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「セレッソイズマイライフ」。

激動の一年が終わろうとしている。そんな朝に素敵な月を見上げながらワンコと一緒にテクテクと遊歩道を散歩する。大晦日だけあってとても静かな風景。それもそのはず。六時だ。僕は歩きながらこの2020年という壮絶なストーリーを思う。 この一年、毎日この駄ブログを書き続けることを目標としてスタートした。何度も挫けそうになったり、どうしても筆が進まず日を越えてしまったときもあるにはあったが、この投稿でようやく肩の荷が降りる。まずは自分自身に感謝したい。 今年は、桜スタジアム建設に併せて鶴ヶ丘周辺を盛り上げるべく「F.C.OITOプロジェクト」をスタートさせた。大人になるたびに思い返す、フットボールの文化、書籍や映画や美術、そして、大阪の文化を改めて考えていくためのスペース創り。 時間はたっぷりあった。というか、時間の作り方を僕らはこのコロナ禍で学んだ。サッカーなら流れを変えたり、パスコースをたくさん作ったりできたのだが、僕らは、その時間をどこで使えばいいのか、そんな悩みも抱えながらの一年だった。 その分、セレッソ大阪への愛が深まったような気がする。タイムラインを見ていてもそれらが如実に表れていた。若いサポーターの方々が思い思いに新しいことへのチャレンジを行なっているのを見ていて、歳のせいか涙脆くなってしまった。 何度でも言おう。たかがサッカー、たかがセレッソ、ではない。そして、それらはもう人生の一部なのではなく、人生そのものなのだ。そう言えばその昔「フットボールイズライフ」という名のブログを書いていた方のことを、ふと思い出した。 なかなか人と会うことができず、特に若いサポーターの方々と話がしたい想いが高まっている。時の進みはことのほか速く、残された時間はまだまだ未知数だ。だからこそ今「フットボールイズマイライフ」「セレッソイズマイライフ」なのだ。 そう思いながら公園に辿り着くと、いつものように大先輩方々が朝のラジオ体操に励んでいる。そして無事終わると仲間と二言三言話しをして家路に着く。人生はひとりでは成立しないのだ。そこには必ず仲間が存在する。やはり常に学びの場。 今年一年本当にありがとうございました。2021年のブログはゆるゆると思い立ったときに書いていきたいと思います。どうしようもない駄文ではありますが、引き続き御教授、御鞭撻、そしてご愛顧賜れば幸いです。どうぞ宜しくお願いし

レゴ®シリアスプレイ®と付き合って再認識したこと。

昨日、壮絶だった本年の最後(だと思う)を締め括るであろう、レゴ®︎シリアスプレイ®︎の認定ファシリテーターによる勉強会に参加した。この方々は本当にアクティブでありポジティブであり、まさに僕の真逆を歩まれている素晴らしき仲間だ。 そのなかで、いつもお世話になっている御方からの気になっていたプレゼンテーション内容に、とてつもなく感動してしまった自分がいる。レゴ®︎シリアスプレイ®︎という生き物との関わりというか付き合い方というか、そんなものを再認識した。 見誤らないで欲しい。レゴ®︎シリアスプレイ®︎ワークショップは決して勉強会や研修ではない。組織のリアルそのものなのだ。ひとりひとりの「気付き」や、そこから生まれてくる「言葉」は、学びのなかから生まれてくる真実を炙り出していく。 だから、レゴ®︎シリアスプレイ®︎においては、経営者やリーダー、上司も、そのワークの輪に自ら率先して入り、そして、メンバーやスタッフとともに「気付き」と「言葉」を見つける必要がある。そうでなければ、絶対に本質には辿り着けない。 何度でも言う。言葉は作られるのではなく生まれてくるのだ。作品と作品によるふれあいのなかから誕生する瞬間を、外野から眺めているのなんて実に勿体ない。同じ目線で語り合う。そう。100−100という環境こそが大事であり、重要なのだ。 今年はワークショップの開催もままならず、同時に、レゴ®︎シリアスプレイ®︎による、日本を世界を巡る旅にも出られなかった。だが、改めて自分のなかでの、このメソッドの方向性なんてものを見つめ直す時間も取れたのは、間違いのない事実。 ポストコロナに対応するべく、様々な設計も整いつつある。これからも、さらに学びの機会を経て、クライアントに真実と本質への道筋を届けたいと思っている。その先には、生きる支えになっていたサッカー界にも「恩返し」したいところだ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP タイトル「僕の動機」

本との付き合い方。

調子が良くないので、ひたすら読書三昧。面白い本に出会うと心が躍る。逆に、読み始めたことを後悔する本もあるにはある。読み続ければ楽しくなってくるのか、それとも、ここで一旦区切りを付けるのか。本との付き合い方は人それぞれだ。 思い出したかのように応募していた星新一賞。三次合格者のなかに僕の作品名は存在しなかった。当たり前と言えば当たり前である。しかしながら僕の星新一賞との付き合い方は「書きたいものを書く」でもある。ぜひ楽しんで書いていきたい。 いい加減だけどいい加減じゃない。五十年生きてきて辿り着いた思考と行動。分かってもらおうとも思わないが、見る人から見たら自由すぎて嫉妬されたり、ふざけていると受け取られたりする。だが、至って真剣にいい加減を生きているのだ。 セレッソ大阪サポーターのなかにも強烈な個性が多く存在する。群れることを嫌う人もいれば、グループだからこそ輝く人もいる。同じじゃなくて良いじゃないか。ひとりひとりのパーソナリティが活かされる、そんな組織であっていいと思う。 世界にひとつだけのフラワー的なオンリーワン戦略はそれほど好みじゃないが、人の個性というものはそれはそれで良いのかな、と僕は思う。そして、その個性を認め合うことができれば、これ以上の素晴らしき出来事は世の中には存在しない。 最近はそのような尊敬する方々のノンフィクションと付き合う毎日でもある。空想の世界やワクワク溢れる小説も良いが、人間模様がはっきりと表れる本を読み続けて(聴き続けて)いる。その時間、日常に嫌気が差すなどという感情は論の外。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP 改めて読み直そうと思っている。

ITと上手く付き合う。

ときどき、このまま行くとどうなるのか、この世の中を歩いていくのがとても不安になることがある。コロナ禍において人と人のつながりの重要度が増したように思うが、個人的にはひとり時間が多くなり、より自分らしさが出たように感じる。 この不安のなかには、GAFAを中心としたITによって多くの変化が存在している。過度なソーシャルネットワーク、怪しげなレビューなどに惑わされないように生きているつもりでも、ふとした瞬間には、その内側にどっぷり使ってしまっている。 去る12月14日に発生したGoogleの障害。日本は夜という時間帯でもあり、想定とはまた違った混乱が大きかったように思えたが、自分自身としては相当ゾッとする場面が多かった。Googleへの依存度が高く、このレベルの障害でも致命的だ。 まさにこの依存が厄介だ。代替の手段を持っていないとなるとさらに問題だ。しかもその障害は突然やってくるとなると、対処のしようがなくなってくる。僕らはどのようにして未然に防いだり、万が一、起こっても対応していけるのだろうか。 とは言え、ITとともに生きていかなければならない身体(GAFAだけにとどまらず)になってしまっているのも紛れもない事実だ。だから何とか食らいつく必要があり、僕も類に漏れずに様々調理し、そして召し上がっていくことになるはずだ。 そんななかでGoogleとマンチェスター・シティ主催のサッカーAIコンペで日本人チームが五位に入賞したというニュースを見た。VARもそうだが、人とITの融合が加速する時代にサッカー界もどっぷり浸かっている。万が一、への対応も必要だ。 人間同様に病気もする。ミスも犯す。人間にできることしかできないし、逆に人間を凌駕する領域も年々増えている。だが、ひと度ITが病気になったりミスを犯したりすると、途端に狂気を見せてしまう人間という生き物は、一体何なのだろうか。 ITの世界を30年以上見続けてきて思うのは「上手く付き合う」こと。過度に依存することなく、だからといってふれあいを忘れず。大事なのは、ITも人も「今ここに生きている」のと、「信用はするな信頼しろ」と考えていくことだと僕は思う。 まさにITと人の「相互尊重」だ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

穏やかな元旦を過ごせます。

コロナ禍で読書が増えるかと思っていたのだが、どうも昨年よりも減っている気がする。理由は知る由もないが、やはり他の勉強をすることが多かったからかもしれない。ステイホームだからこそ勉強できたのだから、これはこれでよしとする。 子供の頃から漫画が好きでひたすら読んでいたのだが、大人になるにつれなかなか手を出さなくなっていった。特に週刊誌はまったくと言っていいほど読まなくなった。なので、最近流行りの「漫画→映画」の流れについていけず仕舞いだった。 それと同様に、ステイホームだからこそ、サッカーの試合を多く見ることができた。普段ならスルーしてしまうような他クラブ同士の試合なども、セレッソに在籍していた選手を中心にテレビ観戦するようになった。忙しさにかまけていたのだ。 今日の天皇杯セミファイナルもじっくりと見てしまった。だがこの二試合はまた別の目的も持ちながらでもある。結果としては、欲しいものを手に入れられた。名古屋グランパス、セレッソ大阪両クラブにとっては非常にありがたい試合だった。 資金繰り、チームの総合力含め、アジアで戦うだけの体力は無いという声もあちらこちらから聞こえてくる。僕個人としても不安が無いわけではないのだが、このチャレンジは非常に意義のあることだとも思ったりする。これはもう「魔力」だ。 とは言え、変種等の関係で海外からの入国の問題もあるにはある。どのように動いていくのか流れを見ておきたい。プレーオフが二月になるのか四月になるのかという噂を横目にしつつ、来年のスケジュールを想定し始めた今日という日だった。 2020年シーズンのご褒美的意味合いでもあるお年玉のようなアジアチャンピオンズリーグ。 さすがにアウェイ(セントラルだという話もあるが)に行く夢は果たせないだろうが、 結果としてこうなった以上は真剣に戦い抜く必要があると感じる。 そんな二試合を見ている最中に去る選手、加入する選手のニュースを見る。毎年まるで漫画の世界のような移籍の話が彩ってくれる年末年始。少しでも穏やかに過ごしたいと思うので、元旦決勝を感情を持って見ることも無く、実にありがたい。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

助走を取ったほうがより遠くへ飛べる。

この年末年始の高校サッカー選手権を見にいくことができなくなってしまった。毎年のようにスタジアムで観戦してきたのだが、2020年、第99回目を迎えたなかでこのような状況は本当に悲しい。テレビでの放送を増やしてくれると嬉しい。 大半はセレッソ大阪に内定している選手を見るための儀式。そして、大半は僕の目の前で敗戦を迎えるという疫病神ぶり(それは予選でも見せつけていく)。今年に限ってはその影響下にはない。選手権は本当に素晴らしい試合の連続なのだ。 そんななか来年行なわれる予定だったU-17、U-20の両ワールドカップが中止となった。これらにはセレッソ大阪所属の選手たちも選ばれる可能性もあったので悲しみが込み上げてくる。若者にとっては本当に非情な結論。何とも言えない気分。 今年一年のスポーツ界は新型コロナウイルスに振り回された。そのなかでも、高校スポーツは特に大変だっただろうなと可哀想だと思ってしまう。しかし、この苦労が報われる日が必ずや来るはずだ。僕はそう祈りながら数々の試合を見ていた。 若者の未来は明るい。だからこそ、今、厳しい局面ではあるが、耐えて、次のステージへと向かう足掛かりにしてほしい。誰かの歌にもあったが、長く助走を取ったほうがより遠くへ飛べるはず。そっと背中を押したい。できればタイミング良く。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP この試合から運が離れていった なんて言わないでね・・・

8番考。

温くなったかと思ったら思いっきり寒くなってきて身体がついていかない。この数週間は、夜の散歩の際にワンコと一緒にジョギングするようになった。このおかげかどうか、体調はそれほど良くも悪くもない。やはり「普通」が似合っている。 「普通」とは一体何なのだろうか。子供の頃から「普通ではない」とよく言われたものだ(今でもだろうが、とは言わないで)。正直なところ、その違いに気付くまで、相当な時間を消費したなと思ってしまう。そんな子供時代を過ごしていた。 スポーツ界では時として「神童」と呼ばれる選手が生まれる。僕らはその逸材に心を奪われる。三十年に近づくセレッソ大阪サポーター人生でも何人かの「神童」を見てきた。その度にこの先の我がクラブに光り輝く未来が待っていると思えた。 クラブが育てる。サポーターの支えが育てる。もちろん、自分自身の努力と向上心が一番で、これら三つの要素により選手たちを次のステージへと押し上げていく。そんな毎日から辿り着く先には、8番という番号が待つのだと思い続けている。 だから8番の選手、イコール、セレッソ大阪のすべてを背負う選手という観点ではなく、どちらかというと憧れに近い存在なのかもしれない。レジェンドはあくまでレジェンドであり、その重荷まで受け継ぐ必要などは無いのだろう、と感じる。 いつの間にか8番という背番号が違う意味に変わっていく様を見てきた。この、8番を神格化することには賛否両論だと思うし、それ自体には罪は無いはずだ。この着地点がどのようになるのかは分からないが、憧れとしての8番は存在していい。 この先、このクラブで8番を付ける選手は何人も出てくるだろう。「普通」に付けるのもよし、憧れのなかで付けるのもよし。そんな8番に憧れる選手たちを育てていくことも育成クラブとしての役目なのだろうか。そう思いながら今日を駆ける。 「神童」と呼ばれた選手が、8番を脱ぎ次のステージへと向かう。これも我がクラブにとっての1ページ。韓国で傷ついた彼の肩はとても華奢だったが、今では逞しいプレーを魅せてくれる選手になった。気づいた。僕はいつまでも彼のファンだ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

選択する。選択される。

クリスマスにはプレゼントが付きものだ。そんな他愛もないことを考えながら頂き物のガトーショコラを食すイブの夜。イルミネーションもイベントも忘年会も、まったく無い師走だなと思いながら、口の中いっぱいに広がる甘い感触を味わう。 そんななか、我がクラブの選手たちが次々に入れ替わっていくのを、どこか他人事のように眺めている自分がいる。いつもこのような状況になると思い出してしまうシーンがある。何故だか、その場面が何度も何度もリフレインしてしまうのだ。 僕は常々、選手にクラブ愛を求めるのは酷だと思ったりもしている。サポーターは、自分自身の愛情によって、愛するクラブに居続けられる権利を持つ。だが選手は違う。いくら人よりも愛を持っていたところで、相思相愛が原則の世界だから。 ひとつのクラブで一生を終えるなんていう淡い幻想は、はなから存在するはずもなく、実現できる選手はほんのひと握りだ。そんな儚いプレイヤー人生だからこそ、僕らサポーターは彼らに夢を預ける。限られた、共に過ごす時間を大事にする。 柿谷曜一朗選手や木本恭生選手の移籍は、僕なりにも思うところが多々ある。 セレッソ大阪の8番問題についてはまたの機会に書こうと考えてはいる。彼らも熟考したうえでの決断であるのはいくつかの記事を見ていても手に取るように分かる。 2008年1月12日。今でも忘れやしない。吉田宗弘選手がセレッソ大阪を去ることになった日。サポーター有志が、吉田選手の「声」を聴くことなくサヨナラするのは嫌だと、当時の練習場でもあった津守に集まっての送別会が催されたのだった。 最後の試合をこの目に焼き付けようと遠征するのは何度もあったが、東京に住みだして以来、ことセレッソ大阪を去る選手の話を聞くためだけに帰阪したのは後にも先にもこの一回だけだ。サポーターにもサポーターなりの選択がそこにはある。 選手は選択するだけではない。ファンやサポーターから選択されていることも自覚する必要があるのだと僕は感じてしまう。何度も書くが、サッカー選手である以上避けては通れない道がある。そして、選択には責任が伴い、それはとても重い。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

コロナ禍の正月の予定。

天皇杯のセミファイナル、ファイナルを考えてしまう日々。とにかく準決勝から出場するJ1の2チームが勝利した瞬間に我がクラブの始動が早まる。選手たちにとって正月三ヶ日がまさに一年の始まりとしてトレーニングがスタートするのだろう。 こんな状況でアジアを意識すべきかどうか、という声もあるにはある。しかしながらACLを戦いながらJ1の優勝を目指すことに意義は必ず存在すると思う。できれば今年のロティーナのサッカーで戦いたかったという心残りが、胸を締め付ける。 そんな、正月の過ごし方をいろいろと検討している。毎年のルーティーンのようなイベント。これらはまず行なうことができなさそうでもある。巷では、空いた時間を使ってやれること、ビデオテープのDVDへの変換などがトレンドのようだ。 毎年のように靖国神社を訪れていた初詣だが、果たして2021年は行くことができるのだろうか。まあ、少なくとも御守りと破魔矢をお返ししなければならないのだ。だから三ヶ日から日をずらしてでも、どこかで九段下に降り立つ予定でもある。 そして年末年始は蹴球堂の年度代わりでもある。さまざまな処理が待っている。幸いにも今年は時間がたっぷりある。いつもはギリギリになってしまう決算も、できる限り早めにと考えているが、さてどうだろうか。そこだけはマイペースだ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP 来年の靖国神社は露店も無いようで少々寂しい。

大正区の★。

大阪府大阪市大正区。市の西地域に位置しており大阪湾に面する縦長の区。電車の駅は北の隅を走っており、大半の交通手段がバスと自転車という区。海があり川があり、そして山があるという自然豊かな区。かなりの沖縄の方が居住する区。 そんな夢のような街の大正区出身のJリーガー、瀬古歩夢選手が、2020年のベストヤングプレーヤー賞を受賞した。ルヴァンカップのヤングヒーロー賞とのダブルは史上四人目とのこと。気持ちの整理中だが、本当に自分事かのような喜びがある。 U-12の頃やインドでのU-16の頃と比べても、本当に強さを増したなと感じる。まさかあんな髪色になるとは思わなかったし(!)たしかにまだ若さを露呈する場面も多々あった。だが、強気に勝負する姿勢を見ているだけでワクワクしてしまう。 アカデミー、若手育成に関してのモヤモヤする発言が目立つ会見。それに反目するかのように、 ヨーロッパでも通用する繋ぎの部分もフィードにおいても、 間違いなくロティーナ監督だったからこその成長だと、どこの誰が見てもそう思うだろう。 セレッソ大阪とともに生きる、セレッソ大阪のことを真剣に愛している皆で築きあげたDNAやスピリットを持っている彼のことだ。これから先はどんな監督であっても成長を続けることだろう。まずは来シーズンに向けて、英気を養ってほしい。 結局のところ三月以降、地元大正区そして長居へ戻る機会がこの年内に巡ってこなかった。2021年は何とか我が故郷に戻ってゆったりと過ごしたいものだ。そのためにも何度目か分からない「勝負の何週間」を穏やかに生きることを誓うのだった。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

「物を言う」べきだ。

聞くほうも聞くほうで答えるほうも答えるほう。先日、著名人の方々の会食の話題がニュースになっていて、「マスク会食ですか?」「マスク外さないと食事できないでしょ?」に、 結構な屁理屈言いでもある僕なのだが、 笑い転げてしまった。 そもそも論点が違っているのか、ツッコミどころが満載すぎてこんなことになってしまったのか。「そうですね、食べるときにはずらして、話をするときにはしっかりとつけてましたよ」と正しく説明すればいいものの、何故こうなるのだろう。 昨日の社長の話。僕はそんなことを思い出してしまったのだった。個人的には、育成型クラブだろうが、三位を目指すかどうかとか、レヴィーが来るとか香川真司選手が帰ってくるなんてものはどっちでもよく、聴きたかったのはたったひとつ。 だが、その言葉を聞くこともなく、ただただ文章を読み上げていく、そんな説明が淡々と続く。何なのだろうか。どうも、「憤り」というよりも、何だか「虚しさ」のほうが何倍も何十倍も僕のなかでは強い。タイムラインを見なくても分かる。 サラリーマン社長としての辛いところは本当によく分かるし、微妙な立ち位置であることも理解している。だが今その彼がファンやサポーターを脇に置いての説明は一体どうなのだろうか。僕はこの放送を見て、そんなことばかりを考えていた。 論点のすり替えなどできるはずもない。それを知っているのは、僕らも彼と三十年近くを共に生きてきたからだ。だからこそファン、サポーターは「物言わぬ」ではなく、セレッソ大阪という社会で一緒に育ってきたからこそ「物を言う」べきだ。 タイムラインがファン、サポーターの多くの言葉で埋まってきている。もちろん対話も議論も180度違った意見が出たりするのは当たり前。それはまさに、僕らがセレッソ大阪のことを真剣に考えている証明なのだとも思う。その、熱さが、いい。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

良くも悪くもラストゲーム。

年の瀬になると多くの出会いと別れがある。実際に今回も既に監督スタッフが我がクラブを去り、数名の選手の契約満了も発表された。この先もさらに選手の去就が注目しなければならないなかでの監督人事。良い悪いではなく、意識の問題だ。 セレッソ大阪U-23ラストゲームは何とも言えない結果となった。それでもこの若者たちは最後の最後まで戦っていたと言っていいだろう。喜田陽選手の「昇格も降格も無い僕たちと戦ってくれたクラブの方々に感謝したい」という言葉が沁みた。 これは良い意味だけでない。今シーズン、僕も書き続けてきたが、「ここ(J3)で良いか」と思ってしまっているかのようなシーンがしこたまあった。戦っていないとは言わないが、次のステージを目指すには心許ないところもあるにはあった。 若い選手たちはここからどう飛躍していくかという彼ら自身の向上心が試されていく。みんなサッカーが好きなのは言うまでもなく、その先へと向かうためのもう一歩あと半歩をどのように踏み込んでいくか、ものすごく大事なシーズンだった。 選手たちは愛されている。愛はときに変貌する。今日の夕方の「お言葉(と言うよりはお気持ち、と言ったほうがいいのか)」を聴いていて、若い力を使い育てるということだけは方向性として分かった。だがそれだけだ。続きは明日、書こう。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第34節 鹿島アントラーズ戦。

今朝、病院に行ってきた。 医療機関はどうも苦手だが、 先日の健康診断の結果を踏まえて検査を行なってきたのだった。これからは少し定期的に通院しなければならないわけだが、まずは問題を把握することができて良かったなとも思っている。 鹿島アントラーズとの最終試験の前日。アミーゴから連絡があった。ご飯でも、と思っていたが、このような時勢でもありなかなかそういうことも憚られる状況。残念ではあるが今は耐えるとき。そんな日々を過ごしていると、正直参ってきた。 さて話は戻る。その肝心の試験は引き分けに終わり、 七月からの半年間で一気に駆け抜けたこの忘れられない戦いであった 2021年シーズンは、最終的に四位という結果でフィニッシュした。来年のACLへの道程が元旦まで延ばされたことになる。 最後の最後までロティーナサッカーを貫く素晴らしい試合で締めくくったと言っていい。世界が縦に速いサッカーになりつつあるこの時代に、少ないリソースでどう立ち向かうか。僕らはこの二年間で多くのものを学んだ、そんな気がしている。 思いのほか多くのセレッソ大阪のファン、サポーターが観戦されていた。いつも驚かれてしまうのだが、Jリーグが発足して以来一度も訪れたことがないのがこのカシマスタジアムなのだ。何故か毎回日程が合わず、今年は病魔に邪魔をされた。 そして新型コロナの影響で結局のところ今シーズンのスタジアム観戦はたったの一回に終わった。聖地には行けずじまい(実のところOITOにも顔を出せていない)で終わるシーズンなど初めてだ。そんな、特別な一年。無事に終われて良かった。 次のサッカーがどのようなものになるのか。固定観念は良くないのだろうが「時代への逆行」では無いことだけを今は切実に祈りたい。ロティーナ、イバンの功績をクラブが残さなくとも、僕らファン、サポーターには生き続けるのだと思う。 最終試験を半分だけパスした我がクラブ。来年のことを考えると鬼が笑うが、少なくとも僕らは笑ってはいられない。試合を終わってからプレビューショーという体たらく。この映像を見ての未来予想図。まあ、とにかく明日の「お言葉」やな。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

アンダーカテゴリーの素晴らしさ。

寒いのは何とか着れば耐えられるのだが、何故か今日、右手親指の爪の境い目のところがひび割れした。マウスを持つ手、石鹸やアルコールで洗う手がとてつもなく痛い。ハンドクリームあたりで気を紛らわせるのだが、カバーできる由もない。 やはり、アルコール消毒や過度な手洗いが皮膚を弱くしているのだろうか。そんなことを思いながらこの文章を書くその親指がジンジンする。人間なかなか我慢できないもののひとつに切り傷がある(まあ今回のは切り傷というかどうかだが)。 そんな、年の瀬に向かうなか。各カテゴリーにおいて何名かの日本代表候補選出の発表があった。アンダーカテゴリーのワールドカップ、そして来年行われる予定の東京オリンピックに向けて、我がクラブの選手たちが厳しい戦いに臨んでいる。 「育成のセレッソ」と周りからよく言われる。実感はあるものの、Jリーグの各クラブも同様に育成には力が入っていると思われるし、切磋琢磨している状況なのだと感じる。先日の話ばかりで恐縮なのだが、強化すべく動いているクラブもある。 さらには、そんなアンダーカテゴリーの選手たちを応援するファン、サポーターの力も素晴らしいものがある。ホーム、アウェイ問わず彼らを応援するために旅に出る方々も本当に多い。Jリーグから世界へ飛び出していく選手たちを支援したい。 まったく関係のない話だが先日あるインドの方と知り合い、仕事の話をしていた。その際にU-16アジア選手権をゴアまで見に行った話をしたところ、「サッカーのためだけにインドに来た人を初めて見ました」。最高の褒め言葉だと受け止めた。 それにしても親指が痺れる。加齢という辛い現実を見ながら僕は、若手選手の活躍を祈念する。トップの選手層を厚くするためには彼らの頑張りがとても重要だ。そうだ。CEREBAKAの第3節はアカデミー関係のあの方に。思いが膨らんでくる。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP この頃は 瀬古歩夢選手と ディエゴやったなー

初期化。

機械ものは、やはり難しい。ブルーレイレコーダーに外付けハードディスクを取り付けていたのだが、見事にクラッシュした。すべての録画とお別れするときが来た。関係を作るのには時間がかかるのだが、壊れるときはまさに一瞬なのだろう。 果たして、クラブと監督の関係も同様と言えるのか。試験勉強も終わり、いっぱい本を読める、と以前書いていたのだが、もちろんそれはオーディオブックも同様なのだ。そのオーディオブックで今、「全裸監督」を読んでいる(聴いている)。 村西とおるさんは特別なのかもしれないが、監督とは個性の塊なのだろうなと感じてしまう。その個性に対しての周りの反応は、当然ながらポジティブなものとネガティブなものが同居している。逆に言うと、ついてこれるかこれないか、だ。 それは多分クラブだけではなく、一部の選手もだろう。そう言えば三部練が無理、という、どこかで聞いたような話を先日お会いした方から伺ったのを思い出す。クラブとしては監督の個性を取るのか、それとも選手の立場か。いやはや別の? たとえ外側だけ取り繕っても、いつか必ずほころびは生まれる。今が良くてもこの先はどうなっていくかなど誰にも分からない。次の監督を決めるというのも基本的な原則は変わらないのだと僕は思う。そこだけは普遍的であり不変的なのである。 泣く泣くハードディスクを初期化した。どうもハード面は大丈夫で、要はデータだけがダメだったようだ。空のフォルダと燦然と輝くとてつもない空き容量。機械もののようにサッカーの世界では「はい初期化しますよ」はまったく通用しない。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第33節 サガン鳥栖戦。

人生、上手くいくことといかないことの両面が存在する。どうしても駄目なときが、長いこと生きていれば必ずある。逆に、何も考えずにいったら上手くいったりするケースもあるのだ。だからこそこの世は複雑で面白い。弄ばれているようだ。 ワークショップのファシリテーションがあったため、後半の途中から見たこの試合。偶然ではなく必然だと感じるような内容だった。ロティーナ監督のホーム最終戦が、こんな結果で終わったことに両面の感情が溢れ出してくるのは、果たして。 試合終了後の言葉にも残念さが溢れていた。DAZNの実況の方も話していた。そうだ。たった二年しかいなかったのだ。そのなかでフィロソフィーというか、これまでのセレッソ大阪のサッカーには無かった感情が僕自身に生まれたのも事実だ。 言葉には魂が宿る。ロティーナ監督は間違いなくこの先も日本で指揮されるのではないかと、言霊から感じ取れた気がした。ロティーナ監督がいたからこそ光り輝いた選手とそうでない選手。監督も人、選手も人、そして僕らサポーターも、人。 三位のポジションを争う戦いは三日後。今一度ロティーナ監督がセレッソ大阪に来た意味を問う大事な一戦となるだろう。中二日でのアウェイは選手にとって何も良いことは無いだろうが、このサッカーの集大成をしっかり見届けたいと思った。 今日のワークショップも上手くいけたところといけなかったところがあった。僕にとっての試練でもある。セレッソ大阪同様、しっかりといただいた意見や指摘を意識していきたい。複雑ななかでも哲学だけは忘れない。それが重要だと学んだ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

本当の"声"を。

寒い。何だか一気に冷えてきた感が否めない。明日の試合。今季のホーム最終戦は、ぜひあったかい格好で見に行ってほしいなとも思っている。そして、試合前後はF.C.OITOへお越しくだされば幸いである。ミッドウィークの最終戦も趣がある。 明日の夜は、自分自身のワークショップもあり、ゲーム途中からしか見ることができない。しかしながら我がクラブの選手たちは何とか成し遂げてくれるだろう。そんな思いを右手に持ちながら、ファシリテーションを行なうことになるだろう。 サポーターから求められていた12月12日という期限。やむなく期限を越えたのか、それとも意図的なのか、いやはやそんなものは見ていないのか。いずれにせよ20日に社長がYouTubeチャンネルにて声明を出すようだ。さて、どうなることやら。 サポーターが期待する真の内容が「来シーズンに関するご説明」に含まれているとは思えてこないのが、自分自身にとってもどかしい。しっかりと社長の"声"で聴きたいが、そうならないと考えてしまうこと、それ自体が問題の根っこだと思う。 社長は会社の長。社長という仕事はサポーター対応以上の重みがある。だから社長の本当の"声"かどうか、僕らがそれに気づくことできるかが、この日曜日の唯一の目的。どうか僕らが求めている真の答え。それが聴けることを切に願っている。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

ポジティブを学ぶ。

試験勉強ばかりしていた二ヶ月が終わって、ようやく本がたくさん読めるようになった。昨日もブックオフで二冊の積読本を購入して我が家の本棚を汚す。この本たちは、いつの日か僕の脳みそに刻まれていくのだろうか。時間はそれほど無い。 しかしながら最近は視力も落ちてきたりしているので、細かな文字の本を読んでいると結構な割合で疲れてきたりもする。もちろん老眼ということもあるだろうし、この先を考えるとどうしても少しだけ不安になってくるのは仕方のないことだ。 この視力というキーワードで言うならば、音だけでボールを扱い、ゴールを目指すブラインドサッカーということになってくるだろう。そして、僕がもっとも尊敬するブラインドサッカープレイヤーが、もう15年近く交流のある落合啓士さんだ。 その落合さんが松本山雅B.F.Cの監督になられたのが今年の夏。本当にすごいことだと感じると同時に、このポジティブさがどこから来るのかといつも感じさせられている。その落合さんが今月から「 オンラインサロン 」を始められたとのことだ。 なかなか始められない僕とは対照的に、どんどんと前に向かって走り続けているおっちーさんを見ているだけで、非常に勇気づけられる気がするし、それだけでなく本当に「何かしなきゃ」と思わされてしまう。またお会いして話を聴きたい。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP この食事会もご一緒したが このとき昭恵夫人を紹介したな 僕も初対面だったが(笑)

脳。

脳の機能が衰退していっているのではないかと最近はよく思う。この駄ブログでも再三書いてきているのでよくお分かりのことと察するが、物忘れ、特に人の名前が出てこないときがここ最近は多くなってきている。この先どうなるのだろうか。 今日とある資格試験を受検してきた。何はともあれ何とか合格ラインを超えることができてホッとしている。受検自体はCBTと言われるパソコンを利用するのだが、僕自身この方式が初めてのことだったので、思いがけず軽く動揺してしまった。 そしてその動揺は試験問題にも。第一問目から考え込んでしまい、これからどうなっていくのか先行きがまったく読めない展開になる。心を落ち着かせて、記憶を辿る旅に出る。少しずつ頭の中にかすかに残るヒントをもとに、導き出していく。 最後の「終了」ボタンを押す瞬間はまるでアディショナルタイムのペナルティキックのようだ。ボタンをクリックしたと同時に結果が表示されるという非常に残酷なルール。学んできた集大成が吉と出るか凶と出るかの、まさに「今際の際」だ。 しかもこのCBT試験。いくつもの試験が同一部屋内で複数行なわれるという、何とも言えないシチュエーション。近くでは漢字検定なのだろうか、カチャカチャと何かを書いている音にどうしても耳や目が行ってしまう。実に集中力が試される。 約二ヶ月間、結構なくらい真面目に勉強したおかげでもあり非常に満足している。頻繁に訪れたら気が持たないだろうが、たまにはこういう「全集中」を必要とする場面があったりすると、衰えつつある脳への刺激になって良いのかもしれない。 セレッソ大阪の監督が誰になるのか。あの御方の再登場なんていう少々付いていけないような内容がニュースで流れてきている。選手やスタッフ、ファン、サポーターのことを理解できない、理解しようとしない状況が、僕の脳を疲れさせている。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP 写真はまったく関係ありません

第32節 柏レイソル戦。

戦いにはそれなりの理由が存在する。戦わないといけない状況においては、その「戦う理由」が明確だったりするのだと僕は思っている。それは、生きるため、守るため、自分のため。様々な「戦う理由」のなかで、人は葛藤しながら生きていく。 例えば今日の柏レイソル戦。ラスト10分という時間はまさに「戦う理由」が明確だった。勝ち点1より勝ち点3。必ずや3ポイントを取るために、あえて0になることを恐れずに戦えていたかどうか。戦い方はそうなっていたかどうか。そこに尽きる。 だからこそ、サポーターがそこにいるはず。何が大事で、何を残して何を捨てさせるのか。試合の中でメッセージを出すことができるのが、サポーターの力なのだと僕は感じている。そういう意味では声の出せないこの状況がとてももどかしい。 最後のシーンも、サポーターの声援があれば、清武弘嗣選手の判断にも変化があったのではないかとも思える。2ポイントを落としてしまった感が無くはないが、僕らの理由探しの旅は続く。残り二試合で確実に6ポイントを取ること。それだけ。 そう言えば先週からか、イングランドプレミアリーグでもファン、サポーターが入場できるようになっていた。久々にリヴァプールの試合を見て、スタンドから響く「You'll never walk alone」を聴いた。ライバルながら聞き惚れてしまった。 セレッソ大阪も「POWER AND THE GLORY」をサポーターが歌えるようになったとき、本当の意味での一体感が戻ってくるのだろう。この歌を歌う理由。そんな当たり前の質問をする必要はまったく無い。そう考えさせられた粋な試合だった。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

旅するCroatia。

クロアチアとは縁がある。日本サッカー的に言えばフランスワールドカップとドイツワールドカップでの対戦。セレッソ大阪では言わずと知れた我らの SUPER DOBRO マテイ・ヨニッチ選手。彼以外にも多くのクロアチア人選手が在籍していた。 僕個人としても2002年日韓ワールドカップイヤー以降、クロアチアとは切っても切れない関係となっていった。アミーゴとのつながり、それ以外でもクロアチアという国に対しての思いなどを含めて、この18年という年月をしみじみ感じている。 このようなコロナ禍で「オンラインツアー」なるものがトレンドになっている。そんな折に、あるクロアチアのオンラインツアー「 クロアチア・ハートフルライブ 」を紹介していただき、第二回目(第一回目はドブロブニク)の会に参加した。 zoomによるヴァーチャルツアーの先は「クヴァルネル」。ザグレブとドブロブニク専門の僕は、残念ながらリアルにはこの地に行ったことが無かった。どうしても中心に考えがちだが、サッカー的にいくと、リエカということになるのだろうか。 何キロにも渡る海岸の遊歩道を歩いてみたいと素直に思ったし、東西南北に広がる「これぞクロアチアだ」とも言える風景に吸い込まれそうになる。クヴァルネル観光局長の説明を聴きながら、まるでそこにいるかのような没入感もあったりした。 サプライズかどうかは知らないが、駐日クロアチア共和国大史も参加された。学ぶことも多く、また、美しい風景を見ることができて、本当に楽しいヴァーチャルツアーとなった。オンラインで見て、ますますクロアチアに行きたくなってきた。 わずか一時間の旅だったものの、またひとつクロアチアを好きになった。残された人生のなかであとどれだけクロアチアに行くことができるだろうか。話を聴いていたら、日本からザグレブは、トランジットだとPCR検査無しで入国可能らしい。 また機会があればこのヴァーチャルツアーに参加してみたい。そして、より多くの日本人にクロアチアという国を知ってもらえたら幸いだ。そうそう、市場で売っていた蜂蜜がどうしても気になっている。買うためだけに渡航するのも、ありだ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP ぜひ蹴球堂でCroatiaを体感してください! SUPER DOBRO(めっちゃええ)

共通点。

柏レイソル戦も国営放送されるらしい。いま一番の目玉になっていることに気づいてくださる方が多くなっていて本当に嬉しい。監督が退任する、外国人選手の去就がニュースになってから、素晴らしいサッカーを展開している。皮肉なことに。 何だか2001年のラスト三試合を思い出した。あのときはたしか、降格が確定した直後の三試合を西村さんが指揮した。お世辞にも素晴らしいサッカーとは言いがたいが、非常に気持ちのこもった戦いで最終的には天皇杯ファイナリストとなった。 まったくもって展開は違うにもかかわらず、何故このシーズンを思い出してしまったのだろうか。共通点がわずかにあるとすれば、それは翌年に大きなイベントが日本で控えていること。そしてもうひとつ挙げるとすれば、僕自身かもしれない。 まあ、そんなどうでもいい個人的な共通点はともかく、この残りの試合に対しての気持ちの高ぶりを感じてしまう。それは当然ながら監督、選手、さらにはファンやサポーターもだ。さて、クラブの御方々は、この状況をどう見ているだろうか。 いや、本当にどうでもいいことだ。いま必要なのは、ここからの五連勝で、八連勝だ。まずは国営放送での勝利と、今週(日曜だから来週か)もやべっちスタジアムでストップ解説が見たいと思う。毎週ごとの共通点にしていきたいと思っている。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP 2001年最終の札幌ドーム

「テクニック」と「スキル」。

先日から、エディ・ジョーンズさんの言葉である「テクニックとスキルは違う」が頭の中を駆け回っている。どのような場面においてもこの言葉は充分に当てはまり、心奮い立つか、もしくは情けなさが前に出る。人間の持つ両面かもしれない。 何事も同様だが武器は持つだけでは駄目だ。装備して常に実践で使う。仕事で言えば技能や資格が「テクニック」であり、それらをどこで使えばよいかを見極める能力が「スキル」なのだろう。これだけで働くことの意義などが分かる気がする。 とは言え、何となく、この「テクニック」の習得だけで終わってしまう方も少なくない。そして、もっと良くないのは、その「テクニック」を付けさせることが目的になってしまっている、ボタンを掛け違えてしまった上司や上長なのだろうか。 やっぱり道具は「使ってナンボ」なわけだ。だからそう考えると「テクニック」はあくまでも手段と言える。そういう意味では「テクニック」を手に入れるチャンス同様に、使う場面を作ってあげられることも上司の役目だと、僕は思ってもいる。 今日、色々な寂しい話を聞いていて、少し思うところがある。「テクニック」はあるはずなのに、それらを使わないのは、もはや罪とも言えるのかもしれない。その「テクニック」は何のために存在しているのか。そんなモヤモヤ感が残っている。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

ハナサカクラブと私。

結局のところ今シーズンはホームスタジアムでの観戦が叶わなかった。それが何だとは思ってはいるが、2020年という特別な一年が終盤を迎えかけた今、多くの出来事を思い出したりしている。結局のところ「愛している」しか浮かんでこない。 とは言え、進めたい事柄はなかなか芳しくなく、言い訳ばかりをしている気もする。唯一、今のところは元気に笑って過ごせているのが救いだ。ワクチンの話はメディアで伝わってはくるものの、来シーズン、少なくとも序盤は同様なのだろう。 そんな中で大事なお仕事が待っている。それは「SAKURA SOCIO」の更新と「ハナサカプレーヤー」の契約更新。特にハナサカクラブには、2006年の”あの”こともあり(もっと以前からの話でもあるのだが)自分自身、非常に思い入れがある。 セレッソファンだけでは無くどのJリーグクラブにおいてもアカデミーに対する惜しみない愛がものすごいと感じる。育成が、クラブを、そして日本を強くすることをみんなが知っている。だからこそアカデミーとの関係性が重要なのではないか。 先日某御方と話す機会があり、セレッソ大阪アカデミーの功績について再認識した。14年前、このハナサカクラブ構想を初めて聞いたときと同じような眼の輝きが今もあった。多くの思い出を語り合っていて、それが本当に嬉しかったのだった。 たとえ離れ離れになってもつながっている。そんな気持ちになれたこと。これからも多分かなりお世話になるだろうこと。こういう御方と巡り合わせてくれる場所。やっぱりセレッソ大阪というクラブは素晴らしく、そして愛すべき存在なのだ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

耄碌。

比較的暖かい日だとありがたいと感じる。そのせいか風邪のほうも少しだけ良くなってきた。DAZNで復活した某番組のストップ解説を見てひとりニヤニヤしながらカレーを食べていると、何だか耄碌してきた感もある。しその実醤油漬けが合う。 その清武弘嗣選手のゴラッソ。選択された言葉と映像がシンクロしていて、すべてが美しい。かなりのマンマークをくらっているなかで微かに開いた穴を狙う清武選手も素晴らしいが、ピンポイントとスルーパスを出せる藤田直之選手も凄い。 藤田選手も務める、ボランチというか守備的ミッドフィルダーというか、このポジションがうちのサッカーの鍵でもあると思っている。このうちのサッカーが来シーズン、変わっていくことを予感させるかのように、契約満了の話が沸いてくる。 僕自身、中身をまったく知らない(何か聞いてるんじゃないの?とか何でも知っていると思わないでほしいのだが)ので何かを言える立場ではない。選手の気持ちはその個人の感情が動かしているのだろうし、僕らは見守るしかないのだろう。 もちろん2021年シーズンのことは動いていかなければならないのも理解できるが、僕らにはまだ五試合も残っている。連鎖反応のような状況を垣間見るとやるせなくなってくるはずだが、耄碌してしまったのか、鈍感になってきている気もする。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP 気分転換に散歩していたら こんな花(?)を初めて見た。

「チームはファミリー」という言葉が最近よく浮かんでくる。

昨日ダブルダブルと喜んでいたが、セレッソファンのフェイスブックグループを見ていると、レディース、そしてU-18も勝利したということを知って赤面している。やはり良い情報はみんなでシェアして、みんなで幸せを実感できるのが素敵だ。 もちろんそこでは良い話だけではなく、しっかりとした議論も大事である。過去から連綿と続いているのだろうが、シーズンが始まる直前や節目節目ではリアルなミーティングを開催して、多くのサポーターで意見を戦わせることも大事である。 同じセレッソ大阪のファン、サポーターといえどと、信念や考えていること、ポリシーなどもまちまちであると思うし、それが当たり前だとも思っている。今回の某案件も、それをよしとする方もいれば到底受け入れられないと考える方もいる。 例えば、サポーターがスタジアムで奏でる応援も同様だ。いま歌うべきいま勇気づけるべき瞬間ななんてものもほとんど感覚に近いだろう。その感覚という曖昧なものをどう共有していくかで、スタジアムの雰囲気が変わっていったりしていく。 応援にせよ何にせよ、最初に声をあげるというのは本当に勇気がいることだ。何事も、前例のない行動には否定的な意見や批判じみた内容も集まってきたりする。だから、いい。その声に向けられた言葉は、いつの日か集合知になりえるからだ。 僕らセレッソファン、サポーターは、初代監督であるパウロ・エミリオさんが言った「チームはファミリー」という言葉を大事にしている。これは何も、友達感覚ということではなく、何かを成し遂げるための仲間なのだと改めて感じてしまう。 クラブとの距離が遠くなったと感じる今だからこそ、これからも多くの真剣な言葉を交わしたいと思うし、もっともっと議論できる対話できる場を増やしたいなとも思う。「あの頃は良かった」ではなく「あの頃”も”良かった」に早く変えたいね。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第31節 北海道コンサドーレ札幌戦。

どうも風邪っぽい。最近の気温差に負けてしまったのだろうか。熱はなさそうではあるが鼻が非常にむず痒いという状況。ティッシュペーパーの使用量が結構なものになってきた。ひとまずはゆっくり寝ることで体力を回復したいと思っている。 そんな寒い日のJリーグ。何の因果かトップとネクストが同時刻キックオフとかどういうロジックになっているのかと思ってしまう。また今節は国営放送もされているということだったので、あえてそちらで見る。あの方の声を久々に聞いていた。 結果としてこの試合のスコアは非常満足できる。僕らはもう勝ち続けるしかないが、自分たちが勝ち点3を手に入れるのと同時に、他のクラブには勝ち点を落としてもらう必要がある。相手を変えることはできないが影響を与えることはできる。 新型コロナウイルスで北海道も大阪も、もちろん僕がいる東京も、今、非常に厳しい状況である。両クラブのホームタウンの実情を鑑み、遠征は悩んだ末のことではあるだろうけれど、現地にサポーターがいてくれるのはとても心強く感じる。 試合開始前にはディエゴ・アルマンド・マラドーナさんへの黙祷が行なわれた。 サッカー界への多大なる貢献に感謝して すべてのスタジアムで実施されていると聞いた。ニュースを見ていると、裏ではまた何かきな臭さが出てきて、少々辛い。 一試合一試合が本当に重要な毎日。選手もサポーターも体調管理は大事だと改めて感じる。「風吹けば桶屋が儲かる」というだけでは駄目なんだろうが、その風がうちを後押ししているような気はしている。そんなに甘くは無いのだろうけれど。 少なくとも僕自身の風邪を早く治す必要はある。というのも来週には大一番が待っているからだ。何とか体調を合わせていきたいと思う。だがどうしてもU-23の試合も気になって、こんな時間に見逃し配信。だから治らないのだと自分を責める。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

これから写真をどうするか。

フェイスブックの「過去のこの日」を見ていて四年前の今日がちょうど、あのファジアーノ岡山戦だったことに気付く。本当にありがたい機能だなと思いつつも、すべてが良い思い出ばかりでもないので、この振り返りなども良し悪しではある。 この四年前の試合。前日まで香港にいた。夜中の便で羽田まで帰ってきて、国内便に乗り換えて大阪へ向かうという今の僕にはもう無理っぽい旅路でもあった。しかも香港での宿泊(Airbnb)で若干のトラブルもあったので、どっと疲れていた。 それでもこの岡山戦を見ることができたのと、ケンペスさんとのお別れができたこと。そして勝利を手に入れられたことが重なって、充実した数日を過ごしたと今でも瞼に焼き付いている。トラブルも何もが、思い出としてそこに描かれている。 そんな場面を僕はよく写真に収める。撮った写真はすべてGoogleフォトに保存してきたが、今後は少し方法も変わってきそうだ。というのも先日Googleが発表した「ストレージ保存容量の考え方」の変更。それがこの発端となっているわけだ。 Googleフォトは保存の方法によってストレージ使用容量を使わず、言わば無制限にフォトを保存できる便利な環境だった。だからほぼほぼフルに使いこなしていたし、なによりGoogle特有のタグ付けによって、検索も容易なデータベースだった。 半年後からはGoogleフォトの容量も加算されていくことになる。今の僕の撮り方からいくと、どの程度の課金を考えるべきなのか検討がつかない。現在は他のサービスも含めて考えをまとめていこうとしているところで、その最有力がアマゾン。 プライム会員ならフォトはすべて無制限だ。もちろんクラウドサービスなのでサービス仕様を変更してくるなどお茶の子さいさいだから、いたちごっこになる可能性もある。そんな、比較的緩いことなどを考えてみた、そんな金曜日の夜だった。 明日は札幌と大阪という、非常に厳しい環境に置かれている地域同士の試合だ。当然のことながら不要不急の外出を控えた中でのゲームにはなるのだが、必ずやあのときのような熱い試合になると信じている。そして勝ち点3を持って帰阪する。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

「言葉の定義」と納得感。

今日聴いていたセミナーで「デジタルトランスフォーメーション」についての話題があった。不束ながら業界に参画している身でもあるので非常に興味深い内容が、自分なりにものすごく腑に落ちた。「言葉の定義」はやはり大事だとも感じた。 この「言葉の定義」がシンクロできていないと、ボタンを掛け違えた状態でキックオフしてしまうことになる。その状態がひたすら続くと、全体に及ぼす影響力となり、問題が発生する可能性もある。そうならないための「言葉の定義」なのだ。 ゴール裏のサポーターは今、12月12日までに納得のいく説明を求めている。しかし、クラブ側が応じるのかどうかは今のところ分からない。「サポーターの気持ちは伝わっている」と語られてはいるものの、その「言葉の定義」は不明確である。 ここで冒頭に戻る。「デジタルトランスフォーメーション」だ。DXと表されることもあるのだが、この「X」。英語圏における「trans-」でもあり、それらは様々な意味に結びつけられるケースも多々ある。まさに「言葉の定義」はそれぞれだ。 だが本質はひとつだ。ましてやそれはアナログのデジタル化ではない。変わればいいというものでは無いのだ。だから僕はこの状況をとても心配している。何度も同じ過ちを繰り返してはならないと。変化は大事だが変化だけがすべてではない。 フランスの地下鉄のデジタルトランスフォーメーションの話を聴いて、さらに納得感が得られた。正統な方向性があれば、少なくとも人は受け止めることができることも知った。だからこそ早く、その言葉を聞きたいのだ。今すぐにでもなのだ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP 日本の地下鉄はどうなるだろう。

アカデミーと桜なでしこ。

変わり始めた。風間八宏さんがセレッソ大阪スポーツクラブ技術委員長に就任されたことと同じくらい、宝田沙織選手のワシントン・スピリッツへの完全移籍に驚いている。桜なでしこがWEリーグに参入しなかったことも影響しているのだろう。 この駄ブログでも再三書いてきたわけだが、セレッソ大阪堺レディースが果たしてどのように変わっていくのか非常に興味がある。わずかばかりではあるが話を聞いたりしていて、この先のことをどう捉えればいいのか、とても考えさせられる。 そして重要なアカデミー。最初の最初から見てきていてここ数年(というか10〜15年くらい)で多くの選手が輩出されたが、どこかの記事が書いていたように、南野拓実選手以降の育成については考える余地があるのだろうなと僕も感じていた。 U-23が今年度で一旦終了することが、吉と出るか凶と出るか。J3でいい、と思っていた選手がいたとは思わないが、小さくまとまってしまう原因のひとつだったとも考えてしまうのだ。やはり常に厳しい競争のなかでこそ、人は変わっていける。 選手同様に組織も変わっていかねばならない。変わっていかなければならない。特に今のようなVUCA(Volatility(変動性)Uncertainty(不確実性)Complexity(複雑性)Ambiguity(曖昧性))の時代だからこそ、余計に変化が必要となる。 だから、変わることへの抵抗感は毛頭ない。どんどん変えて、そして駄目だったらやめればいい。それが大事だ。しかしながら「本質」を見誤ってはいけない。そっちのほうが数倍いや数十倍、数百倍大事だ。トップは多分その目が必要だろう。 本当にセレッソ大阪が大事だと思っている人は、どんなカテゴリーやジェンダーを問わず、セレッソ大阪という冠を持つチームに対しては、何があろうとも限りない愛情を注いでいくはずだ。僕のサポーター生では、これだけは間違ってはいない。 アカデミーも桜なでしこも大事なファミリーだ。もちろん、何処ぞの意向や考え方の相違も無くはないし、思いや夢や理想と現実が相反するケースはいくらでもある。その結果がこの現状だとするならば、やはり、変えなければ、ということだ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP 僕のところにも到着しました。

「何もしないより何かした方がいい」。

「裏の裏は表」という言葉があるが、人間はコインとは違う。裏は、どこまでいっても裏のまま、ということも中にはある。最近はそんな気持ちばかりに目が行って、自分が恨めしい。たとえ裏切られようとも信じる力が必要だと感じてしまう。 裏からそんな話を聞いたりするとさらにげんなりしてしまうが、そんなことはめげずに、懸命に生きるように心がけている。そのひとつが若者に対しての勇気づけや動機づけ。裏表なく対話することによって、さまざまなものが生まれてくる。 先日あるアミーゴと話をした。何かやりたいね、やれることがあって、やる必要があって、今やれるなら動くべきではないか、という内容だった。今こういう時代だからこその話題だったのだが、そこに考えないといけないものがひとつ増えた。 現在ゴール裏などにいる一部の若者たちの成長を遠くから見てきた。セレッソ大阪が好きで好きでたまらない彼らが、どんどんと行動を起こしていくことに嬉しさを感じる。脳も見た目もずいぶん歳を取ってしまったことさえも誇りに思える。 そんななか、このような アンケート が展開されている。若者にはひとりひとり持ち合わせた能力が存在する。その能力を活かし、動く。そのような姿を拝見して感動しつつアンケートに答えたりしている。内容が非常に的を得ていて、流石だ。 幕の話もだが、サポーターの行動とは本当に偉大だ。引くとか押すとかだけでなく、知性と論理性を持っての行動には裏も表もない。まだまだ僕らにはやれることがあると感じる瞬間だった。居ても立っても居られず、僕も少しだけ動き始めた。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

手厚い看護。

新型コロナウイルスによる影響が日本全国各所で出ている。特に、キャンペーンを打って経済の回復を見込んだであろう、旅行業界と飲食業界では非常に厳しい状況だ。それより何より、医療現場の逼迫が本当に課題でもある。他人事じゃない。 もちろん感染者やお亡くなりになった方々も多くなっているからとても悲しい気持ちになる。こういうときだからこそグッと耐えることか大事だと自分自身に語りかける。そして同様に、僕らの生活のために働いてくださる方々へのリスペクト。 こんな話をするのは野暮かもしれないだろうが、多くの方々の感染対策によって助けられている面もある気もする。しかしながら自分の周りに感染者が少ないという理由で、PCR検査を拒否する方がいるという話を聞いて、少々考えさせられる。 僕の仲間も今は耐えている状況で、現状では感染したということは聞いていない。いつどこでどんな脅威に曝されるかは分からない。 死活問題になるにも関わらず店を閉める決断もだ。 耐えることができる国民性はどこまで続けられるだろうか。 話は変わるが、とある記事が目に入った。それは明治維新という革命についてだ。革命と聞くとどうしても死者が多くなるという印象のもとで物事を考えてしまう。現に、戊辰戦争においては一万人以上の方の尊い命が失われてしまっている。 だが、西南戦争を併せて三万人余りと言われていて、フランス革命やロシア革命といった海外の革命と比べてもその数は少ないとされる。これは日本人の身体が強いというだけでなく、周りの方々の手厚い看護があったからではないだろうか。 当然ながら、死者数に多いも少ないもなく、悲しい出来事であることに変わりはない。だからこそ、今を生きる僕がやるべきことやらなきゃならないことを、しっかりと理解した上で行動に移していかなくてはならないと改めて感じてしまった。 日本の新型コロナウイルスに対する、医療現場の皆さんにつながる話のような気がしてしまうのは僕だけではないはず。だからこそ医療現場の皆さんに負荷をかけないように手洗いやマスク着用など、自分自身の予防はなんとか保っていきたい。 革命という混乱期と並べてしまって大変申し訳無いと思いながら、明治維新について調べ回っている身として書かせていただいた。日本人という枠だけにこだわらず、世界中で手厚い看護が展開されていることに本当に感謝の念しか浮かばない。

第30節 横浜FC戦。

古橋達弥選手が先日、現役引退を発表した。セレッソ大阪でも5シーズンを共に過ごし、本当に素晴らしい選手だったなと今でも感じる。サッカー選手だけでなく、人としても素晴らしい方であったと思っている。お疲れ様でしたとお伝えしたい。 "あの"シーズン。J2で戦うことになり去就が注目された古橋選手の「残留希望」Tシャツなどを作った。サポーターが強烈な意思を示していたあの日のことを、つい先日のように思い出したりする。もう、あんな状態になることはないのだろうか。 2020年シーズンの残り試合は今日を含めて七試合となっていた。その貴重な一試合を勝利することができて本当に嬉しい。モニタ越しにもかなりの重苦しさを感じてはいたが、スタジアムの様子はいかほどだったのか、想像することができない。 アミーゴのタイムラインで、多くの幕が出されていたと知った。ここ数日でも書いたように、説明はおよそ理解できないものになるのか、それとも納得感のもとに収まる内容なのかは分からない。ただただサポーターは、意思を示すことだけだ。 珍しいと感じたくらいのロティーナ監督の喜びように、まるで自分ごとのように感じたことと、正月まではこのクラブで戦っていきたいという強い意思、意志を僕は見てしまった。若干気になる内容もほうぼうから聞こえてくるが、まずはそこ。 意思と意志を忘れてはならない。プロサッカーであるからこそ結果が一番の世界でもある。まずはここから4つ勝ち切って朗報を待つ。その先に見える景色がどうであろうと。十三年前の今日のブログにこんな言葉が書いてあったので引用する。 ーーーーーーーーーー 2007/11/29 01:34:22 魔法 もしかしたらそんな話なんて 世間にとっては句読点のひとつに 過ぎないのかも知れないけれど でもそんな一瞬のほんのほんの 些細な出来事に燃やす情熱の 素晴らしきことうつくしきこと たかが千円のされど千円の 祈りが願いが魂が込められるように 僕は魔法をかける 今、僕は魔法をかける でも僕の魔法なんていつだって すぐに破られてしまうんだ そりゃそうだよ みんなの気持ちが詰まった こんな沢山の思いだもの ーーーーーーーーーー NEVER STOP,NEVER GIVE UP

「ザ・イングリッシュ・ゲーム」。

セレッソ大阪の歴史などまだ三十年も経っていない。だから若気の至りと言ってしまえるのかもしれない。それでも「最高の週末」を僕らにくれているだけで幸せと感じられるのも事実だ。クラブとともに生きていると独りごちる瞬間でもある。 初めてプロサッカー推進室に行ったときも、このクラブを真剣にサポートしようという気位を持つアミーゴと初めて集まったときも、ここから始まる「最高の週末」を思い描いてニヤついていたような気もする。サッカーはそんな時間をくれる。 今更ながらではあるがNetflixの「ザ・イングリッシュ・ゲーム」を見ている。初のプロサッカー選手と言われているファーガス・スーターとスコッツ・ジョン・ラヴ。そしてFA会長を長く務めたアーサー・キネアード。本当に勉強になっている。 19世紀という自由と不自由の最中でサッカーというスポーツが生まれた。そして、その「おらが街のチーム」の試合を待ち望みながら働く人々。そのなかで悩みや葛藤や、もっと大きく広げると人生という波に揉まれながら、必死で生きていく。 そして、選手には選手の思いもある。このドラマのなかでもそれが多く表現されている。分かってはいる。事情は痛いほど分かるのだが、ファンやサポーターの心情では理解しがたいものもときにはある。だが、どこまでもファンは温かいもの。 だから、人々はその先にある「最高の週末」のために前に進む。愛するチームを応援するために家族とともに今を生きるために働きながら。そんな当たり前の日常をくれたサッカーの歴史を楽しみながら僕はインドアバイクをひたすら漕いでいる。 人生の半分以上をセレッソ大阪とともに生きてきた僕のような人間や、生まれたときには既にクラブが存在していたというネイティブな方々にも平等に「最高の週末」はやってくる。「ザ・イングリッシュ・ゲーム」はそんな僕らのバイブルだ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

ミューチュアルリスペクト。リスペクト。

時間の問題だとは理解していたものの、こうあっさりと発表されてしまうと心も身体もぐったりしてしまう。理由など聞いたところで何を言われたとしても信じることもできないだろうから、まずはこのシーズンを何とか戦い抜くことに賭ける。 個人的なことだけ書くとすれば、いまのサッカーを全面的に肯定すること自体、僕のなかではできていない。だから新たに形を作るという流れには少なからず理解しようと努力はするが、考えている問題はむしろそこではなく、もっと根が深い。 物事すべての構造は相互尊重ミューチュアルリスペクトでできている。信頼を失うというのは、この構造そのものの瓦解と言っていい。クラブと選手もそう、選手とサポーターもそう、そして、クラブとサポーターも、当たり前だが相互尊重だ。 そういう意味だと、多くの話を聞いてきて感じるのは、このリスペクトの精神がまったく存在していないと考えていいのだと、僕の脳味噌が訴えかけている。一体どこでそうなってしまったのかと思い返してみたら、終わりの始まりに行き着く。 今日、ディエゴ・マラドーナさんのお別れの会の映像を見た。ファン、サポーターによる数々のリスペクトの姿に、泣かない僕ですら涙腺が耐えられない状態だった。国のそしてチームのレジェンドに対する人の思いというものはまさにこれだ。 片方向じゃだめだ。一方通行ではだめなのだ。あくまでも両方向。だからこそ相互尊重ミューチュアルリスペクトなのだ。それがしっかりと確立しているからこそ、感動や辛い出来事も共有し合って前に進めるし、行動していくことができるのだ。 レジェンドには未来永劫いつまでもリスペクトの気持ちを持っていたい。レジェンドも人間。僕らも人間。過ちもあれば迷いもある。だが、根深く存在するものを断ち切る勇気とやらは、そう簡単に手に入るものでもない。涙腺同様、実に弱い。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

アルゼンチンの巨星、墜つ。

虫の知らせというわけではないのだろうけれど、本当にあった話として書いておく。昨日の夜にどうしても駄ブログを書くのが億劫になって、中途半端に投稿したあとワンコの散歩に出掛けようと着替えていた。いつものようにダウンを取る。 暑さ寒さの話かもしれないが、何故かこのウェアに手が伸びた。「今日はこれで行こうかな」と独り言を言いながら羽織る。さほどあったかいわけでもないこの上着を、どうして僕は着ようと思ったのか、今朝になるまでは知る由もなかった。 そのニュースを見て、なんだか分からないがもう一度このウェアを見てみた。感情が変化するわけでも無いのだが寂しさだけが込み上げてきた。タイムラインを見ていても本当に多くの方から愛されている、愛されていたことを改めて知った。 うちもそうなのだが選手はいつも、ファン、サポーターに愛されているという気持ちを前面に出してくれる。この方もそうだった。すべてがその通りだとは言わないものの、周りを取り巻く環境が選手を良い方向にもそうでない方向にも導く。 1986年のメキシコ1990年のイタリアも素晴らしかったが、僕個人としては我らの日本代表が寸前まで掴みかけた1994年のアメリカ大会がとても印象深い。ラウンド16のルーマニア戦に、この方が出ていたらどうなっていただろうと今でも思う。 まあそんな、僕のどうでもいい話など必要ないはずだ。今はゆっくりと休んで、そして天国でもあの楽しそうなサッカーを展開してくれることだろうと思っている。しばらくはこのウェアを着てワンコの散歩に行くことにしようと心に誓った。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第29節 大分トリニータ戦。

毎日、考えることが多すぎて、そして悩みが尽きない。そんなときにはワンコの散歩に出掛けてみる。この黒いワンコと歩いていると、それこそ何も考えずにいられることもある。人間にはある程度、このような時間も必要なのかもしれない。 大分戦を見ていて、考えること、考えすぎることが数多くある。もちろん例の件が一番なのだが、それ以外にも年末になってくるとファンサポーターに加えて選手ひとりひとりのことなどが脳裏を過ぎる。何とも言えない気持ちだけが膨らむ。 ロティーナ監督にとってのこの二試合にはどんな思いが含まれていたのだろう。攻撃的なチームと守備的なチームの境目。あの報道に対する、まるでそれはアンチテーゼのような。僕のような凡人にはどこまで行っても到底理解できないような。 清武弘嗣選手の、地元でゴールを決めてのインタビューが、心を身体をすり抜けていく。不意に出たものか、それとも意図的なのか。キャプテンの言葉にセレッソファンが騒ついている。今日はもう書く気がほとんどしない。散歩に行ってくる。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

「間」を埋める。「間」は抜かず。

海外サッカーを見る機会がかなり減った。もちろん興味ある試合は今でもリモート観戦するが、年間に数百試合を見るという、若い頃のようなパワーが湧き上がることが少なくなった。ダイジェストの流し見では駄目だなと最近思い始めている。 あの頃はまだ人生のステージを上がりかけていた時期でもあるし、そのうえで時間もたっぷりあった。ひたすら試合を録画して、ひたすら試合を見る毎日。当然ながら学ぶことも多かった。選手個々のテクニックだけじゃなく、環境含め、だ。 来年、2021年のJ1全試合を含む394試合でVAR(ビデオアシスタントレフェリー)の再開が決定した。審判も人の子であるのでミスをするのが常だと思っていたが、よりテクノロジーの力を得て正確なジャジが行なわれることになるのだろう。 僕は、あの「間」がとても苦手だった。海外サッカーを見ていても、プレイがその度に止まってしまう「間」。エラー混みがサッカーの醍醐味だと思っている派としては、このVARに対して非常にネガティブな感情を持っていたのが本音である。 そんななかで毎週のように「Jリーグジャッジリプレイ」を見ていて、なんだか感覚が変わってきたのが分かる。プレイが止まるのは変わらないものの、やはり場面場面でその状況を把握できる仕組みは必要なのだろうなと今ではそう思っている。 何となく、言いたい放題なところと、なかなか大手を振れない(!)ゲスト審判の方との掛け合いが心地良い。そのうえで、DOGSOだとかSPAといった言葉を知りながら毎週学んでいる気もする。やはりこういう番組を見るのもかなり好きだ。 今季はかなりレフェリングに泣かされていることも多い我がクラブではある(多分他クラブのファン、サポーターもそう思っているに違いない)。だが、来シーズンは純粋に「力と力」の勝負ができる環境を持てるようになるのはありがたい。 あとは、この「間」をどのように埋めるのか。できうる限り「間」が抜けることだけは避けたい。各クラブのサポーターも、この「間」をどのように埋めるか。そして、どのように抜けないようにするか。来季に向けて考えていることだろう。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

動かねば。

例の問題については多くの方がほうぼうで動き始めている。さきほども、署名サイトなどを見ながら、 剛柔使い分けながら どんな方向にベクトルが向いていくのだろうかと考えていた。とにかく早く動くこと。それが重要であり大事だと思う。 何となく過去のログを見ていたら面白いこと書いている。ブログそのものも20年以上書き続けているので、セレッソ大阪の多くの歴史と触れることができる。昔から色々と動いてきたんだなとしみじみするとともに、まだまだ感も漂っている。 僕にとって休日は仕事日だ。やりたいことが沢山あってそれがいつまでも続いていく。そんな休日は、好きなことを好きなだけ楽しむのが僕の流儀でもある。「働く」という言葉は「人が動く」と書くくらいだから、やはり、動かねばと思う。 仕事の目的が「お金」だけだったとしたらここまでは続けられない。もちろん「お金」は大事。とは言え、それだけではとも思ってしまう。やりがいは人それぞれ違うのだろうけれど、やはり「お金」だけだというのは寂しい感じもしている。 そんななかで新たに考えているのが、自分自身の持つ技能や能力を社会に活かすことだ。今、いろいろな方と話をしながら、僕自身がどんな貢献ができるのかを検討している。やはり先日受講していたソーシャルデザインが大きな刺激だった。 それに加えて試験勉強も僕には待っている。そしてサッカーショップ蹴球堂もある。休日は自由時間ではあるがとても大事で重要な労働時間だ。だからこそ、休日の概念が常にバランスを保っている。僕にとっては非常に均衡が保たれている。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第28節 サンフレッチェ広島戦。

 あの記事がネット状況に出た日に、とてもワクワクするような企画のことを話していたのを思い出している。どのように進めれば良いかは悩みどころではあるが、まあ、なるようになる、がモットーでもあるので、あまり心配はしていないのだ。 蹴球堂も、サポーターのためだけの単なるグッズの販売から、世の中に貢献できる組織になっていけるような努力を行なっていかねばならない。そのためには多くの徳を積んでいく必要がある。そんなことを噛み締めながら、毎日を生きている。 さてサンフレッチェ広島戦である。桜なでしこの試合を見に行っていた関係で前半途中からのリモート観戦となった。かなり押し込まれたなかでゴールを決められ、相手が一人少なくなった後半ですら、糸口を見つけられないままの敗戦だった。 アミーゴのタイムラインなどを見ていると、やはり幕なども結構出ていたようだ。理想と現実、妄想と保身入り混じる状況下において、何をもって愛を伝えていくか、すべてのセレッソ大阪に関わる人間が考えていくべきなのだろうなと感じた。 三十年近く付き合ってきて改めて思うがセレッソ大阪は本当に良いクラブだ(マ・クベ風ではない)。良い意味でも悪い意味でも、人間性というものが滲み出ている。だからこそ考えるべきときに考える。やるべきときにやる。それが大事だ。 この続きを書いていた最中、ちょっと人様にお見せできるような文章に留まれず、とても過激な内容になってしまったので公開する前に削除した。危ない危ない。いつかどこかでシェアしようとは思うので、そのときまで少々待ってもらえればと。 そう。サッカーショップ蹴球堂がF.C.OITOでRestartしてから半年を迎える。早かったような、そうでも無いような。桜スタジアムとの関係性も、先週色々とワクワクさせられるような内容を聴いて心がはやる。果たして年内に行けるのだろうか。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

なでしこリーグの「最後」の日。

理解することが到底不可能ものなどこの 世の中には 山のように存在している。数え出したらきりが無く、あまり考えないようにしたいと思ったりもするが、なかなかそういうわけにも行かない。どっちに向いたとしても、不条理であり理不尽だ。 何だか似たような言葉なので、つい同時に使ってしまったこの「不条理」と「理不尽」。何となくだがインターネットで調べてみたところ、このふたつは、かなり意味の違うことが分かった。知識が乏しい自分自身に恥じてしまう毎日でもある。 「不条理」とは一般的に「筋道が通らない」「道理に反すること」と書かれている。哲学的には更に衝撃的な言葉で括られている。「人生に何の意味も見出せない絶望的な状況」。いかなこんな僕でも、かなり落ち込んでしまうようなワードだ。 そして次が「理不尽」。こちらは「道理の不尽」から作られた言葉だそうだが、まさに「道理を果たしていない」「道理が足らない」状態らしい。要するにひとことで言ってしまうと「無茶苦茶」だということだ。日本語は本当に難しく感じる。 昨日今日と先輩方の話を聞かせていただいたお陰で、個人的に不満を抱いていたおおよその事柄について理解できた。言うなればこの「不条理」と「理不尽」のハイブリッドである。すべてを信じてきたわけでは無いが、何とも言えない気分だ。 それが、いみじくも試合内容に表れる。来年のことを話すと鬼が笑うと言うが、この言葉通りだとすると、まだ笑ってくれているだけ良いほうだ。ここからどうなるのか、不安しかない。「不条理」になる前に、何とか手を打っていきたいね。 なでしこリーグの「最後」の日をセレッソ大阪堺レディースと共に過ごす。 ファイナルを意識してなのか、 駒沢公園陸上競技場は物凄く強い風が舞っていた。知識が乏しいうえに書けないことがことさら多くて、文章づらに頭を悩ましてしまう。 繰り返しだが、世の中は理不尽だ。理不尽からの逃走か、それとも闘争か。ここからがサポーターとしての道理を貫く時間なのかもしれない。こんな日のトップが良い結果だったことはほぼない。「不信感」の幕がまた出るのも時間の問題だ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

健康体。チームの、人の。

健康診断当日は何歳になっても気が重い。それほど大したことでもないはずなのに、どうしてこんな気持ちになってしまうのかを考察してみた。真っ先に思い当たるのがバリウムという白い液体の話になるのだろう。どうしても得意になれない。 「じゃあ胃カメラにすれば良いではないか」と言われてしまいそうだが、胃カメラは胃カメラで、もっと苦手なのである。初めて行なったときのトラウマというかなんというか、もう耐えがたい苦痛を伴った検査に、号泣しっぱなしだったのだ。 健康体を保つためには大切な儀式なのだろうが、これはサッカーにおいても同様だと思っている。今日、多くのセレッソファンもニュースで見ただろうが、僕個人的に感じるのは、せっかく健康体に向けて進めてきたのにこれからどうする、だ。 監督を決める権利は、もちろんサポーターには無い。うちの歴史の中でも守備重視(という括りで置くのは違うとは思うが)な監督もいなくはなかった。そのたびに攻撃面のテコ入れに失敗してきたが、それは、監督だけの問題でも無かった。 まあ、綻びはここが始まりというわけでもなく、もっと前から蝕まれていた。日々多くの情報を聞くごとに様々な葛藤に苛まれる毎日でもある。冷静になって考えてみれば分かることでも、感情的になると見境がつかなくなるのが人の常なのだ。 健康体を保ち続けるには変化も必要。だが今かと言われたら何と答えればよいだろうか。様々な活動によって健康診断の数値は結構良かった気がする。齢五十。どうにかしてこの先しばらくは生きていかなければならない。続いていくのだから。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

1990年代の「人として」。

先日ある方と話していて、1990年代の日本中のウルトラだった方々が、素敵なビジネスマンになっているという話題で盛り上がった。アメリカワールドカップ予選、フランスワールドカップ予選と本戦での経験が、今の糧になっている気はする。 たしかにあの頃を思い出すと、今日とのギャップが激し過ぎる方もいたりして、「大人になる」とはそういうことなのかと妙に納得してしまう自分もいる。やはりあの1990年代の思い出は何物にも変えがたい。そんな「大人になる」がテーマだ。 大人とは何歳からのことを指すのだろう。まさに永遠のテーマのようにも聴こえる。もちろん少年の心を持ったまま大人になった方もいる(僕はこういう風に言われることがしばしばある)し、年齢だけがその基準では無いことを物語っている。 仕事場でもスタジアムでもそう。大人びた性格、物事の分別がしっかりとしている方がいれば、その逆も少なからず存在する。「大人になる」は人間性のバロメータなのだ。大人として、そして、人として、を、この時代で多くを学んだと思う。 時が過ぎて、今、この「人として」がフォーカスされる時代を迎えている。このふたつのキーワードが非常に重要だと感じる。冒頭の話に戻るが、1990年代を、ウルトラとして生きたことで、今まさに、ウルトラな人生へと向かっているはずだ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

壁。

日に日に感染者数が増えていてかなり大変な状況になりつつある。何度もこの駄ブログでも書いてきたが、やはり「感染しない」ことよりも「感染させない」がまさに壁なのだろう。重きを置くべきなのだろう。そんなことを考えながらの一日。 しっかりと対策したからといって感染しないとは言えないし、その逆もある。しかしながら、自分にとって大事な人のことを思うと、手洗いうがいは当たり前であり、ともに食事をしたとしても、取り箸を用意するなどが、心遣いの壁、なのだ。 今日は予定もかなり詰まっていて結局のところU-23の試合を見ることができなかった。結果だけは見たが、今季のJ3は実に思うことが多い。そこには数々の壁が存在しており、その壁を果たして何人越えられたのか。壁は来季には消滅してまう。 浜田省吾さんの歌に「壁に向かって」というものがある。1976年に発売された「生まれたところを遠く離れて」というアルバムに収録されている、結構お気に入りの歌詞の中、まさにサビの部分にこのようなセンセーショナルなフレーズがある。 死にかけているぜ蹉跌の空で 帰るところも見つけられずに 失くするものも何ひとつ無いまま 雨に打たれて壁に向かって 諸刃のやいば肩にかざして 脅え続けたいつもの通りへ 何だか、今の情勢を物語っているかのようなこの歌詞だ。ちなみにだが、このアルバムには、かなりの確率で心にグサッと刺さる歌がとてつもなく多い(実際、先輩歌手に浜田省吾さんが持っていったたころ「重すぎる」と言われたとか)のだ。 この浜田省吾さんのアルバムはすべて持っていたのだが、たぶん今はMy弟のところにあるはず(今となっては分かる由もない)。コロナ禍だからこそ聴きたい気分になってしまった。壁に向かって生活しているような、そんななかだからこそ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

思い立つのも悲喜交交。

ソーシャルネットワークにおいてはスマートフォンがとても大事なガジェットだ。思い立ったときに利用できて、ほぼリアルタイムにつながりが進行する。サッカーショップ蹴球堂のソーシャルネットワークも、もちろんスマートフォンからだ。 iPhoneを持ち始めてかれこれ十年以上になる。そんななかで多分初めて、手帳型のスマホケースに手を出してしまった。以前は「ケースをするのは漢じゃない」と、まるで何かの受け売りのような態度だったが、人の心はうつろいやすいものだ。 大きな決断というほどのお値段でも無かったが、やりたかったことはICカードをiPhoneと一緒に持ち歩きたかったというその一点だ。どうも別々にあると面倒なことになる憂いを取り除きたかったのだった。その点、このケースは本当に使える。 これはまさに、レビット博士の「1/4インチのドリルの話」だ。今回の場合、僕はスマホケースが欲しいのではなく、スマホとカードを一緒に持ち歩きたかっただけなのだ。そういう意味で考えたとき、ひとつの疑問も同時に浮かび上がってくる。 「なぜ僕はiPhoneとカードを一緒に持ち歩かないといけないのか」ということだ。そもそも相反するかのようなそのふたつの物質を一緒に持たなくてはならないという、根本的な原因を解決していくことこそ、今の僕には重要なのかもしれない。 とかく僕らは目先の問題をクリアしたらそれですべてが解決したと思ってしまう。その最たるものに直面して、安易な方向に行ってしまったのではないか。自責の念も少なからずある。やはり考えて様々試してみて、初めて見つかるものも多い。 ちなみにこの「1/4インチのドリルの話」。ドリルを購入した人はドリルが欲しかったわけではなく「1/4インチの"穴"」が欲しかったのだ。そして今、僕らが考えるのは「なぜ1/4インチの穴が必要なのか」を、その購入者に問うことなのだろう。 もしかしたらハンガーを掛けるためのピンを差し込むのかもしれない。何かの覗き穴を開けるためなのかもしれない。たとえどんな回答だったとしても「それ、本当にいる?別の方法ない?」と話を膨らましていく。ここがスタートなのだろう。 さてこのスマホケース。嬉しがって周りに話したところ、「たしかもうすぐ機種変更だと思いますよ。」という衝撃の事実。耳から脳に直接刻まれていく。だからもう少しだけ余韻に浸っ

困難に立ち向かえ。

サッカーファンやセレッソファンになると、実に記念日が多くなる。ほぼ毎日がアニバーサリーのような状況だ。もちろん、良いことばかりではなく、辛い思い出も蘇るのだが、それも記憶の1ページだと思えば懐かしさと戯れることができる。 23年前の今日。日本代表が悲願のワールドカップの切符を 初めて 手にした。日本サッカーの歴史に大きく関わっているとは言えないが、このジョホールバルにいたことは、その後の自分に大きく影響した。僕はこのとき27歳。まだ若造だった。 二年前にラルキン・スタジアムを訪れた際にも感じたが、やはり日本代表の大事さが身にしみて分かる。すべては日本のサッカーを強くすることだけを考えて走り続けていたように思える。そういう意味では日本代表は強くなり過ぎたようだ。 まあ日本代表はともかく、僕らは常に強くなっていくための努力をしなければならない。どうしても現状を維持することに終始してしまう若者もいたりするが、そんな彼らにはいつも、向上心を高めてもらうための言葉をかけるようにしている。 努力も結果も常にインフレでなければならない。同じことをしたとして、昨年と同じ結果が生まれたところで、それは成長でもなんでもない。目の前に強敵(困難)が現れて、それを超えていくからこそ自分自身が成長するものだ、と僕は思う。 この若者なら強敵を必ず倒してくれると信じているからこそ、その彼や彼女に託していく。これを「無茶振り」と取るか「成長の場」と取るかはすべて本人次第だ。自分に降りかかった火の粉は自分で払い除ける。当たり前と言えば当たり前だ。 それが責任の分界点だ。とは言えその分離がなかなかできないリーダーもいるので、受け取る側の気持ちも分からなくはない。だが、だからこそ、自分自身を成長させるチャンスでもある。日本代表のテストマッチ同様、相手は強いほうがいい。 また、どうせやるなら、その闘い(仕事)はわくわく(柿谷)を持って楽しむべきだ。楽しめない仕事は無いと思うし、もしそうで無かったとしてもどの道「逃げる」という選択肢は無いのだ。心の底から楽しんで立ち向かうほうが気が楽だ。 そしてその場では「持っている技が少ないから」とか、「このタイプとは戦ったことない」という言葉は必要ない。孫悟空だったらそんなセリフは絶対に言わないだろう。常に強敵に立ち向かい、何度傷つけられたとしても必ずこう言うだろう。

日本人ならおにぎりやろ。

今朝、あまりご飯でおにぎりを作って食べた。日本人ならお茶漬けやろ、と叫んでいた方もいらしたがやはり白米は美味い。しかしながら糖質を気にするお年頃であるのも事実で、食事に気を遣う年齢になってしまったなとつくづく感じてしまう。 日本人と言えば、日本代表とパナマ代表の親善試合を録画していたのでようやく見た(しかも後半からしか撮っていないという何たる不手際)。前半がどうだったかは置いといて、後半の選手の一人一人の動き、連動性が非常に素晴らしかった。 ベテランと呼ばれる30代、働きざかりの20代、そして可能性を秘めた10代が入り混じったハイブリッドな選手構成が、ある意味、今の日本の縮図と重なる。どのように融合していくのか、それとも違った側面を見せるのか。組織とは実に面白い。 オール海外組というフレーズも既に当たり前のことのように思えてくるから不思議だ。日本人という特性を活かして世界で活躍する選手たち。海外に出ていくことなく、国内で結果を出し続ける選手たち。それも日本人として素晴らしいことだ。 最近は、日本人としての誇りを問われる場面がことさら多い気がする。物静かで勤勉で清貧。集団での仕事が得意で、多くを欲しがらないという時代は既に過去のものかもしれないが、持っているDNAによって、あるべき未来へ突き動かされる。 次の試合は18日。世界トップクラスのメキシコ代表との対戦が待っている。メキシコ戦と言えば我らの社長、森島さんが日本代表初ゴールを決めた1996年5月29日の博多の森を思い出さざるを得ない。日本人の日本人たるプレイを見せてくれた。 日本は素晴らしい。日本人のポテンシャルは素晴らしい。おにぎりを食べながら僕は、そういや先週も美味しいおにぎりをいただいたことを思い出す。お茶漬けもいいが、たまには自分で握って自分で食べるおにぎりも、実に日本人らしくていい。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第27節 清水エスパルス戦。

幕末明治の大好きな僕として考古学にはそれほど興味が無いのだが、人類の起源については少々関心がある。その他の小説を読んでいると頭が変になりそうではあるが、幕末史のようなプチリアル感はなく、何となくだがロマンを感じてしまう。 特に、宗教的背景については黙々と調べたりしている。何かを話せるほど知識があるわけでもないのだが、やはりというか何というか、歴史の奥深さに酔いしれてしまう。僕はどこまで行ったとしても歴史という言葉から離れられないのだろう。 有史以来セレッソ大阪の長い歴史の中で、アウェイの清水戦というものにはあまり良い思い出が無い。しかもかなりの負けっぷりを見せつけられているような気がする。はてさて、これはDNAがなせる技なのか、それともこれが実力というのか。 今回も、なんだかモヤモヤ感が身体の中を駆け巡るような前半だった。思い出したのがロシアワールドカップ。あのベルギー戦の何気ないワンプレイだった。今日の試合でも嫌なシーンが何度も訪れるたびに、このモヤモヤ感が増福していった。 いつも書いているとおりではあるが「勝敗は兵家の常」だ。勝ちもすれば負けもする。ただ言えるのは、負けるにしても「負け方」が重要だということ。そんな観点からも、九月以降のこの「負け方」は、非常にモヤモヤ感が溜まり続けている。 もうひとつ思い出したが、アウェイの清水戦と言えば「雨」のイメージが強い。それほど回数があるわけではないが、僕が行った試合はほとんど大雨だったような気もしている。そんなことも、まあ歴史の1ページだ。有史以前になりつつあるが。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

予定は未定だということ。

諸々ワークを終えて、後半からセレッソ大阪U-23の試合を見ることができた。今シーズンで終了するこの育成の仕組み。やはりプレイヤーもひとりの人間。彼らを育てることの大事さ。改めて僕の心の中に舞い降りて僕の気持ちに混じっていく。 それにしてもこの若者たちは実によく走る。何かを信じて走り続けているという感がある。もちろん彼らもプロもしくはその位置を目指している身の上なので、チームが無くなってしまうことを考えれば、次につながっていくプレイが必要になる。 誰一人として今の立ち位置を良しとしていたわけでは無いだろうし、むしろ向上心が無ければプロなんて道を考えたりもしないだろう。だが、一歩道を違えば、その向上心が消え去ってしまう方々もいたりする。欲というものが抜け落ちていく。 今、メンタルについての勉強をしているのだが、この欲(欲求)というものの重要を感じながら学んでいる。今日を生き延びるためだけを考えていては、人は明日を迎えることができないのかもしれない。人とはそういう生き物だと書いていた。 明日に期待したり不安を感じるからこそ、人は今を生きられるのだ。何故、辛い思いをしてまで努力をするのか。それは明日、今日よりも成長した自分が見たい。強くなって何かを勝ち取りたい。そんな気持ちの表れが、欲求として現れてくる。 結果的にU-23の試合はスコアレスドローに終わった。来年、何名かの選手はトップでプレイをしているだろう。何名かの選手は、行き場を探してさまよう可能性もある。アカデミーの選手はもしかすると進学するのかもしれない。予定は未定だ。 未定だから期待もする。未定だから不安もある。そうやって人は生きていく。試合を見ながらそんなことばかりが頭に浮かんできた。時間軸で考えれば、今日など、たかだか長い人生のたかだか二十四時間。でもそこにドラマはあり、人がいる。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP