最近ワンコの散歩がてら、朝のラジオ体操に参加したりしている。もちろんソーシャルディスタンスを保つために相当離れたところに立つ。かすかに聞こえるラジオ体操第一の音を頼りに、数分間の運動を行なう。何となく日課になりつつある。
特に接点も何も無いのではあるが継続してコミュニティに参加していると、時折お菓子をくださる方がいたり、ワンコの相手をしてくださったりと、人と人がつながっていく感覚にも似ていたりする。その上でお互いが距離を意識していくのだ。
パーソナルスペースという言葉がある。自分自身における他人との距離感。何人からも侵されざるべき場所。サポーターにとってもそうだ。だが、長い時間を共に過ごしていくことで、このパーソナルスペースそのものも共有していくようになる。
たまたま今日、ある写真を見ていて、そんなことを考えていたのだった。セレッソ大阪という意識の共有が可能な物質が存在していることで、僕らはエネルギーを貰いあいながら生きている。まさにそれは「共感」という言葉がしっくりくるのだ。
共感と書くと何だか綺麗事のように聞こえてしまう。正直なところ、そんなものですら超越している感もある。特にセレッソ大阪は2001年、2006年、2014年という三度の降格によって、そのパーソナルスペースが開放されたという気がした。
たかがサポーター。されどサポーター。共同体感覚としてのこの距離感。やはり癒される。しかも面白いのは、それが絶妙なほどに調和が取れていたりする。そしてそれは、何かに突き動かされたのではなく、自分たちの意志が優先されるのだ。
僕がラジオ体操をしている場所の近くに必ず座っているおばあさんがいる。体操することもなく、ただただ見ているだけなのだ。しかしながら、ラジオ体操という共感の観点で見たならば、おばあさんも僕も、もうその一員だ。実に興味深い。
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