激動の一年が明け、また来たるべき一年が訪れるという、あいも変わらない人生を送っている。少なくともこの2022年という空間を、また、多くの方とともに歩めればそれでいいと感じる自分が大きくなってきた。年齢を重ねている証拠だろう。 セレッソ大阪というクラブを愛し始めてかれこれ三十年弱となるわけだが、この思いだけは決して色褪せないのがありがたい。ひとえにこれは仲間の存在が大きい。時間というファクターは人を不幸にすることもあれば、人を幸せにもしていく。 ようやくヨドコウ桜スタジアムに足を踏み入れることができ、F.C.OITOでイベントも開催できた。Twitter Spaceだって四十四回も続けることができたのだ。2022年はいったいどんな一年になるのだろうか。そう思っていた矢先に、あれが来た。 今年も多くのアミーゴに巻き込まれながら過ごしていくことになるだろう。 サッカーショップ蹴球堂は、まあぼちぼちやっていく。健康に気をつけながらゆっくりと前に向かって、着実に歩く。そうして辿り着ける先の、その向こうへと・・・。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP
やっぱり人間という生き物が好きだ。特に人間が持ち得る曖昧さや中途半端さが好きだ。その曖昧さや中途半端さが好機も生むし危機も呼び込む。この人間の曖昧さや中途半端さによって様々なドラマが起こったと言っても過言では無い。 歴史の中でもこの何とも言えない人間のもどかしさによって、時代の転換期を迎えたのだと思う。そして、もしAIなどの機械が人になり変わって決断してきていたとしたら、この世はどうなっていたのだろうと思うと不思議な気持ちになる。 ましてや、サッカーのレフェリーは瞬間的に判断しなければならない職業。最近はビデオ判定などが採用されるリーグもあるが、個人的には人間の曖昧さや中途半端さというファジーな部分がサッカーを面白くしていると感じている。 ジュビロ磐田戦はそんな人間の曖昧さを感じる試合だったのではないか。両者ともレフェリングに苛立ちを隠せず、最後の最後までそのフラストレーションが溜まっていく。その何とも言えない展開は正に人間でしか起こせないことだろう。 そのレフェリングに苦しめられたのか助けられたのかはそれぞれの見方があると思うので割愛するが、それ以上に我チームの細かなミスが自分たちの足を引っ張り、その結果なんとかドローで終わったというのは九死に一生を得た感がある。 僕自身ITにも関わる身として、先の未来でAIがものごとを判断し決断していくシーンが多くなる世の中になっていく手助けをしている。その関係で少しずつ曖昧さや中途半端さが薄れていくことに力を貸しているのも紛れもない事実である。 だが、身体中にベタベタとセンサーを付けられた選手が、グラウンドの至るところをモニタで監視される環境下でプレイするくらいなら、この世からサッカーというスポーツは無くなったほうがいいと感じるのは果たして僕だけだろうか。 繰り返しではあるが、やっぱり人間という生き物が好きだ。そしてサッカーの試合には曖昧さが、ファジーが、中途半端がよく似合う。選手の皆さんには大変失礼ではあるのだが、そんなアナログを感じられるサッカーが、僕は好きだ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP