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8月, 2021の投稿を表示しています

第27節 大阪ダービーマッチ。

ダービーとはなにか。というテーマは、サポーターにとっての永遠の問いだ。ただ単に3ポイントを奪い合う(ときには一点ずつ分けあうのだが)だけの、そこらへんの試合とは違う。これはクラブが生まれた28年前からまったく変わっていない。 また逆の意味でダービーとは、その街のバロメータにもなり得る。サポーターのモチベーションやテンションによって、試合の質はかなり変わってくる。そんな生活を、人生の半分以上の期間で意識しながら生きていると思うだけで身震いする。 ましてやとんでもないかたちでの監督人事が行なわれた直後でもあり、サポーターの葛藤が手にとるように分かる展開が繰り広げられ、その渦のなかで、いくつかの番組で話をさせてもらった。そこでも明確なことはただひとつだけなのである。 さて、その本題のダービーは、小菊さんによってどういった色にチームが染まっているのか(たった二日で染めきれたのかは想像に任せる)を確認する試合でもあった。ダービーをそんな品定めのような言いかたになってしまい申し訳なかった。 そんななかで、戦う姿勢を存分に見せてくれたチームに心が躍った。話の中でも、どこまで原点回帰するのか、という部分に興味があったが、この四年間という濃密な時間がグッと凝縮されているのではないかと思い、それでいいや、と感じた。 ダービーの重みと、重苦しい空気を払拭する気持ちとのギャップはそれほどなかった。もちろん相手があってのことなので、一概に比較することをしてはいけないのだろうけれど、監督を変えるとは多分こういうことなのだなと改めて思った。 勘違いをされたくはないが、チームの空気を変えるのと、クラブのコンセプトを変えるのは、似て非なる。いや、まったくもって意味が違う。だから僕らは、覚えておかなければならない。クラブのコンセプトは何も変わっていないと推測する。 だが、まずは小菊さんの元で輝きを取り戻した選手たちが多かったことを喜ぼう。大阪ダービーという勝ち点3以上のありがたみを感じよう。その歓喜も今日を過ぎれば、明日からまた過酷なダービーマッチの旅路が続くのだ。まずは熟睡からだ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

誕生日を過ぎて、思う。

先週、誕生日を迎えた。もう、祝う歳でもないのではあるものの多くの方からのお声をいただき、さらに精進しなければと強く感じている。歳を取れば取るほど、心と身体のバランスを意識していかねばならないことを強く感じながらの毎日だ。 この、心と身体のバランスのひとつに、セレッソ大阪というパラメータがある。サッカーには勝ち負けが存在し、それは時の運でもあるのだが、ゲームのひとつひとつに一喜一憂してしまう。どちらに振れても、心と身体への影響力が半端無い。 さて我らがセレッソ大阪にとってのJリーグ。この道のりはなかなか勝ちにたどり着けていない。ストレスが溜まり、心身のバランスへ負担をかける日々でもある。しかも、シーズンが終盤へ近づくにつれて、あっちこっちへと転移してしまう。 これは愛のせいだ。愛、という名詞と、愛する、という動詞を人は持っていると7つの習慣では書かれていた。愛は瞬間瞬間の表現であり、逆に愛するという行為は時間の概念である。文字どおり愛し続けるという連続する刹那なのでもあるのだ。 我がセレッソ大阪はこの、愛する、という連続体のなかで息をしている生き物のようである。そしてその血や肉は、ファンやサポーターの思いによって構成されているのだ。クラブとはそういうものであって、それ以上でも、それ以下でもない。 今日、ワクチンの二回目を接種してきた。僕の心身すべてが満たされるわけではないのだろうが、まずはひと安心している。先日のハッピーバースデーソングとこのファイザー製の液体が、心と身体のなかを駆け巡っている。まずはそれでいい。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

絶対やれる。

オリロスとはこのことで、コロナ禍の休日の過ごしかたを忘れてしまっている。そういう意味でもスポーツというものは人の心を揺さぶる力があるな、と感じる一方、悪意の対象にもなりうる。どこまで行っても、すべては人のやることである。 言葉はとても重厚だが捉えかたひとつで変化してしまう。受ける側にとってそれは批判にもなり中傷にもなり、逆に励ましにもなる。たとえそれが発信者側の意図しないかたちで受け取られたとしても、ひとつひとつの言葉には責任が存在する。 さて、当のセレッソ大阪である。無失点試合を喜んでいる場合かそうでないかは、捉えかたにもよるだろうが、全体的なチグハグさは素人目に見ても歴然だと感じる。昨年の今頃は安心して見ていられたが、実にもどかしい日々を過ごしている。 「絶対残留」など身に付けたくないのだが、このまま進むと想定の範囲として受け止める必要性が出てくるのが実情。ファン、サポーターがスタジアムでどのような状況かは窺い知れないものの、多くの言葉で埋め尽くされたのは間違いない。 そんななかでもいくつかの光明が見つかったのは嬉しい。選手もサポーターも、いま必要なのは若い力かもしれない。隣の芝は青く見えるが、客観的見方、逆説的な話をするならば、それだけ若い方々にチャンスが訪れているということなのだ。 そんなことを仙台戦を見て感じてしまった。だからこそ若い彼らの奮起に期待するとともに、この逆境を何とか自らの手で乗り越えてみせてほしいと思うのだ。君たちなら「絶対やれる」はず。だからこそ僕らおっさんは君たちを見続けている。 今日のアビスパ福岡戦。かなり大変ななかでのプレイを強いられると思う。僕らの道のりにはいつも試練が待ち受ける。だがそれがなんだというのか。乗り越えられる選手たちだと信じているし、そして、必ずやってくれる選手たちなのでもある。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

次の一足、最後の一足。

日本国民にとって様々な思いが集まった東京オリンピックがいよいよ最終日を迎えている。想定できた事柄、想像を超える出来事など、言葉や文章だけでは表現できないようなシーンの連続。これが「スポーツの力」なんだろうなと感じている。 そんななか、一番の楽しみであったサッカー競技では、男女ともに非常に厳しい現実を突きつけられたように感じている。母国での今回のオリンピックでの無観客のスタンドを見て、ファン、サポーターの重要さや必要性などを強く考えていた。 三位決定戦は結局、仕事の関係でリアルに見ることができなかった。結果は知っていたものの録画した映像を翌朝視聴した。日本の夏、中二日の強行日程と、限界に近い選手達。次の一足、最後の一足が出てこない姿をひたすら目で追っていた。 僕らファン、サポーターが代わってやれるはずもない。彼らの身体的な疲労を回復させることはほぼ不可能だ。だが、僕らには声があり、クラップがあり、何より彼らを心の底から支えようとする「スピリット」「マインド」が備えられている。 僕らは、それらの武器をなかなか活かせない、もどかしい日々を過ごしている。 セレッソ大阪サポーターだけを見ていても、 毎週木曜のウダ夜に話をしていてそう感じてしまう。いま、日本全国のファン、サポーターの気持ちも同様なのだろう。 コロナ禍となって以来、もうかれこれ、一年半以上は大阪に戻っていない。自分自身もそうだが、もとより、東京に住む者としての、自分の周りの方々への配慮の気持ちが非常に大きい。時間の経過とともにそれが限界に近づいているのも事実。 東京パラリンピックが8月24日から始まる。ここでも無観客競技が行なわれるなかで、僕らファン、サポーターの「声」と「クラップ」が選手に届きにくい。次の一足、最後の一足を、選手個人に託さなければならないのが、本当に寂しいのだ。 僕のその限界を乗り越えさせてくれるのも、アミーゴの「声」や「クラップ」。だから僕は今もここに生きている。僕らはスポーツを愛し、そしてスポーツから多くを学ぶ。ウィズコロナでのオリンピックを開催した国、日本。もう少しの時間。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP