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6月, 2020の投稿を表示しています

適当だけど「上を向いて歩こう」。

今日。6月30日。ちょうど2020年の折り返し地点に僕らはいる。この駄ブログで再三再四書いてきたが、元旦から(厳密には昨年末の12月28日から)毎日投稿し続けてきたわけで、今日がその半年の節目ということになる。感無量も何もない。 ちょっとだけ読み返してみる。考えてみたら実にくだらない言葉のオンパレードだ。読む人の感情などまるで無視したかのような。そんな状況のなかでも「ブログ見たよ」と言ってくださったりコメントをいただけたりと本当に幸せを感じる。 タイトルにある「dobroサッカーショップ蹴球堂オーナーの憂鬱。この狭い世の中を適当に歩いています。」。・・・後ろしか合ってないやん、と遠くから怒りの声が聞こえる。適当過ぎる内容と格好だけフレーズ。まさに「適当」が似合う。 しかしながら、文章を書くにもかなりのパワーを振り絞っている(のが見えなくていい)。中々進んでいないのはたぶん気力が衰えているからだろうか。そういった状況の中で、自分自身の気持ちをぶつけていく先がこの駄ブログでもある。 先程、久々に筆を進めた。いまサッカー関連の小説っぽいものを書いている。とてつもなく偏屈な内容はまだまだ明かさないほうが身のためだ。文章を書くことで平静を保っている僕としては、これからも何かを記していくしか、道がない。 そんな駄ブログ半年投稿記念というわけではないのだが、すき焼きを作ることにした。当たり前だが割り下なんてものは使わない。醤油と砂糖と日本酒でしっかり作る。適当っぷりを全面に出し、これらをササっと入れる。良い味になった。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

歴史の掟。

週明けの月曜日。土日を含めて、とにかく今週も色々と周りに何かがやってきて、なにかと僕を楽しませてくれる。そこにはもちろん、良いことだけでなく悪いことも一緒にやってくるわけだから、人生とは、仕事とは、実に面白い物語だ。 今読んでいる書籍にもそんな歴史の中での浮き沈みが書かれており、共感を持って読書に勤しんでいる。やはり歴史というものは儚いから尊い。歴史は必ず勝者が書き換えるものであるわけで、後々の世に伝えられるときには、既に虚構だ。 ある意味、真実というものはぼやけてしまい、正否などはどこか彼方へ飛んで行ってしまう。歴史を愛する者からすれば、まあそれはそれで良いと思ってしまうし、それが歴史の掟だとするのならば、そのような真実も受け入れるほかない。 セレッソ大阪の歴史もすべてが美しいものばかりでもない。前述のように「書き換えられた」事柄も少なくないようにも思える。クラブがあり利害関係者がいて物事は成り立っていると言っても過言では無い。バルカン路線などいい例だ。 そんなことを思ってしまった今日。ようやくサッカーショップ蹴球堂BASE店に商品を掲載させていただいた。「SUPER DOBRO #22」Tシャツ。この言葉をクロアチア人アミーゴに教えてもらってからはや18年。月日が経つのは本当に早い。 歴史は歴史のまま描くほうが僕は良い気がする。とにかく今はこの”J最強ディフェンダー”とともに前に向かって歩き続ける日々が嬉しい。そういやメッセージ付き画像を送り忘れていて、先程コールリーダーに送信。これも歴史の掟である。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

物理的な「人と人の距離」をどう考えていくか。

J3の開幕戦であるセレッソ大阪U-23と鳥取の試合を見ながら、数字やデザインなど黙々と仕事をしている。もともとからデスクなどを含めて自宅で仕事できる環境があるおかげで、非常にワークライフバランスも充実している気もする。 ニュースなどを見ていると「ストレスが溜まっているので飲みに行く」なんていうワードが飛び交っているが、元来が出不精なのでそれほど感じることはないのが救いだ。そんなストレスも「つながっている」気持ちでクリアしている。 それでも、オフィスでの仕事となると非常にデリケートになってくる。「職場で働く」っていうシステムは本当に難しいなと思う。ひとりひとりに思惑もあり考えるべき事柄が非常にたくさんある。 このようなコラム が掲載されている。  今DAZN観戦しているリモートマッチのキックオフ直前もそうだが、入場も整列もソーシャルディスタンスを保っての状態。もちろんオフィスもそうだ。どうしても人と人の距離は今までのようにはいかない。では日常ではどうなのだろう。 距離を多く持つとそれだけ感情が伝わりにくい、保つ距離の量によって上からの評価が変わってしまうのも問題(それ以上かも)だ。人と人の距離が物理的なものに影響され、制限されてしまう時代は、ここでもう終わるのかもしれない。 サッカーの世界もそうか。縦105m横68mのピッチ内における人と人の距離。既に横幅を目一杯使ったサッカーが当たり前ではある。流石にコンタクトの接近戦は仕方ないしゴール後はどうしても接触してしまうのも、人の常と言えてしまう。 精神的な距離の壁と同様に物理的な「人と人の距離」をどう考えていくか。社会の一員として改めて前向きに捉えるとともに新たなマインドそして行動を意識していきたい。まずはこのカエルとワンコとの距離を・・・あ、人では無かった。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

再開に思う。

僕らのJリーグが始まった。こんなに待ち遠しい気持ちで迎えたのはいつ以来なのだろうか。開幕戦もたしかに高揚感があるが今回はまた違った思いでもある。仕事の関係でU-23の試合自体はまだ見てはいないが、開催されるだけで十分嬉しい。 ここから水曜日と土曜日には試合が行なわれるという過密日程。そのほとんどがリアルタイムで見れないんじゃないか。多分想定通りになるだろうが、それだけ楽しみが多いと思えばいいか。出来る限りポジティブにいければそれだけでいい。 もともと「リモーター」だったのだから観戦自体はそれほど苦ではない。しかしながらヨーロッパの試合を見ていて感じる「音」。やはり、歓声というものがサッカーにおいて非常に大事なことを改めて理解する機会を貰えているのでもある。 まずは今日の試合を見たいのだがもうこんな時間か。明日にでもDAZNの見逃し配信を見よう。そういえばサポーター全員がリモーターになった瞬間のアクセス状況はどうだったのだろう。IT屋としてはとても気になる項目なのでもあるのだ。 この再開の日にF.C.OITO、サッカーショップ蹴球堂にお越しいただいたようで本当にありがたい話だ。まだまだアイテムも少なく選ぶ楽しみが足りないのは重々承知のうえ。今日も「あれ作って」とオファーが来た。開幕とは、そういうこと。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

「三日坊主」からの脱却。

この駄ブログもあと数日で半年間毎日書いてきたことになる。「内容が無いよう」「時間の浪費でしょ」という厳しいご批判を背中に受けながら今日もひたすら書き続けている。それでもここまで継続して書くことができるのはありがたい。 子供の頃は本当に「三日坊主」だった。いや、厳密に言えば、やりたいことは続くが、やりたくないことや辛いと感じることはだいたい続かなかった。一体いつ頃からこんなに我慢できるようになったのかと思えるくらいの変容ぶりなのだ。 そういう背景を持ちながら、毎日続けられているものは思いのほか多い(人はそれを惰性と呼ぶのかもしれないが)。この駄ブログに健康に関するもの(体温、血圧、体重、食べ物、飲み物など)のログ。読書はもちろんのこと、英語然り。 いつも書いているが、多分若い頃と比べて時間の使い方が上手くなったのではないか、そう感じている。そのなかでもある言葉に影響されたような気がする。「諦めたときが失敗であって、チャレンジしている限りはそれは失敗ではない」。 そうか、やり続ければいいんだ。僕はそう心のなかで思った(のだと思うがそれがいつだったのかも分からない)。だが、そのマインドが活かせるような良い時代と、どうしようもなく悪い時代も代わる代わるやってきてしまうのは仕方ない。 良い時代と悪い時代の概念は何なのか。改めて考えてみる時間がこのコロナ禍では多かった。ビジネスのこと、サッカーのこと、そして趣味のこと(サッカーが含まれていないことに意味がある)。時間の考え方ひとつで色々変わってきた。 時間が作れたおかげで本だけじゃなくて好きな映画もたくさん見ることができた。なんとなく生きるのではなくて、人生という時間のなかで生きているのだと実感するのが大事だ。それを気づいた頃から、僕は変わっていったのだと感じる。 しかし、まだ「三日坊主」からの脱却ができたわけではない。相変わらず嫌なものは続かないし、我慢できないことも多い。だから僕は「なんとなく」をできる限り排除して生きていく。なんとなく、はこの駄ブログだけにしておこうと思う。 来週は二十代の若者と一緒に緊急事態宣言後初のレゴ®シリアスプレイ®による対話を行なう。そんななかで今の自分の心持ちについて作品にしてみたのだ。やはりレゴブロックで組み上げているだけで落ち着く。これだけは一生続くのだろう。 NEVER STOP,NEVE

前に進むために。手始めに。

梅雨の空が言うほど嫌いじゃない。とは言えやはり雨が降ると行動が制限されてしまうので気持ちがその分落ちる。能天気なほどポジティブだと思われがちだが、それほど強いわけじゃない。その分、気を張って生きているような気がする。 新しいことを始めれば始めるほど様々なところからの圧力も多い。でも新しいことを始めなければ前に進めすらしない。そう思いながらみんな毎日を生きているのだと思うと、僕もなんとか前に進まないと、と奮い立たされる毎日でもある。 あと二週間もすればJ1が開幕する。更にその前にはJ2/J3が待っている。まだ今まで通りとはいかない(ニューノーマルになってしまうかもしれない)が、ようやく僕らのJリーグが帰ってくる。僕らのセレッソ大阪が長居に帰ってくるのだ。 考えるだけでソワソワしてしまう。ゴール裏サポーターもリモートマッチに向け動き出しているようだ。僕はまだノルマ(CEREBAKA EPISODE2の書き起こし)が終わっておらずどうしようかと思案しているが、そんなのは悩みに入らない。 今週で既に2020年が半年過ぎるのを今知った。セレッソ大阪同様、OITOも蹴球堂もここから突っ走らないといけない。前に進むためにまた多くのアイテムを世に出していきたいと思っている。まずは手始めにうちのJ1最強DFをリスペクトだ。 SUPER DOBRO NEVER STOP,NEVER GIVE UP

「1兆ドルコーチ」を読む。

新型コロナウイルスの影響はまだまだ続いている。そんななかで、僕とはまったくの無縁である「人の影響力」なんていうものに触れる機会が増えてきている。そのような方々から学ぶことも多く、非常に有益な時間に包まれているような気がする。 昨日、「1兆ドルコーチ」を読了した(というか聴き終わった)。本当にお恥ずかしい話ではあるのだが、この書籍を手に取る(いやオーディオブックで購入する)まで、ビル・キャンベルという人物のことを存じあげなかった。これは実に不覚だ。 ビル・キャンベル。Google創業者やエリック・シュミット、そしてあのスティーブ・ジョブズやジェフ・ベソスにも影響力あるコーチだということだ。ITの世界に身を置いている人間であるにも関わらず、とてつもなく残念な人間だと証明された。 本の中身については実際に読んでもらうことにして、ここでは「コーチ」という存在にフィーチャーしていきたいと思う。僕のような人間にはまったくもって向いていないのであろう「コーチ」という職業。少しだけ、いや、かなり憧れてしまう。 決断のサポートや勇気づけというキーワードだけでは語り尽くせない「コーチ」の役割をこの書籍からも滲み出てくる。同じような行動が取れるとは思えないが、少しでも周りの方への影響力を手に入れられるよう更に努力が必要なのは分かった。 この「1兆ドルコーチ」は、コーチでなくても、本当に多くの方に読んでもらいたいなと思うと同時に、この世の中にはまだまだ知らないことや、未だ出会っていない書籍が多いと感じさせられる。読了した今、気持ちが高ぶったのは言うまでもない。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

セレンディピティ。

スーパーコンピュータ「富岳」が性能ランキングで世界一を獲得したとのニュースを見て、一番最初に思い出したのは「二位じゃだめなんですか?」だったのではないだろうか。その二位問題を記事にあげているもののなかにポジティブな意見があった。 少し解釈が違っていたら申し訳ない。あの「駄目出し」のおかげで、計算処理能力だけを目指していた開発から、より「人の役に立つ」開発へとシフトしたのだと言う。本当かどうかだが、それはいわゆる「セレンディピティ」と呼べるものだろうか。 もしそうだとしたら「人の役に立つ」思いで作っていたらいつの間にか世界一になっていた、ということになる。何かを探している途中で探しているものとは別の価値を見出すという「セレンディピティ」と聞いて僕が真っ先に思い浮かぶのがTwitterだ。 自分や仲間同士での楽しみの中から何かの気づきを得て、大きなビジネスへと変わっていくと言えば、このコロナ禍で多くのユーザーを獲得したZoomもそのひとつだ。聞くところによると元々の発想の出発点は「遠距離恋愛の溝を埋める」だったらしい。 諸事情でオフィスが狭くなってしまい、そのためにすべての従業員が自身のデスクを持つことができなくなったことで開発される運びとなったフリーアドレス用アプリケーション然り。それらを見ていると「セレンディピティ」は至るところに存在する。 見方や捉え方を変えてみれば、スケールが大きくなくても、自身の身近にあるものでもまだまだ光り輝く瞬間が存在するのだなと、スーパーコンピュータ「富岳」のニュースを見ていて感じた。先日の嬉しい上場話ともども、素敵なニュースに心が躍った。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

黒パグ、「一粒万倍日と天赦日が重なる日」に、病院へ行く。

一ヶ月前に狂犬病注射とフィラリアの薬をもらいに通院した際、その帰りしなに先生から「来月、混合ワクチンを打ちに来て」と言われた。なので、この土曜日に黒パグを連れて病院に行ってきたのだが、そこで起こったことを書いてみる。 雨が振りそうな天気でもあり、どのワンコも早めに連れて行こうかなとなったのか、病院は思いのほか混んでいて密だった(とは言え3人しか入れない)。しばらくして僕らの番が回ってきたので、黒パグと僕はドアを開けて診察室に入った。 「変わりはない?」「あー、ちょっと時々お腹周りを布団でスリスリすることがあります」「じゃあ診察してみよう」ということで色々と診てもらった。黒パグの全体を見てもらったのちに先生が「うん、これは外耳炎」。え?耳ですか? 思いも寄らない回答だったので一瞬面食らった。先生は薬と綿棒(みたいなやつ)で耳の治療を始めた。黒パグと目が合ったので軽く覗き込んでみたら、「顔を見ない!」と先生から一喝された。治療中にワンコが集中できないからだそうだ。 良かれと思ったら叱られた。気を取り直して見ないようにしていたら、今度は黒パグに猿ぐつわが装着されていく。目と口をカバーするようにセットされたこのワンコはついに暴れることを諦めてしまった。大人しく治療を受け入れ始めた。 そしてようやく耳の治療が終わり、混合ワクチンの注射が終了して帰ろうかと思った瞬間、思いがけない一言を先生から聞かされた。「カビですね」。どういうこと・・・。要はこの時期、お風呂に入ったあとのケアが必要だということだ。 ツイてない日だったのかもしれないと心が叫びたがっていたが、未だ病院は密でもあったので止めておいた。少々想定外の出来事ばかりが起こったので、今日は厄日かよ、と思ってしまう。僕らはかゆみ止めなどの薬をもらって家路に着いた。 いやいや、待てよ。まったくもって厄日なんかじゃない。そうだ。今日は「一粒万倍日と天赦日が重なる日」だった、と宝くじ売り場を見て思い出した。まじまじと宝くじ売り場を見てみる。TOTOやBIGを見て、改めてサッカーの再開を喜んだ。 宝くじでも買ってみるか。「ドリームジャンボ20枚お願いします!」。店員さんが首をかしげている。「ドリームジャンボは終わったよ」。暑さで舌を大きく出しっぱなしの黒パグがこちらを見ていた。まるでニヤニヤ笑っているようだった。 NEVER STOP

踊らされないためにはどうするか。

都民として今回で一体何回目なのかの東京都知事選。物凄い数の候補者の皆さんは総勢22名だという。選挙ポスターを横目に散歩するが、インターネット全盛のなかであっても、あのポスターには目が行ってしまう。視覚効果とは恐ろしい。 セレッソ大阪のニュースやツイッターが多く流れてくる。特にツイッターは 自分自身のLINEへと転送 していることもありやはり目に付く。ローランド様の男らしさに感動しながらの毎日なのだ。時間の許す限り読んではいるが追いつかない。 ただ、見たものだけで物事を判断する恐ろしさも僕ら人間の感情には含まれている。ラトビア(ITの世界ではZabbixで有名、美人が多いことでも知られる)でのフレンドリーマッチに関するこの記事を読んだが、まさにそれを物語っている。   どちらが加害者/被害者かを明確にするだけが目的かどうか分からない。しかし、連続する時間としての概念をメディアはどうしても瞬間瞬間で捉えやすい。見る側がどう判断するかにもよるが、僕らがすべてを知る時間はあまりに足りない。 話は変わるが、昨日書いた「接触確認アプリ」のオープンソース開発について様々な言葉が飛び交っている。ここでも多くの憶測の中で物事の判断が行なわれて、解釈の違いというよりはメディア自体の方向性で正否を分けている気がする。 逆にITの世界では、真逆にいる方々よりも、身内から背中を切られることも時折ある。「え、なんで?」と思ったりする瞬間がままあるのが実情だ。リテラシーだけでは済まされない、人の本質としての部分がとてつもなく大きいのだろう。 見たものに踊らされないためにはどうすれば良いのだろうか。その世界から抜け出すのもひとつだ。物事を正しく理解することにより集中するのもありだ。すべては考えをどのように構築していくか。一番は”流されない”ことかもしれない。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP ※この議論に近いのかな

大阪への計画。

今日は数少ない「一粒万倍日と天赦日が重なる日」だった。当然のことながら良いことと悪いことは次々にやってくるだろうが、常に前向きに生きることで運がこちらへと来てくれる可能性がある。そんなことを考えさせられた週末でもあった。 そんな中、厚生労働省の「接触確認アプリ」なるものをiPhoneに登録してみた。比較的簡単に濃厚接触の状態が分かる、ということらしい。今週、県外移動が解除されたことで出張含めて検討しているが、どうしても二の足を踏んでいる今日この頃。 仕事ならまだしもプライベートとなると話はもっとややこしくなる。リモートマッチはともかく、入場が解禁になっても他県へ行くとなると少々考えてしまうだろう。関東圏、特に東京都の人間の受け入れについては慎重になっているものと思う。 今のフェーズは「うつらない」ではなく「うつさない」だ。相手に対し最大限の「うつさない」を考慮することが必要だ。だがまだソーシャルディスタンスを保たないNOマスク状態の方もいるにはいる。自分はうつらないという自信の表れだろうか。 早ければ来週末にも大阪へ行きたいと考えている(もちろん”仕事”だ)。その仕事の中身にはいくつか存在するのだが、その際も「うつさない」にとても気を遣ってしまうのだろうなと思う。もし行くとなればしっかりと対策を検討していきたい。 そして時間の許す限り多くの方とお会いしたい。なかなかリアルに飲むなんて行為は僕には勧めることができない(というか飲まない)が、とにかく大阪の人に会いたい、その思いが非常に大きくなってきている。まずは、僕の予約はお早めに(笑)。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

勧めて勧められて。

梅雨時はどうしても体調がよろしくない。そんななかで今朝は大雨だったので、ひさびさに公共バスに乗った。こんな天気だと窓も開けられないのでちょっと空気が篭ってしまう感があった。少々神経質になっているのだろうか。 そんな状態の時は本を読むに限るが、集中力すらも低下気味でどうしたものかと悩んでいる。とは言えここ数日で何冊かを読み終えただけでも収穫ではあると思うが、自分が読む以上に、紹介する件数がここのところ多くなっている。 本から学べることは非常に多い。だがその反面、内容によっては重く感じる場合もあるだろう。目的なく本を目の前にしてしまうと、とかくこのような状況に陥りやすい。だからどんなときでも本を読むときは理由を決めたほうがいい。 学びとは連続する刹那であり、連続する不連続さからさらに学び、よりその先の学びを得ることができる。「マインドストーム」を読み直してみて、改めてそんなことを感じた。レゴ®︎シリアスプレイ®︎との関連性がよく分かってきた。 雨の日の過ごし方とコロナ禍の過ごし方が同じではないのだが、そんなときでも本が生活を素晴らしいものにしてくれる。そして次から次に本を勧めてもらってありがたい話だ。僕も僕で勧めていく日々。まさに連続する刹那である。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

あるポータルメディアに向けて。

僕は毎日朝晩に黒パグの散歩に出かける。この時期でもちょっと歩くと暑さで苦しくなってくる。黒パグのほうがもっとひどい。ずっとハアハア言いながら歩いている。疲れているわけではなく、ただ単に暑くて口が閉まらない(確かに締まらない顔)ものと推測される。 先日のそんな散歩の真っ最中、ある一通のEメールを受け取る。今年に入って、何回かメールのやり取りをしながら、新たな取り組みの話などを聞いていた。特に何かの手助けができるわけでもない。励まして勇気づけすることくらいしか、僕にはできることがなかった。 フラフラとあっちこっちに行ってしまう黒パグのオレンジ色のリードを引き締めながら、僕はそのメールの本文を読む。数行の実に短い言葉で綴られてはいるが、そこには非常に気持ちがこもっているのをヒシヒシと感じた。僕はなんだか自分ごとのように嬉しくなった。 人が新たな一歩を踏み出すためにできることを少しでもやろうと常々思っているが、だらしのなさから中々ままならない日々を過ごしている。しかしながら、僕のどうでもいいパワーなど意識せずとも、若者たちは常に前へと進んでいる。それを改めて感じる機会だった。 僕らは何処まで行ってもセレッソ大阪のサポーターなのだ。それは「セレッソ大阪を支える」という意味でのサポーターでもあるし、さらには「セレッソ大阪を支える人」を支えるために存在することでもあるのだ。そしてその方々はかけがえのない「アミーゴ」なのだ。 書いていたら少々泣きそうになってきた。最近は少々涙もろくなってきて(父親の葬式で泣かなかったことを今でもよく言われるが「泣かなかった」のではなく「泣いていたが涙が出なかった」のだ)いるのがよく分かる。やはり歳を取ると感情の起伏は変わっていく。 話を戻す。 メールにあるアドレスを僕は踏む。 セレサポ.net というWebサイトが開く。セレッソ大阪を心底好きな人たちが集まって作るポータルメディアのようだ。いくつかの記事を散策していくなかで、多くの楽しみの種がこれから生まれてくるのだろうと僕は確信したのだった。 いつしか散歩から帰ってきた黒パグと僕は、少し落ち着いて椅子に座る。黒パグも呼吸を整え終わったのか、僕のところに寄ってきてリラックスポーズになる。朝晩の散歩による信頼関係なのだろうか。信頼関係とは本当に素敵な言葉であり、身の回りにはたくさんある。 NEVER

このような時間のために仕事をしているのだな。

最近、歳のせいか著しく書物の文字が見づらくなってきた気がする。細かい文字は特に厳しい。無理に読もうとすると頭や首が痛くなってくる。身体の部位はあっちこっちでつながっているのだなということを感じさせられる。 肩や首のこりが激しい僕は定期的にお店でほぐしてもらっていたが、今のコロナ禍でもちろんのことながら行けていない。自分でなんとか考えて実施してはいるものの、やはりプロの技には遠く及ばない。まあ当たり前なのだが。 プロとしてのプライド。そこにすべてが詰まっている。どんな仕事でもプロという存在によって成り立っているのだと思っている。そんな僕もプロとして様々なビジネスを行なっているわけでもあり、そこにプライドが存在する。 レゴ®︎シリアスプレイ®︎のワークショップのお仕事をまたひとついただいた。このような状況下でレゴブロックを触ることにも躊躇うようななかでも仕事をくださるのがありがたい。プロとして最高のシリアスプレイを展開していく。 それ以外にファシリテーターとしてのお仕事もいくつか進めている。更には、県外移動解除に併せて出張の準備に余念がない。まだ不確定要素の多いなかではあるけれど、前に進むことだけは止まらない諦めない精神でありたい。 身体が動けるときにしっかりと伝えていく仕事も進めていく。そういえば先日、ファシリテーション勉強会を受講してくださった若者から、感謝の言葉をいただいた。このような時間のために仕事をしているのだなと再認識した。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

かもしれない。

無観客試合の聞こえがよろしくないということで「リモートマッチ」なる名称が付けられる運びとなった。僕たちは「リモーター」なのだそうだ。当の僕などは既に「リモーター」に相応しい活動しかしていないのかもしれない。 昨日のブログを見ていたら、書いていた内容がどうも欠落している。眠いのもあったりしたが、大きな要因のひとつは、スマートフォンとノートPCでの両方で編集作業していたこと。少しでも楽をしようとした罰なのかもしれない。 ようは、サポーターという育ちも暮らしもまったく違う人たちが、ただクラブを愛する心ひとつに集まり、肩を組み、声をあげ、泣き、笑いしているだけのはずなのに、何故ここまで魂を込められるのか、ということかもしれない。 もう友情とかを超越ているのかもしれない。僕はそんなアミーゴが好きなのかもしれない。ともにずっと歩いていくのかもしれない。だが、これらだけは「かもしれない」ではなく「そうなのだ」で終わらせたい、のかもしれない。 関係ないが改めてこの絵本を読んでみた。とてつもなく面白い。ヨシタケシンスケ氏の絵本の中でも最高傑作だと思っている。少なくとも新たなことを考えている方の参考になる。ただ、すべての人に最適ではないのかもしれない。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

サポーターとして社会の一員でいること。

暑い。急に暑さがきて着用しているマスクがとても息苦しくなった。年々温暖化が進んでいるのかそれともあの方が仰るとおりそれは思い過ごしなのかは分からないが、この気温だけは耐えきれない八月生まれの人間である。 そんな、この二日間は、僕らにとって非常に歴史のある日でもあった。その内容をFacebookが教えてくれるのは本当にありがたい。サポーターとして長い期間生きてきたのだなと思わされてしまうことばかりが流れている。 昨日の CEREBAKA でもゲストが語っていたように、死ぬまでこんなこと(という言いかたとどうかと思うが)をやり続けているのだろう。「こんな辛い思いまでしてやることかと思ったりする」というあの御方の言葉が響く。 そもそも CEREBAKA なんていう企画自体もそう。自分たちに得られるものなど多少の自己満足でしかない。僕のような人間にとっては、そういった行動のひとつひとつがなにか社会の一員でいることができているように思える。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

真っすぐで正直なコミュニケーション。

最近、週末になるとなぜだか睡眠時間が増える傾向になってきた。悪いことでもないけれど8時くらいまで寝てしまう。もちろん年齢のせいもあるとは思っているが、やはり身体は真っすぐで正直なのだ。とは言え偏食でもあるし、甘いものは相変わらず好きだし、何とも言えないわがままボディでもある。 昨日収録したCEREBAKA。今日のお昼にダイジェスト動画だけ公開することができた。コツコツ動画を編集しているといつも、プロフェッショナルの仕事は本当に凄いのだなとつくづく感じてしまう。細かい作業が本当に向いていないのだなと思うと同時に、ある一面では好きな領域でもあるのが救いだ。 今回の収録では、この6月14日に「モリシの日」のイベントを開催しているであろうF.C.OITOをお借りした。OITOは書店でもあるが、様々イベントも行なわれるし、コミュニティスペースとしてもこのように活用されていく。どこまで真っすぐな道を歩いても、行き着く先は人と人のコミュニケーションだ。 その肝心の CEREBAKA EPISODE2 では、1990年代から今日までゴール裏サポーターとして活躍している同学年(なんで大人になっても同学年とか言ってしまうのだろう)のアミーゴだった。普段は馬鹿話ばかりしてしまうのだが、今回、正式にアーカイブしていくこともあって、非常に真面目な会話だった。 やはり四半世紀以上をセレッソ大阪ゴール裏で過ごしてきただけあってか、言葉のひとつひとつに重みというか苦労がところどころに垣間見えた。サポーターとは一体何なのか。これから先のゴール裏はどうなっていくのか。彼ならではの思いというものを聞くことができて本当によかったと思っている。 僕はこの対談を「モリシの日」の前に行ないたかった。その望みが叶って、今は本当に嬉しい気持ちでいっぱいだ。ひとつ言えること。ゴール裏にいるサポーターは、彼に声をかけ、多くの話を聞くべきだ。声を大にして言いたい。もしあなたの気持ちを真っすぐなら、多分真っすぐに返ってくるだろう。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP ※歌だけはいただけなかったな(笑)

記念日の前日。

何を隠そう明日の日曜日は「モリシの日」である。2002年6月14日。あれはたしか金曜日だった。長居スタジアムで行なわれた日韓ワールドカップ、チュニジア戦で決めた伝説のゴールからはや18年。毎年のように開催されているイベントは、明日は雨模様ということで、屋内での開催となりそうだ。 そんな前日の今晩、CEREBAKAのEPISODE2の収録を行なっていた。この「モリシの日」の発案者との対談は、非常に濃い内容で面白かった。何とか明日の当日までに、少なくともダイジェスト動画だけはまとめていきたいと考えているが、果たしてどうなるだろう。神のみぞ知る、なのかもしれない。 あの当時はふたりとも三十代であったし、やりたいことをすぐにでも実行していたなと思い出しながらの1時間半。この18年という長い年月が、僕らの生活環境を大きく変えてきた。しかしながらこの「モリシの日」を始め、多くの記念日だけは、まったくと言っていいほど、色褪せることはないのだ。 久しぶりにサッカーマガジンを出してきた。読んでいたらこの試合がまるで昨日のことのように思えてくる。そして当日のことを色々と思い出してくる。昔は良かったと言い出すと歳を取ったことがあらわになってしまうが、こんな記念の日(前日だが)くらいは、大目に見てもらえたら幸いである。 雨ではあるが長居公園には多くのモリシファン、セレッソ大阪ファンが集まることだろう。是非F.C.OITOに足を運んでほしいと思っている。「モリシの日」を更に盛り上げるべく、催しが行なわるような気がする。なんとサッカーマガジンの間に新聞も挟まっていた。僕らはこんな生き方しかできない。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

映画「グリーンブック」で「知る」。

昨日も書いたが6月19日の全面解除が現実味を帯びてはいるものの、それでもまだまだ表に出ていくことが難しいのかもしれない。それはもちろん自分自身の社会的立場の影響力というものがあるのと、それ以上に他の方へ向けた配慮のところが大きい。まだまだ自宅での日々が続いていきそうな予感だ。 お知り合いの方々の映画も公開されたりしているが、このような状況下なのでなかなか映画館へも行けない。そんなこともあり、過去の映画をDVDや配信サービスで見る機会が圧倒的に増えた。その中でアカデミー賞を受賞したのにまだ見ていなかった「 グリーンブック 」をようやく見ることができた。 賛否両論があるのは重々分かってはいるが、僕個人としては非常に意味のある映画だったと思っている。最近は特に、実話に基づいた映画(賛否両論はまさにここ)を中心に見ていたので、実際に起っていた事実を知る機会にもなっている。特にアメリカでの出来事もあり、僕のなかの何かに触れた。 この、差別の問題について多くの出来事があったりして、何とも言えない寂しい気持ちになっている。ニュースを見たとき、以前とある知り合いの方から言われた「理解してほしいんじゃなくて、まずは知ってほしいんです」という言葉を何故か思い出した。何よりも「知る」ことが大事だと僕は思う。 僕自身、多分、何処まで行ったとしても、すべてを理解することはできないような気がしている。決して変な意味ではなく、「知る」ことはできたとしても僕には本質を理解できるだけのバックボーンが無いのも本音のところだ。だからまずは「知る」ことを始めるのが大事なのだと気づいたのだった。 映画とは「知る」本当に素晴らしい媒体である。確かにどちらかに偏ってしまうこともときにはあるのだが、それでも、その内面を知ったうえで自らを選択をしていく、という生き方もできるのだと僕は感じている。これからも、そんな多くの映画と出会って、その映画の内面を知っていくのだろうな。 グリーンブックと言えば最近 このような本 を読んでいる。アマゾンで発注したのだが物が無いとキャンセルをくらい、それならばとヨドバシカメラにお願いしたら「6月の中旬以降です」とつれない返事があったものの無事届いた。かなり重たいのだがメタファーを「知る」良い機会だとも思って、学ぶ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

重い荷物を置ける場所。

先日、携帯電話のMNP(モバイルナンバーポータビリティ)を行なったと書いたのだが、既に今週頭にSIMが届いて、無事スマートフォンへの切り替えが完了している。申し訳ないのだがauから楽天モバイルへと移動したことを黙っていた。しかしながらようやくこれで肩の荷が少し降りた気がした。 まあガラケー程度でどの程度の荷物なんだよとツッコミが入るかもしれない。いやそのとおりでもある。どうしても僕のような人間は少し大げさに話してしまうことが多い。無いことをあるかのようには言わないものの、デフォルメが過ぎるとよく叱られる。そういう性格でもあるので多少仕方ない。 大阪人の性分かもしれない。駄菓子屋のおばちゃんが10円のことを「10万円」と言うのとよく似ている。そんな洒落の効いた(効いてるか?)会話を楽しむ機会がやはり飲み会というか懇親会というかそういうものだった。オンラインだと対面で無い分、ウケを狙ったあとの侘しさみたいなのがある。 何処かの漫才師の方が言っていた。「今のオンライン状況だと仕事場直、家。ギャグを言って受けなかったりしたとき、そのまま家族と会うことになるのが辛い」的な話を番組でしていたのを思い出す。確かに分かる気がする。やはりクッションというか緩衝材というか、そういうものが人には必要だ。 僕自身は昨年末くらいからほとんどアルコールを摂取していないのだが、アルコール抜きであったとしても飲み会や懇親会が必要になってくることがときにはあるのだと改めて感じた。自宅は本当に素晴らしい場所だ。だがまた違った、重い荷物を置ける場所の存在する幸せが戻ってくると信じている。 そんなことを書いていると、東京アラートが6月12日午前0時に解除されるようだ。その後はステップ3へと移行、そして県外移動が解除と進んでいくだろう。大阪のワイガヤスペースから「絶対来てくださいよ」とオファーも受けているので、今からしっかりと大げさな話を、たっぷりと妄想しておく。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP ※ Mad Cat Hostel Osaka & Bar から Tシャツが届いた。 ※早速トルソーにかけてみることにした。 ※これを着て、大阪に行くことになるのだろう。 ※是非 Mad Cat Hostel Osaka & Bar に行ってみて 。

育てる仕事。

まだまだ僕自身は自宅待機が継続されてはいるが、着々とアフターコロナの準備が始まっている。明日か明後日には東京アラートも解除される予定だとのことで、どのように前に進んでいくのかに僕としては非常に関心が高い。やはり時間は有限で、常に進んでおり、立ち止まってはいられないのだ。 人生は短く、あと何年仕事ができるのだろうかなど考える年頃になってきた。時間との勝負になってきている気がしている。だからこそ、自分の持っているものをしっかりと継承していかなければならないのだが、時間の調整がなかなかできておらず、中途半端になっているのも否めないのが事実だ。  この前「基本的な肩書きは一体なんなんですか?」という質問をいただいて、解答に非常に苦慮した。なんだか色んなことを行ないすぎて自分でも分からなくなってきている。少なくともサッカーとITとLEGOの人だということだけは理解してもらえる。それで良いのだろうかとは思ってしまうのだが。 今日、ファシリテーションについてのプライベート勉強会を開催した。オンラインとリモートのハイブリッドでの実施となった。話が盛り上がり時間が足りない状況を打破することができずじまいだった。反省しきりである。想定時間を超過するのは時間泥棒であると昔教わったのに何たる体たらく。 もう一度、時間の概念を見直さなくてはならないのだろう。自分自身の時間ならまだしも誰かの時間を奪っていいはずがない。ひとりひとりに大事な時間という概念があり、その概念のもとで生活をしている。相手の立場を慮って、その方の時間を「いただく」のだと感謝しながら時間をもらうのだ。 「忙しすぎてどうにもならない」と軽々しく口にするのは、プロとして恥ずかしいことだと感じている。以前からも書いているとおり、時間はなくなるものではなく作り出すものだと確信してしまう。時間を作り出すのは自分の時間だけでなく相手の時間も同じ。だからこそ常に意識する必要がある。 まあそんなことをつらつら書いてきたが、要は次の世代のファシリテーターを育てていきたいということなのだ。今日は”すれていない”二十代の若者ばかりだったので、これはもしや本当に実現できるのかも、と本気で思ってしまった。少しでもレゴ®シリアスプレイ®に興味を持ってもらえたか、だ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

無観客ダービーが、決まる。

「もし無人島に行くとしたら何を欲しいか」という質問を子供の頃に受けたことがある。ひとり遊びが得意だったので多分「本」とか言ったんじゃないかと思う。最近の若者だったら「スマートフォン」となるのかと頭の中で妄想したが、よく考えればスマホを無人島で使うことができるのか甚だ疑問だ。 ようやくと言っていいくらいだがJリーグ、J1再開のカードが決定した。我がセレッソ大阪はアウェイでの大阪ダービーマッチのようだ。ダービーマッチでの無観客試合なんて、世界でそれほど巡り会えるとも思えないが、こうして決まってしまった以上、選手たちには何とか良い試合を期待したいと思う。 ヨーロッパなどでも、無観客試合でサポーターがスタジアムの外で応援している姿を見たりする。2006年ワールドカップアジア地区最終予選でのタイ・バンコクで行なわれた北朝鮮戦の試合も思い出したりする。あの試合も多くのサポーターがスタジアムの外で応援していたなとか思い出したりしている。 この7月4日そして5日も、日本サッカーの歴史の1ページに刻み込まれるのだろう。6月19日の県外移動の緩和後も、しばらくは遠出をすることは立場的にまだまだ難しいと感じている。吹田スタジアムの周りには行けないかもしれないが、ホームの大阪ダービーマッチは、昨年同様訪れると心に決めておく。 その日は大阪ダービーマッチに飢えた両クラブのサポーターでヤンマースタジアム長居が埋め尽くされることだろう。その全員がF.C.OITOに来たら底が抜けてしまうなあ、と変な妄想をしながら書いている。やはり妄想はひとりでもいいのだが、より多くの人と一緒というのも案外良いのかもしれないな。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

真っピンクで登場。

Jリーグ各クラブのファンはライバルではあるが仲間でもある。もちろん日本代表の応援という枠組みで育まれるものもあれば、ホームとアウェイで試合を重ねることによって生まれてくる友情もある。ガツガツした物々しい雰囲気も嫌いではないが、この”日本らしさ”が好きなのは僕だけでは無いはず。 先日とあるご縁から「 FUG Football Undergroundうるとらすさいたま 」というYoutubeチャンネルの Saturday Afternoon Live (土曜の午後の出席確認という名の生中継)に出演をさせていただいた。以前からオファーを受けていたのだが、なかなかスケジュールが合わず、今回、急遽の出演となった。 正直、出演は迷っていた。いくら仲間だと言っても、他所様のクラブの、ましてやレジェンドの方々の番組に出るなんてと少々遠慮をすると同時に、セレッソファン以外で僕の話を聴きたいわけがない(いやこれには語弊があり、セレッソファンですら聴きたくないかもしれない)という思いだった。 それでも、Jリーグサポーターの第一世代と言われる方々の思いに共感するところは非常に多く、もちろん僕自身も様々な形でアーカイブしていく必要があると常々思っていたことが合致したので、出演をさせていただくことにした。僕の言葉が面白いかそうでないかは、是非一度見てほしいなと思う。 実のところ「15分程度」というお話をもらっていた(それでも15分も持つのだろうかと内心ヒヤヒヤしていた)のだが、なんだかんだで話が尽きなくなって、トータル一時間くらい話していた。セレッソ界隈でもなかなか表に出てこない(出られない)僕なのに、ついつい止まらなくなってしまった。 懐かしい話をしながら、蹴球堂やF.C.OITOの宣伝も少々させていただいたりして、本当に感謝の気持ち以外の言葉が見つからない。未来に向けて少しでも何かを残していこうとするお二人を見習って頑張ろうと思うが、僕にはなかなかその力量が追いついていない。まずは着実に一歩ずつ進もうかな。 それにしても、だ。このライブにこんな真っピンクで登場するのってどうよ、というくらいな状況でもあった。「某大学の関係者ですか?」と言われる始末(笑)。やはり僕はこのピンク色にプライドを持っていることを再認識する。歴史を伝えていくことの重要さを、改めて感じる良い機会だった。 NEVER S

長く続くことの素晴らしさ。

ようやくというか何というか。個人のケータイ(まさに折りたたみ式携帯電話)をスマートフォンへ移行するため、MNP(モバイルナンバーポータビリティ)の手続きを行なった。移行元の契約状況を確認したら実に23年強もの長きに渡って利用してきていたようだ。もうこれは惰性としか言いようがない。 しかしながら、そんな日々とも今日おさらばしたのだった(正確には手続きをした)。ついにこの二つ折りの携帯電話を手放すときがきてしまった。なんだか寂しい気もするがそれ以上に人生の半分を過ごしたこのガラケーたちと関係。腐れ縁ではないが本当に長く続いた大恋愛の末路のように思えてくる。 長く続けるということはあまり良くないと思う反面、大半は素敵なことであると僕は常々思っている。継続は力なりという言葉もあるとおり、毎日毎週毎月毎年、一緒にいるのは、人であれ物であれ、はたまた組織やしくみなども含めて、やっぱり素晴らしいものなのだ。少し感傷に浸っている自分がいた。 長く続くといえば、来週の日曜日、6月14日だ。0527や1203同様に僕らの特別な日(ルヴァンカップで初タイトルを獲った日がどうしても憶えられない、とぼやいている方もいたな)が、かれこれ17年続いていることになる。日曜日に当たるなんて初めてのことなんじゃないかと、アミーゴが話していた。 当日は長居公園やF.C.OITOでもイベントが開催される。オールドファンもそして新しいファンも是非足を運んでほしいと思う。17年も経てば知っている人も知らない人もいて当然。だからこそエバンジェリストが必要なのだ。僕は行けないが、長く続けることの代名詞でもあるこの日が今から待ち遠しい。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

サッカーは映像に限る。

二月に開幕して既に四ヶ月もの間Jリーグが行なわれていない現実を知る。DAZNの過去映像をなどを眺めながら過ごす土曜日。UEFAチャンピオンズリーグダイジェストを見ながら書いている。1992-1993から辿っていく旅はしばらく楽しめそう。心に残る試合、胸が痛くなる試合のそれぞれを味わっている。 DAZNにはもちろんJリーグのアーカイブもある。セレッソ大阪の試合も同様に喜怒哀楽を提供してくれている。2006年のあの川崎フロンターレ戦もあった(この試合は ここ でも書いた)がちょっと見ることができないまま、いつのまにかなくなっていた。DAZNのせめてもの心遣いかと思って受け止めた。 映像と文章のどちらが好きかと言われると当然後者を選択する。僕は想像したい。頭の中で風景を、登場人物の容姿を想像したいのだ。自分が思い描いた想像の姿がディフォルトでもある。映像になった途端に想像と映像という現実のギャップに悩んでしまうと気のある。そういう意味でも断然文章だ。 そんな、書物大好きの僕ではあるが、このコロナ禍で CEREBAKA のようなメディアで動画を作ってみたり、インタビュー動画やライブに出演させていただくことが多くなった。先日も「このZoomに入って」とメッセージが来たので入室したら、なんとそこはライブ中継の真っ只中。ちょっと尋常じゃない。 ましてや他クラブファンに向けてのライブだ。下手なことは喋れないし、言葉選びは非常に慎重になっていた。とは言え、とても貴重な体験をさせていただいたし、多くの方にお礼をもらったりして、本当に楽しく参加できた気がする。このような経験も、Jリーグという土壌があるからだと思っている。 それにしてもYoutuberは凄いなとつくづく思う。動画を作り続ける情熱を見習わないといけないなと夜の帳が下りてなおさら感じる。いや彼らだけじゃない。多くの方々が動画を使って世の中にメッセージを発しているのを見て僕自身もしっかりと何かを残していかなければという想いが頭を過ぎった。 やはりサッカーは映像に限る。今月は前述のCEREBAKAのEPISODE2を収録しようかと思っている。既にゲストは決めており承諾ももらっている。ちょっとの動画と文章の書き起こしというどうしようもないメディアサイト。書くことだけに拘っていてはいけないなと肝に銘じる。映像もちょっと頑張る。 そんな

自分の内面と向き合う。

ほんのちょっとの変化で物事が進み始めたりすることがある。例えば、どうしても同じところでミスをしてしまうような場面でちょっとだけアクセントをつけてみたら、全体的に調和が取れるようになった、という話もよく聞く事例だ。アイデアひとつで見える世界がまるで違って見えたりするもの。 人間とは(いや人間だけでは無いかもしれないが)昨日より今日、今日より明日、少しだけでもいいから成長を続けたいと願う生き物なのだなということを、僕の周りの方々を見ていてそれが手に取るようによく分かる。本当に素晴らしい方がたくさんいて、いつも学ばせてもらっている状況でもある。 それにしても、働くとはいったい何なのだろうか。人は何のために働くのだろうか。そんな哲学的なことを考えさせられるシーンが、今週は多く発生したのだった。そしてそのひとつに「何処を向いて仕事をしているのか」というキーワードがある。もう少し言い換えれば「誰のために働くか」なのだ。 綺麗事のように聞こえるだろうが僕が仕事をする理由は、自分の持っている技能や商品によってお客様が喜ぶ姿を見たいからに他ならない。たしかにその結果得られる対価も重要だが、それはあくまでもお客様が満足してくださったからこそでありどこまで行ったとしてもそれ以上でもそれ以下でも無い。 もちろん先立つものは必要で、生きるための最低限の金銭とのトレードオフが発生するのは否めない事実だ。とは言えその部分を除いたとしてもやはり「サービスが先、お金はあと」というコンセプトは決して変わらない。それを改めて知る機会となったのが自分自身が参加したレゴ®シリアスプレイ®だった。 自分の内面の気づき、内面と向き合うことの重要さや大事さ。ここを疎かにする方が実に多いと感じる。自分を包む表面だけで仕事と向き合っていないだろうか。自分にとって「働く」は何処を向いているのかを再確認してみてはどうだろうか。それはレゴ®シリアスプレイ®を使わなくてもすぐにできる。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

「怒り」のコントロールのレッスン。

コロナ禍であるが、香港やアメリカでは多くの方によるデモが行われている。Jリーグでも、バスを囲んだり(先日少し話題に出たので)クラブに対しての申し入れなどが行なわれたりする。同じレベルで語っていいか分からないが、祖国と愛するクラブを思う気持ちが同じに感じるのは正しいだろうか。 一ヶ月ほどかかったが、ようやくユヴァル・ノア・ハラリ氏の「21Lessons」を読了(聴了)することができた。非常に興味深い内容の数々と、世界の宗教についての話、そして僕の大好きな”あの”映画が題材にされていた(あの例のやつね)。そんな関係で個人的にはとても楽しめたように思える。 既読の「サピエンス全史」や「ホモデウス」以上に、ユヴァル・ノア・ハラリ氏の主張について深く理解できるようになった。いつも書いているとおりだが、やはり、「文章にすることの大事さ」が身に染みてくる。少なくとも死ぬまでにあと三回は聴くことになるであろう、秀逸の書籍だと感じた。 この「21Lessons」で数多く「怒り」という感情について触れていた。新型コロナウイルスがもたらしたといっても過言ではないが、人の心や言動がやや攻撃的になっているのは否めない。太古の昔から聖書でも古事記や日本書紀でも、人の「怒り」の感情が他人を傷つけるシーンが描かれている。 たしかに「怒り」というステータスは大きなエネルギーを持っている。かくいう僕もそう思っていた時期があった。「怒り」は力であり、結束することで何かを成し遂げられるのではと感じていた頃もあるにはあった。ただ、その「怒り」と、今問題になっている「怒り」とでは質からして違っている。 「怒り」の正しい使い方など僕のようなものが知っているわけもなく誰かに伝えるなどおこがましいと思う。ましてや「良い怒り」と「悪い怒り」など誰が決められるものか。最後の決断は間違いなく「自分自身」なのだと思う。しっかり自己と向き合い、「怒り」をコントロールできる人でいたい。 話はズレてしまった(そうでもないか)が、ぜひこの「21Lessons」を読んでみてもらいたい。僕は断然 Audiobook をお薦めする。現代人は時間が足りない(これは改めて書く)。だから両手を紙で塞がれてしまうよりも耳に助けを求めるのもひとつ。頭に入るまでに何回も聴くことにはなるのだが。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

自分自身に「いい夢見ろよ」と言ってみる。

あまり夢を見ることがなくなった。それこそ昔はいろんな夢を見ていたのだけれど、歳を重ねるにつれて段々となくなっていった感覚だ。「いい夢見ろよ」と子供の頃にタレントからよく言われていたような気がしていたが、今Wikipediaを見ると8つくらいしか変わらないという驚愕の事実に出くわした。 話は180度変わる。今週、アミーゴが東京に来る予定だったので軽く飯でも、と思っていたら、例の東京アラートによってご破産となった。今月末にお呼ばれしている飲み会も結局参加は厳しい。なかなか人生は上手くいかないものだなと嘆いているが、空けない夜は無いと信じて生きていくしかないのだ。 空けない夜で思い出した。最近は睡眠時間を多く摂るようにしている。完全な健康志向に目覚めたわけでは決してないのだが、少しでも新型コロナウイルスに耐性を持ているよう基礎体力を保ちたいと思っているのが理由だ。これが役に立つかどうかではある。しかしながら少しでも何かをしておきたい。 1はいきなり100にはならないのだ。少しずつでも努力を続けることが必要だ。その積み重ねが何かを生み出すと僕は常に考えている。その歩みが亀のように時間がかかっても良い場合もある。時間がかかることを嫌う方も当然いるだろう。それでも少し足を止めてゆったりとしてみるのもいいかもしれない。 最近、歩くスピードが少し落ちたと感じている。もちろん到着が少し遅くなってしまうわけだが、そのなかで、街の風景をよく観察するようになった。速いには速いなりの、遅いには遅いなりの作用がある。歩く速さひとつで景色が変わる。毎日でもいいので努力を続けることをしていこうと思っている。 さきほど世界中のレゴ®シリアスプレイ®認定ファシリテーターが集まるオンラインイベントに日本時間の22時から参加していた。眠たい目をこすりながら、また、Englishに苦戦しながらの一時間半。少しずつの努力が実を結ぶのはもしかしたら相当先かもしれないが、この一歩一歩の努力を続けていく。 かなり眠たくなってきた。いい夢を見ながら寝たいとは思うが、よくよく考えたらまだまだやることがあったことに気づく。これから、そんな毎日の積み重ねを忘れずに行なう。今日はサッカーの夢でも見たいよな、と自分自身に「いい夢見ろよ」と言ってみる。多分何も無い朝を迎えるのだろうけど。 NEVER STOP,NEVER GIV

もう一度クロアチアへ行ってみたいのでWebサイトを作ってみた。

かなりの陽性反応が出ており、再び予断を許さない状況になるのかと少々不安な夜を迎えている。第二波、第三波が来るのは避けられないが、感染経路を辿れるようにしておくことでクラスターを防げたりするわけだが、プライバシーの壁などもあって難しい問題も多々ある。悩ましい課題だと思う。 改めてこの新型コロナウイルスの脅威を目の当たりにしている。このままの流れでいくと帰阪はさらに遅れるのかなとか真剣に考えてしまったりする。どうにかして早いうちにOITOを訪問したいのだが果たしてどうなるのだろうか。時間だけが刻々と過ぎていくもどかしさ。そんな日々を過ごしている。 そんなさなかで時間の調整がしやすくなったこともあり、スキマ時間でクロアチアっぽい(というか100%クロアチア)のWebサイト「 SUPER DOBRO 」をGoogleサイトで作成した。前にも書いたが、やはりGoogleサイトは便利で使いやすい。メンテナンスも物凄く楽だ。使わない手はないなと思う。 とまあ、Googleサイトを褒めるのはここらへんにしておいておく。このWebサイトを作ろうと思ったきっかけとしては、もう一度クロアチアへ行ってみたい、という思いがある。だが、もうひとつの動機としては、我がセレッソ大阪に在籍しているマテイ・ヨニッチ選手へのリスペクトでもあるのだ。 昨年のリーグ最少失点はチームとしての成果でもあるのだが、そのなかでも最大限の称賛に値する活躍を見せたのがマテイ・ヨニッチ選手だと僕は思う。間違いなく今シーズンも活躍するはずの、すべてにおいてハイスペックなディフェンダーに向けた言葉のひとつが、この「SUPER DOBRO」なのである。 あとは、クロアチアにいるアミーゴだ。先日も「ウイルスのほうは大丈夫か?家族は?」とメッセージしたら「みんな大丈夫だ。日本の仲間にも気をつけてと伝えてくれ」と返ってきた。新型コロナウイルスが収束を迎え、ヨニッチ選手やクロアチアのアミーゴたちと一緒に「SUPER DOBRO」と笑いあいたい。 Webサイトは、いつもの通り、ここから発展するかどうかは僕の気分次第(おい)ではあるのだが、もうひとつの目玉として「 SUPER DOBRO Tシャツ 」を復刻させようかなとも思っている。前回は自分のためのアイテムだったが、今回は蹴球堂でも販売できるかな?どうなるかは気分次第である(おい)。

これからの人生であと何冊の本を読むのだろう。

紹介していただいたので「ことばの認知プロセス」という本を読んでいる。タイトルの通り、認知言語学について書かれている。入門書とは銘打たれているものの、かなり理解に苦しむ箇所がある。真面目に勉強してこなかったツケが今頃回ってきている気がする。それでも読み続けようと思っている。 ジャンルは様々だが年間に100冊は読む目標を立てているのは、この駄ブログではおなじみのフレーズ。今年は少々前に進んでおらずやきもきした毎日を過ごしている。なぜならかなり難しめの本ばかりを読んでいるからに他ならない。文字数もさることながら内容がとてもじゃないがついていけていない。 これからの人生であと何冊の本を読むのだろうか、と、ふと思うときがある。いくら長くてもあとちょっとしか生きられないと思うと、できるだけ「良質な本」か「好きな本」を読みたくなってくる。レビューなどにはあまり流されないタイプではあるが、最近は人の意見を聞くようになったなと感じる。 正直僕の周りでは、本をよく読む方と、ほとんど手にも取らない方の二分化されているような感がある。やはり、本以外にも多くの娯楽が存在し(その筆頭がスマートフォンだが)、人間と本との付き合い方も相当変わってきている。そんな世の中でも常に本は出版され、待ち焦がれた僕らの手元に届く。 専門書で知識を、漫画では心の葛藤を。そして小説によって、頭の中に風景を思い描き、世界中を旅して、ハッピーエンドでもバッドエンドでも自分ごとのように受け入れていく。辛くなったら閉じればいい。嬉しければもっとページを開けばいい。このように多くの本たちと僕は生きていっているのだ。 「FOOTBALL」の「B」。Bookは人生のトモダチだ。これからの短い人生で僕はどれくらいの本たちに出会えるだろう。もしかしたらそれらはF.C.OITOに行けば見つかるかもしれない。本屋という存在はやはり僕をワクワクさせてくれる。行きたいが、その前に読まねばならぬ本が山程積み置かれている。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP