講演会もなかなか開催されていないので、ここのところもよろしく、と念押しでお願いをしておく。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP 僕のMacBook Airが新しくなった。 だがそれほど使いこなせてはいない。

第26節 大阪ダービーマッチ(ザ・パーク・ダービー)。

唐突ではあるが、僕は政治というものに非常に興味がある。とは言え自分自身が政治家になりたいというような、そういう願望よりも、この国や自分が生まれ育った地域の政や街づくりがどうなっていくのかという部分に対しての思いが大きい。 今はアメリカ大統領選挙が話題独占(この選挙方式は良くも悪くも興味が尽きない)だ。しかしながら我が街大阪(と東京都民が言う)でもここ数週間は熱い日々だったように感じる。それに呼応するかのようにサッカーが微妙に関わっていく。 世界のダービーマッチを見渡しても、政治(というか社会というのか)との関わりで始まったものは多い。すべては「点」ではなく「線」で繋がっているのだと思うと、投票日まで続いていた話題は、あって然るべきと言えるものなのだろうか。 四十回という節目の大阪ダービー。今年もヤンマースタジアムに行きたかったのだけれど、やはりこのような状況下でもあるので泣く泣く自重することにした。モニタ越しに見てかなりの観戦客でもあり、日常とまではいかないが、正直嬉しい。 ミスが多かった試合ではあったが、どちらかと言えば勝ち点ふたつを落とした感のある引き分けだった。中二日と中九日をどう見るか、現在の調子をどう見るかに話が向いていた。だが大事なのは自分たちがどうあるべきか、という部分だろう。 スタジアムにはもう、セレッソ大阪ダブルをその眼で見たファン、サポーターが少なくなってきているかもしれない。時代は移り変わっていき、人もクラブもそれに同調する。嬉しいようなそれでいて少し哀しみもあるような、そんな気持ちだ。 そんなに簡単にダブルが成し遂げられるとは思っていなかったが何となく気配はしていた。しかしながら、やはり、ダービーマッチはそれほど甘くはない(だからダービーマッチなのだ)。来年のホームアンドアウェイも実に楽しくなりそうだ。 大阪がどのような街になったとしてもダービーマッチは変わることなく永遠に続くストーリーだと僕は思っている。彼らがいるから僕らがいる。府も市もそこにあるサッカークラブも「線」で繋がっている。そこにはREALがはっきりと存在する。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

POWER AND THE GLORYとアンセムについてのいくつかの観念。

頑固なほどのこだわりを見せる瞬間が、人生には何度かある。それは大小問わず、その人間にとって通すべき意地のようなものでもある。この意地はもしかしたら子供なのかもしれない。だが、避けて通ってはいけない、歴史の転換期でもある。 スタジアムの演出が大きく変わる瞬間がこのクラブにも何度か訪れたが、そのたびに守り続けてきたものがある。それがPOWER AND THE GLORYだ。何よりもこの歌にこだわり、残す努力をしてきた。いまホームゲームにはなくてはならない。 このPOWER AND THE GLORYが長居スタジアムから消えようとしたならば、毎回、強いこだわりと気持ちを持ってこの歌の歌詞について説明をしてきた。もちろん、そのおかげでは無いとは思っているが、その都度分かってもらえた気がする。 今となっては当たり前のようにスタジアムに鳴り響く。志は伝わり、そのこだわりや気持ちが次に伝わり、またその次に伝わっていく。それが歴史であるのだなと感じる。時は流れたとしても、その思いが明確な形となって目前に広がっていく。 ヤンマースタジアムに天童よしみさんのアンセムが流れる。ダービーマッチという意味合いだけではなく、心の底からこのアンセムに対しての感情などが改めて込み上げてきた。やはりスタジアムという場所は、頑固なほど感動を生む場所だ。 ダービーマッチについて書こうかと思っていたのに、どうしてもこの文章を書きたくなってしまった自分。やはり才能が無いな。だがこのこだわりが実に僕らしい。POWER AND THE GLORYとこのアンセムを創った御方にリスペクトしかない。 サッカーはゲームが一番だと言う人もいるだろう。応援なんて応援歌なんてという人もいないはずはない。だが、このふたつが融合したときに起こる感情。関わった人間だからこそ分かるものも少なからずある。少なくとも僕はそう生きてきた。 だから今のサポーターの方々にも、この二つの音楽を大事にしていってもらいたい。もし、クラブが道に逸れるようならば、頑固なほどのこだわりで彼らを導いて欲しい。この音楽たちへの気持ちは、サポーターだからこそ味わえるものだから。 いつか僕が死を迎えるとき。もし葬式などが行われるようであれば、この二曲で送り出して欲しいなと真剣に思う。一体何の祭りなのだと近所から言われそうではある。だが安心して欲しい。多分だが、そ

遊び心。

大事な大事な大阪ダービーマッチの前日。大阪都構想住民投票の翌日。そんな一日だったが、ひたすらレゴ®︎シリアスプレイ®︎のワークショップを行なっていた。 どのように 組織やチームに棲みつく多くの問題(ビースト)と向き合っていくのか。 ファシリテーターとしての自分と参加者としての自分。そしてオーディエンスとしての自分。一歩下がってみて俯瞰的に見ると違った側面がまるで水面のように目の前に広がる。レコブロックだからこそ成し遂げられるものもあるということだ。 おもちゃだからこそ違った意味での真剣さだからこそ見えてくるものが多いのがレゴ®︎シリアスプレイ®︎なのだ。そのシリアスとプレイの間に存在する「遊び心」という要素が、今の時代でとても重要になっている。そこに攻略の鍵はあるだろう。 皆、あがいている。何か突破口は無いか。劇的に一変させる方策は果たして何なのか。明日の試合もそう。出場の機会が訪れるか否か。そのときを待ち続けている選手も多いだろう。だがピッチに立つことを、最後まで叶えられない場合もある。 さて大阪ダービーマッチだ。選手はピッチに立てることを誇りに思わなければならない。コロナ禍においてこのような濃密な戦いが見られるのにも感謝しなければいけないのだ。そしてこの試合で大事なのが「遊び心」なのだと僕は思っている。 「遊び心」に惹かれる人もいれば嫌悪感を示す人もいるのは事実だ。しかしながら僕は彼のこの「遊び心」に期待せざるを得ないのだ。明日もどうなるか直前まで分からない。そしてその「遊び心」を見たとき、誰もが魅了されてしまうだろう。 レゴ®シリアスプレイ®のワークショップは童心に帰るのではなく、また、おもちゃを楽しむというものでもない。「遊び心」を持つことで効果を発揮する。最高のプレイも最高のアイデアも、凝り固まった思考のなかでは決して生まれやしない。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

ザ・パーク・ダービー。

大阪ダービーマッチの思い出は数多くある。セレッソ大阪ファン、サポーターにとっての最高の場面は2017年のルヴァンカップセミファイナルなのだろうか。また、もう少し時計の針を戻したとするならば、2011年のACLということになるのか。 個人的に90年代の万博競技場でのダービーマッチがものすごく印象に残っている。試合も非常に拮抗した内容が多かった。今ではなかなか書けないような、サポーター同士の熱さも忘れがたい。だが遠い昔を懐かしがっているだけではいけない。 今回はなんと40試合目の節目のゲームとなるらしい。結果はかなりの割合で向こうに分があるが、とにかくダービーマッチとは結果が見えないものだ。今回も立ち位置や現状を見てもどうなるのか予想もつかない。だからこそ、ダービーなのだ。 現在大阪ダービーマッチ連勝中であるもののここ数試合で結果が出ていないうちと、目下絶好調とも言える向こうのチーム。二位以内に入るためには、もうここからすべての試合で負けられない。どのような試合になるのか、今から待ち遠しい。 今回はうちのホームだが、そう言えば両クラブのスタジアムとも緑が広がる公園という素晴らしい立地環境下にある。「ザ・パーク・ダービー」とも言える、世界にも誇れる街の威信をかけた戦いをじっくりと集中してテレビ観戦したいと思う。 さて、当の90年代の大阪ダービーマッチだ。ホームゲームで一番鮮明に覚えているのが1999年の試合だ。当時在籍していた西谷正也さんが、相手ディフェンスを完璧なほど切り裂き、"チンチン"にしていた場面だ。この時の相手ディフェンダーは。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP この写真は2019年のホーム