もうすぐ二月である。新しい一年のスタートと思っていた矢先、既に一ヶ月が経過していることに驚愕する。時が経つのは実に早い。特に、齢五十を超えてからというもの、一日一日を大事にしなければと感じてしまう。そんな、毎日でもある。 セレッソ大阪が始動して結構経っているものの、まだまだモヤモヤが多発しているファン、サポーターも少なからずいる。そんなさなかによく分からない、例のあの問題などが起こり、ますます頭が混乱してくる気がするのは気のせいだろうか。 「言葉の綾」などに代表されるとおり、言葉というものは本当に難しい。書く言葉、話す言葉。それだけではなく、人と人とが交わると、そこには無数の「綾」が現れてくる。人間に色や形や考え方があるように、綾にも様々な形状が存在する。 クラブと選手の綾、選手とサポーターの綾そしてクラブとサポーターの綾。そのすべてにおいての綾もまったく違った容姿であろうし、意味合いも変わってくる。何だか文章がおよそ哲学的な様相になってきてしまったのでブレーキをかけよう。 話は変わるが最近「社会学史」という書籍を読了した。人の社会との関わりにはすでに綾が存在しており、理解できること理解できないことがからまり合っていることを知る。併せて昨年末に二ヶ月ほど心理学を学んでみて、感じるものがある。 まあまあ暗い話も多く、2021年シーズンがどうなることかと思案してしまうのだが、希望が見える話題もチラホラ現れてくる今日この頃。本日久々に「 CEREBAKA 」今回は第三節の収録だ。少々、いや、かなり停滞しており大変申し訳ない思い。 この「 CEREBAKA 」も本来ならば F.C.OITO で語り合いたいと思っているが、まだまだリモートを余儀なくされている。だが、なんとか人と人の交わりというセレッソ大阪サポーター同士の「綾」を記録していく。本当に本当に大事な時間なのだ。 辞書で調べたりすると「綾」は「文」とも置き換えられることがある。やはり「綾」を追い求める僕が「文」をも追い求めるのはまさに必然と言える。言葉や文章の意味と価値を改めて高めていく。テキストの重要性を更に意識していこうと思う。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP
dobroサッカーショップ蹴球堂オーナーの憂鬱。この狭い世の中を適当に歩きながら、セレッソファン、サポーターに勇気を届けたいと思います。どうぞよろしくお願いします。