個人的な理由で申し訳ない。 それなりに悪い成績でもなかったのだが、 勉強自体は好きとは言えなかった。特に、 算数や数学というジャンルにおいてはやや苦手に思っていた節もあ る。大人になってようやく、数字の面白さに気づいた気もする。 先日少し話題になっていた この記事 を改めて読み返してみた。 特定の数だけを抜いた 0から9までの数字を並べる。その数字に対していろんな数字をかけることによって、様々な「化学反応」を起こすというもの。読んでいると実にワクワクする。 「奇跡」と呼ぶのが相応しいかどうかは凡人の僕には到底分からないが、この数字が存在しないだけでこんなにも不思議なリアクションが起こることに感動する。存在しないことを証明するのと、存在することを証明するのは、共に難解である。 では、そのワクワクを引き起こす数字とはいったい何番なのかということだ。セレッソ大阪ファンの方ならば間違いなく「あー。またこいつ言ってるよ」とのため息が出ているものと思われる。その数字とは紛れもなく、そして、幻影のようだ。 ちょうど一年前くらいから始めたF.C.OITOのプロジェクト。このようなコロナ禍であっても多くのお客様が来てくださり、魔法のような時間を味わってもらっている。いくら同じ番号とは言っても、もちろん僕らは魔法を使うことなどできない。 いつからこの番号は、魔法使いのような位置付けになってしまったのだろう。長い長い歴史を思い出しながらそんなことを思いつつも、当然、世代にもよるのだろう、とか頭の中を巡らせている。この記事を見て率直に感じたのはまさにそれだ。 1997年シーズンに固定番号制が始まり、そこでさもアイデンティティの一種になってしまった。そこから11年後にこの番号は「引き継ぎ式」が行なわれることになる。偉大かどうかはさておき、クラブにしてみれば立派なステータスなのである。 時を戻す(漫才ではない)。あの日、常に自然体でそこにあったはずの番号が、特別な存在に変わってしまった。0でも1でも2でも3でも4でも5でも6でも7でも9でもない存在に変わってしまったのだ。僕は思う。そうしたのは紛れもなく僕らだ。 「おはちがまわってくる」という言葉がいま適切かどうかは分からないが、僕らは改めてこの番号の存在意義と価値を考える必要があると感じる。そういう意味でもF.C.OITOと命名したことは本
dobroサッカーショップ蹴球堂オーナーの憂鬱。この狭い世の中を適当に歩きながら、セレッソファン、サポーターに勇気を届けたいと思います。どうぞよろしくお願いします。