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ルヴァンカップ。明と暗。

徳島戦の朝。非常に良い天気の中で朝の公園を歩く。多くのワンコと出会う。犬同士のコミュニケーションは複雑。くっついたり離れたり、におったり、におられたり。人間も同様。いつもの習慣、いつも出会う人。ともに歩く道だからこその。 とてもファイナルという空気感ではなかった。スタジアムに着いた瞬間、というよりも、前日前々日、いや、厳密に言うともっと前からその独特の雰囲気は存在していなかったように感じた。良くも悪くもその空気感が、試合の明と暗を決めた。 先日ツイッターで「ファイナルルーザー」と書いた。要は、ファイナルでシルバーメダルをかけられた経験の無いサポーターがいるのだという現実を改めて知り、その空気感というものは、こういう風に醸し出されていたのだろうかとも思った。 いつも言っているように、歴史の一部分だけを切り取って考えるのは良くない。だからと言ってすべての歴史を自分のものにするかどうかは本人次第だ。ファイナルルーザーの経験が無いからといって、それは決して、負い目でもなんでもない。 そしてそれは、ここから始まる歴史において過去の点を線で結ぶ役目があるのかもしれない。だからこそゴール裏ウルトラの話を聞いていきたいと思っている。ウダウダの延長線など、出来るだけ多くのチャネルを作っていこうと考えている。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP 追伸 サッカーショップ蹴球堂も併設しているコニュニティスペース「 F.C.OITO 」でのイベントにてファシリテーターを務めます。久々の大阪なので緊張しますが、ぜひお会いできれば、また、イベントにも参加いただけたりすると嬉し泣きします。 お申し込みフォーム

第30節 鹿島アントラーズ戦。

チームとして非常に厳しい期間を経て強くなるのは常である。これはまさに結束とか気持ちの面が非常に大きい。監督交代下での怒涛の十三連戦というなかで、培ったもの失ったものが生まれること、さもありなん。ここからは本当の再出発だ。 さて当の鹿島アントラーズ戦。2011年のあの試合以来ホームでは勝てないどころか引き分けすらない状況。いちチームとの勝ち負けや結果だけにこだわるわけではないとはいえ、非常に不名誉な結果であることを認識しておかなければならない。 もちろんリーグにおいての結果はある程度見えてきた。その中での次節の戦い方、そして先に控えるルヴァンカップに向けての動向が気になる。負け試合の完敗さ加減が気になるところではある。そこで次のステージに向かうために何をするか。 緊急事態宣言が明け、サッカーとの関わり方にも変化が訪れるだろう。立って応援することができるようになり、先日のウダウダ内でもあったように、声の制限も条件付きで緩和されていくことなるかもしれない。サポーターの力が必要になる。 試合後にセレッソ大阪のことを真剣に考えているサポーターの方々とオンラインでミーティングを行なった。中身については割愛するが、今日明日の話だけでなく、このクラブの将来のことについて様々な意見交換をさせていただいたのだった。 そこでも話したが、いまこそゴール裏(とあえて言いたい)のサポーターが一枚岩となってこの難題に真剣に取り組むべきだと感じている。できることは必ずあるし、その方法は無数に存在する。それらを話し合って、つなげていく必要がある。 その刹那、2008年のときに行なった「ある行動」について思い出していた。多くの関係者にもお手間や迷惑をかけてしまっていたことを再認識した。だが、この先走るかのような行動に後悔はないし、少なくとも礎にはなったと確信している。 あるセレッソの御大に相談をしてみた。やはり最後は自分自身の「感情と行動の一致」にかかってくるのだなと感じる機会となった。感情が先で行動が後(中枢起源説)か、はたまた逆(末端起源説)かは関係なく、まず動きだすことの重要性。 とは言えあれから十三年。「ある行動」への御礼を改めてしたいと考えながら、ダラダラと日々を過ごしてしまっている。歳を取れば取るほど臆病さが増えていくのも人。若気の至りとまでは言えないが、気持ちの昂りは形にしたほうが、いい

第32節 サンフレッチェ広島戦。

サッカーには不思議な力がある。これまでにも数多くの力を見てきた。だが、それ以上に、この数年でさらに強く感じている。Jリーグとの関係が人生の半分を越えたあたりから、この不思議な力への気持ちの持って行きかたを、日々学んでいる。 そういう意味で考えると、サンフレッチェ広島との試合は、クラブとしてはもちろんのことサポーターとしての自分に向けて大量のメッセージを放ってくる。縁は人と人をつなぎ、人とクラブをつなぎ、そして人とサッカーをひとつにしていく。 1995年の開幕戦しかり、1999年9月のあの試合しかり。大勝したり大敗したり、もちろん目の前で見せつけられた屈辱も併せると、このクラブとのつながりを意識しないわけにはいかない。そんなことを考えながら広島との試合を観戦していた。 今週のウダウダでも話をしたが、結果的には素晴らしいゲームで終始安心して見ていられた。アウェイクラブの太鼓が解禁されたスタジアムでも和やかに観戦できていたようだ。この日が、セレッソ大阪にとって、とても重要だったからこそだ。 時も、場所も。過去も現在も未来も。すべてがつながっている。つながっているからこそ、いまこの瞬間に僕たちはここにいて、そして我がクラブを、セレッソ大阪を愛していることを改めて認識する。そんな時間が、増加していく感覚がある。 こう書くと、いつも精神的で神秘的な話ばっかりするよな、と言われそうだ。しかしながら、巡り合わせというものは本当に存在する。試合ではその巡り合わせが、戦略や戦術同様にチームの力となっていくのだと、少なくとも僕は信じている。 そんな気持ちだけで生きているわけではないにせよ、サッカーには人には、不思議な力がある。その力に導かれて僕らはこの世界で生き永らえている。生き永らえ"させてもらっている"。また「変わった人認定」が増幅しそうだとも思っている。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP method and materials

第29節 浦和レッドダイヤモンズ戦。

先日、セレッソサポーターの黎明期を共に走ったアミーゴが出演する 映画 を見てきた。セレッソ大阪というサッカークラブが誕生して四半世紀以上経った今、多くの人と出会い多くの人と離れ、そんな、矢印があっちこっちを向く人生でもある。 その間に人もクラブも選手もみな、生きかたが変わったり、はたまた、あいも変わらず惰性の延長線上にいる場合もある。良くも悪くも決めるのは自分自身であり、他人がとやかく言う問題でもない。時間とはそのような空間を生み出している。 今も昔も、一日が二十四時間では足りないというセリフが多く出てくる。まさに今のセレッソ大阪にもそれが当てはまる。二月から考えて七ヶ月という期間を無駄にしたとは言いたくないが、もう少し前から手が打てていればとは思えてしまう。 今日言って明日できるようなものならば、何も誰も苦労はしないだろう。時間という熟成期間が、食べ物をより美味しくしているのも間違いない。そのなかで僕らが時間の意識をどのように持っていくのか。青臭さを抜くにはどうすればいいか。 日が昇り、日は暮れていく。人間には二十四時間しかなく、たいていの場合、人生は百年にも満たない。大事な時間をいかに生きるか。何に使うのか、どこで使うのか、誰に使うか、なぜ使うか。今の小菊サッカーは、それを考えさせてくれる。 浦和戦は真の力負けだった。いま欲しいのはセレッソ黎明期の「たまたまの勝利」ではなく本当の強さ。そのためには時間は必要であり、挫けない思いが必要だ。いかにして「時間」を有効に使い、次に活かしていけるかが今は大事な気がする。 この浦和戦での完敗が、この先のシーズンで必ずや実を結ぶと信じて支える。それは出来上がったばっかりの頃からちっとも変わらないのだ。だからこそ、三十年経った今、クラブとアミーゴとつながっていられるという「時間」に感謝したい。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

「継続の重要性」のためにまずやること。

人間、やってみて初めて分かることなどしばしば起こる。しかしながらこの一歩を踏み出すところで皆くじけそうになってしまうのも人の常だ。偉そうなことを言える立場でもないが、長くこの世に生きてきた結果、その先で見えるものもある。 先日、ある行政上の手続きを行なった。その流れを読み取るのにかなりの労力、その作業にかなりの労力、再度の依頼でさらに労力。最初の頃なら心が折れているかもしれないが、意固地にやり続けてしまうのも僕の性根。なんとか乗り切った。 この行為ひとつで、世の中で起きていることの一部が分かってきた。何度も書くが、やってみて初めて分かる。やらなければ、それを知る機会を失ってしまうのかもしれない。そしてそのあとは、弛まぬ努力による、継続の重要性となってくる。 先日、自己満足の極み「 CEREBAKA 」の第四弾を収録した。そこでも感じたのがこの「継続の重要性」だった。たとえ惰性であったとしても(いやこの方がそうだと言っているわけではなく)続けるという行為そのものに、人は尊敬の念を持つ。 「雨垂れ石を穿つ」という言葉がある。ぽたぽたと落ちる雨水であっても、長期間同じところに落ち続けることで、硬い石に穴をあけてしまうほどの力があるということ。やはり僕らにとって必要な要素であると感じるし、そこに活路はある。 僕はまず、小菊さんのサッカーを信じることに決めた。だからこそ信じることを少なくとも継続していくと決めた。もちろんこの環境下で、誰しもが求める理想のサッカーを見せることは困難(交代ブーストはあるものの)だ。悲しいけれど。 やってみて試しながらの采配のなかにも、確固たる信念も随所に見せてくれる小菊サッカー。難しい局面が数試合続いているが、とにかく監督、選手、クラブ、ファン、サポーター一丸となってこの局面の打開と、その先の栄光を掴み取りたい。 さて当の「 CEREBAKA 」だが、ただいま鋭意編集中でもある。どこかの誰かがこのコンテンツを見て喜んでくれているかとかではなく、まず自分が嬉しいのひとことなのだ。どこまで続けられるかだが、継続することこそに、その意味は、ある。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP -- IBA MASAHIRO 伊庭@ネットコムズ⌘ Trained facilitator LEGO®SERIOUS PLAY® method and ma

文章と対話の狭間にて思う。

どうも、ウダウダをスタートしてからというものブログを書こうという気持ちがとても薄れていっている。毎週、思いの丈を話しているわけだからそうなるのも当たり前のことで、やはり、文章と対話の関係性というものに、ギャップを感じる。 もちろん、文章には文章の、対話には対話の、それぞれの持つ良さがある。前者には伝えたいという思いが強く乗っており、逆に後者には、より、伝えあう気持ちが多く存在している。これはまさに人生の尺図そのもののようにも思えてしまう。 いまは、ウダウダを聴き、ウダウダと話すほうが人に伝わりやすいし、逆に伝わってもくると感じている。当然のことながらリスタートの難しさはあるにせよ、リアルなコミュニケーションに飢えているこのご時世だからこその思いなのだろう。 節目の第30節(リーグらしくこの表現に変えようと思った)が終わり、試合内容とともにすったもんだしながらここまできた。一体いつ終わりを告げるのかも分からない。また本当の意味でのリアルな場が戻ってきたら、果たしてどうなるのか。 だが、それは、進化と呼んでも良いように、いまのウダウダを続けること。それが少しでも様々な方々とのコミュニケーションの場と感じられること。これが得られているあいだは、当分話し続けることになる。たとえ喉が枯れてしまおうとも。 さて、北海道コンサドーレ札幌との二連戦のホーム。乾貴士選手の活躍も期待したいところだが、先週にも話題になった我らの喜田陽選手を始め、アカデミー育ちの選手たちにも注目したい。30回目の今週に彼が躍動する姿が目に浮かんでくる。 上手くターンオーバーしながら選手のモチベーションを高めていく小菊さんが、どのような選手構成にしてくるのかが非常に楽しみでもある。なんとかACL併せてこの二試合を勝利で終え、来週のウダウダでも大いに盛り上がりたいものである。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第27節 大阪ダービーマッチ。

ダービーとはなにか。というテーマは、サポーターにとっての永遠の問いだ。ただ単に3ポイントを奪い合う(ときには一点ずつ分けあうのだが)だけの、そこらへんの試合とは違う。これはクラブが生まれた28年前からまったく変わっていない。 また逆の意味でダービーとは、その街のバロメータにもなり得る。サポーターのモチベーションやテンションによって、試合の質はかなり変わってくる。そんな生活を、人生の半分以上の期間で意識しながら生きていると思うだけで身震いする。 ましてやとんでもないかたちでの監督人事が行なわれた直後でもあり、サポーターの葛藤が手にとるように分かる展開が繰り広げられ、その渦のなかで、いくつかの番組で話をさせてもらった。そこでも明確なことはただひとつだけなのである。 さて、その本題のダービーは、小菊さんによってどういった色にチームが染まっているのか(たった二日で染めきれたのかは想像に任せる)を確認する試合でもあった。ダービーをそんな品定めのような言いかたになってしまい申し訳なかった。 そんななかで、戦う姿勢を存分に見せてくれたチームに心が躍った。話の中でも、どこまで原点回帰するのか、という部分に興味があったが、この四年間という濃密な時間がグッと凝縮されているのではないかと思い、それでいいや、と感じた。 ダービーの重みと、重苦しい空気を払拭する気持ちとのギャップはそれほどなかった。もちろん相手があってのことなので、一概に比較することをしてはいけないのだろうけれど、監督を変えるとは多分こういうことなのだなと改めて思った。 勘違いをされたくはないが、チームの空気を変えるのと、クラブのコンセプトを変えるのは、似て非なる。いや、まったくもって意味が違う。だから僕らは、覚えておかなければならない。クラブのコンセプトは何も変わっていないと推測する。 だが、まずは小菊さんの元で輝きを取り戻した選手たちが多かったことを喜ぼう。大阪ダービーという勝ち点3以上のありがたみを感じよう。その歓喜も今日を過ぎれば、明日からまた過酷なダービーマッチの旅路が続くのだ。まずは熟睡からだ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

誕生日を過ぎて、思う。

先週、誕生日を迎えた。もう、祝う歳でもないのではあるものの多くの方からのお声をいただき、さらに精進しなければと強く感じている。歳を取れば取るほど、心と身体のバランスを意識していかねばならないことを強く感じながらの毎日だ。 この、心と身体のバランスのひとつに、セレッソ大阪というパラメータがある。サッカーには勝ち負けが存在し、それは時の運でもあるのだが、ゲームのひとつひとつに一喜一憂してしまう。どちらに振れても、心と身体への影響力が半端無い。 さて我らがセレッソ大阪にとってのJリーグ。この道のりはなかなか勝ちにたどり着けていない。ストレスが溜まり、心身のバランスへ負担をかける日々でもある。しかも、シーズンが終盤へ近づくにつれて、あっちこっちへと転移してしまう。 これは愛のせいだ。愛、という名詞と、愛する、という動詞を人は持っていると7つの習慣では書かれていた。愛は瞬間瞬間の表現であり、逆に愛するという行為は時間の概念である。文字どおり愛し続けるという連続する刹那なのでもあるのだ。 我がセレッソ大阪はこの、愛する、という連続体のなかで息をしている生き物のようである。そしてその血や肉は、ファンやサポーターの思いによって構成されているのだ。クラブとはそういうものであって、それ以上でも、それ以下でもない。 今日、ワクチンの二回目を接種してきた。僕の心身すべてが満たされるわけではないのだろうが、まずはひと安心している。先日のハッピーバースデーソングとこのファイザー製の液体が、心と身体のなかを駆け巡っている。まずはそれでいい。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

絶対やれる。

オリロスとはこのことで、コロナ禍の休日の過ごしかたを忘れてしまっている。そういう意味でもスポーツというものは人の心を揺さぶる力があるな、と感じる一方、悪意の対象にもなりうる。どこまで行っても、すべては人のやることである。 言葉はとても重厚だが捉えかたひとつで変化してしまう。受ける側にとってそれは批判にもなり中傷にもなり、逆に励ましにもなる。たとえそれが発信者側の意図しないかたちで受け取られたとしても、ひとつひとつの言葉には責任が存在する。 さて、当のセレッソ大阪である。無失点試合を喜んでいる場合かそうでないかは、捉えかたにもよるだろうが、全体的なチグハグさは素人目に見ても歴然だと感じる。昨年の今頃は安心して見ていられたが、実にもどかしい日々を過ごしている。 「絶対残留」など身に付けたくないのだが、このまま進むと想定の範囲として受け止める必要性が出てくるのが実情。ファン、サポーターがスタジアムでどのような状況かは窺い知れないものの、多くの言葉で埋め尽くされたのは間違いない。 そんななかでもいくつかの光明が見つかったのは嬉しい。選手もサポーターも、いま必要なのは若い力かもしれない。隣の芝は青く見えるが、客観的見方、逆説的な話をするならば、それだけ若い方々にチャンスが訪れているということなのだ。 そんなことを仙台戦を見て感じてしまった。だからこそ若い彼らの奮起に期待するとともに、この逆境を何とか自らの手で乗り越えてみせてほしいと思うのだ。君たちなら「絶対やれる」はず。だからこそ僕らおっさんは君たちを見続けている。 今日のアビスパ福岡戦。かなり大変ななかでのプレイを強いられると思う。僕らの道のりにはいつも試練が待ち受ける。だがそれがなんだというのか。乗り越えられる選手たちだと信じているし、そして、必ずやってくれる選手たちなのでもある。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

次の一足、最後の一足。

日本国民にとって様々な思いが集まった東京オリンピックがいよいよ最終日を迎えている。想定できた事柄、想像を超える出来事など、言葉や文章だけでは表現できないようなシーンの連続。これが「スポーツの力」なんだろうなと感じている。 そんななか、一番の楽しみであったサッカー競技では、男女ともに非常に厳しい現実を突きつけられたように感じている。母国での今回のオリンピックでの無観客のスタンドを見て、ファン、サポーターの重要さや必要性などを強く考えていた。 三位決定戦は結局、仕事の関係でリアルに見ることができなかった。結果は知っていたものの録画した映像を翌朝視聴した。日本の夏、中二日の強行日程と、限界に近い選手達。次の一足、最後の一足が出てこない姿をひたすら目で追っていた。 僕らファン、サポーターが代わってやれるはずもない。彼らの身体的な疲労を回復させることはほぼ不可能だ。だが、僕らには声があり、クラップがあり、何より彼らを心の底から支えようとする「スピリット」「マインド」が備えられている。 僕らは、それらの武器をなかなか活かせない、もどかしい日々を過ごしている。 セレッソ大阪サポーターだけを見ていても、 毎週木曜のウダ夜に話をしていてそう感じてしまう。いま、日本全国のファン、サポーターの気持ちも同様なのだろう。 コロナ禍となって以来、もうかれこれ、一年半以上は大阪に戻っていない。自分自身もそうだが、もとより、東京に住む者としての、自分の周りの方々への配慮の気持ちが非常に大きい。時間の経過とともにそれが限界に近づいているのも事実。 東京パラリンピックが8月24日から始まる。ここでも無観客競技が行なわれるなかで、僕らファン、サポーターの「声」と「クラップ」が選手に届きにくい。次の一足、最後の一足を、選手個人に託さなければならないのが、本当に寂しいのだ。 僕のその限界を乗り越えさせてくれるのも、アミーゴの「声」や「クラップ」。だから僕は今もここに生きている。僕らはスポーツを愛し、そしてスポーツから多くを学ぶ。ウィズコロナでのオリンピックを開催した国、日本。もう少しの時間。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

時代が変わっても。

今頃かよ、と言われつつも「ストーリーとしての競争戦略」を初読み(というかaudiobookなので初聞きなのか)している。常々感じていることのオンパレードだったので、素直に入ってくる気がする。やはり時代が変わっても良いものは良い。 最近、歴史を語るシーンが、公私ともに多くなってきている。やはりもうそういうお年頃なのだろうと腹を括ってもいる。親子いやそれ以上の年齢差のなかで伝えていくのはとても難しいわけなのだが、今では、それも楽しんでいる自分がいる。 オリンピックを見ていてもセレッソサポーターを見ていても、そう思う機会が著しく増えているのは、この若い世代が、僕の思考の範囲や領域を簡単に上回ってくるからなのだ、と考えるようにしている。僕はすでに「予備役」なのかもしれない。 先日は二週間ぶりのウダウダだった。一週休みだけなのに勝手が行かず、なんだかぎこちない感じになってしまい申し訳ない。23回続けてきた習慣の力をものすごく思い出してしまって、迷惑ではあったが「7つの習慣」を若者に薦めてしまった。 繰り返して恐縮だ。この「ストーリーとしての競争戦略」は2010年初版。「7つの習慣」に至っては1996年日本語出版。温故知新、と丸めることだけがすべてでは無いが、時代が変わっても受け入れられるのは「良い物」。自分もそうありたい。 そう言えば昨日、運転免許証の更新で東京都庁にあるセンターに行った際、ようやく東京オリンピックと触れ合うことができた。一回目のワクチンも先程打ったので、色々前に進み始めてもいる。しかしながら八月の大阪は無くなった。残念だ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

良くも悪くもサッカー三昧なのだけれど。

緊急事態宣言下での東京オリンピックが開幕する(実際には既に競技は始まっているのだが)。そのうえ前代未聞な出来事の連続で、もう、どうすればいいのか思考の限界を超えている気もする。気持ちだけはしっかりと保っておきたいものだ。 以前にも書いていたが、女子サッカーのチケットを何枚か持っていた。ことがすべて順調に進んでいたならば、この日曜日にはスタジアムで試合を見ていたのだろうが、類に漏れず、ウェブサイト上では「無効」の文字が煌々と光り続けていた。 男子サッカーの吉田選手も話していたが、ファンやサポーターは選手の最後の一足を手助けする力を持っている。だから無観客という選択が、本当に試合を難しくしているのはJリーグで織り込み済みである。そんななかで僕らはどう向き合うか。 セレッソ大阪、なでしこジャパン、そしてU-24日本代表と、我がクラブにゆかりある選手たちで溢れているこの期間(スタジアムDJもぜひ加えておきたい)。もうこうなったからには、良くも悪くも逆手にとって、サッカーを味わっていきたい。 今週、例のウダウダ(僕のTwitterを見て)は一週お休みさせていただいた。次の木曜日にはものすごい情報量で多くの方と話ができると思うと、この時代を上手く楽しんでいるのだとも言える。コロナ禍で多分、仲間との絆も深まっているのだ。 だからこの緊急事態宣言下の東京オリンピックもポジティブを捉えたい。世界で初めての経験を伝えるためにも、より多くのアクションを意識していきたいと実に感じる。この、良くも悪くもサッカー三昧ななかで、手に入れられるものがある。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP ※プロトタイプ作ってみた。ちょっと薄いな。 ※もうちっと何か出来ないか、考えてみようと思う。

ビジョンと結果の両立。

やはりと言うか何と言うか、東京オリンピックは一都三県で無観客開催とあいなった。女子サッカー数試合ではあったが、チケットを保持していた身としては、「見たかった」と思うと同時に、やはり「厳しいな」と現実的な見方も必要である。 多くの思惑が入り混じっていて混乱しているが、政治の話はここではしないでおこう。言いたいことは ただひとつだけ。 プレイヤーの皆さんが「スポーツの素晴らしさ」を体現し、そして、その姿を自宅で見られることに、常に幸せを感じたい。 そんななかで我らのセレッソ大阪が挑んでいたアジアでの戦いは、傑志とのグループ最終戦をスコアレスで引き分け、しばしの小休止となった。中二日の連戦、そして高気温のピッチは選手たちにとって想像以上に非常に厳しい環境だったろう。 しかしながら、ターンオーバーという言葉だけではまかないきれないほど、多くの経験ができたのではないか。そんな思いをライブで四試合、見逃し配信二試合というモニター越しの映像から感じた。「負け無し」なんてものよりも価値がある。 気持ち良い週末のさなかに、唐突に、森島社長の動画が配信された。いや、唐突などではなく、例のアンケート提出がトリガーとなって、この流れになったのかもしれない。内容については、評価はともかく、良くも悪くもと、双方受け取れる。 サッカークラブもひとつの組織だ。そこには戦略があり戦術がある。そしてこれらにはマネジメントとリーダーシップが存在する。マネジメントとはものごとを「正しく行なうこと」であり、リーダーシップは「正しいことをすること」でもある。 今、特に必要なのは長期的なビジョンと短期的な結果の両立。どちらも大事だが、どちらも求め過ぎてもいけない。そういう思いがここしばらく続いている。ACLでのアカデミー出身選手と、先週日曜日に見たなでしこリーグで、更に確信した。 とにかく今は、リアルにサッカーを見たい。その思いが日に日に増えている。もう何度目だかの緊急事態宣言が改めて始まる東京ではまだまだ難しいところではあるが、長期的なビジョンと短期的な結果を、荒れ荒れの肌で感じていきたいのだ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

「チームはファミリー」は信念。未来永劫。

セレッソ大阪サポーターとして物心がついた頃から、このクラブにとっての理念は、パウロ・エミリオ初代監督が発した「チームはファミリー」であった。この重厚な言葉によってクラブとサポーターの距離は一気に縮まったように思えている。 理念というより信念と言ったほうが良いのかもしれない。これは監督が変わっても選手が変わっても、クラブとサポーターの関係は不変である、という願いに近い気持ちも多分に含まれている。あれから時代は変化しているが決して色褪せない。 当時はアジアで戦うなど夢のまた夢で、まぐれとは言わないまでも天皇杯で正月を国立で迎え有頂天になり、レベルの差を感じながらの人生ではあった。今、我がクラブは、四度目のAFCチャンピオンズリーグでグループ首位をひた走っている。 いつも話しているが、セレッソ大阪は常にアジアの舞台で戦い続けないといけない。そのためにはクラブとしてより上のステージへと向かう必要がある。だが、そんななかでも忘れてはならないのは信念。チームはファミリーであるということ。 さる木曜日。我らの代表として、あるサポーターがアンケート結果を持ってクラブへ訪れた。その内容をもとに森島社長としっかりと対話ができたことをTwitter Spaceで語ってもらった。ウダウダと話している際に浮かんできたのが前述の信念。 クラブも生き物、サポーターも生き物。だが何度も言うが、信念は、その生き物たちの内部に存在するDNAとして宿り、そして未来へとつないでいく。この瞬間も大事だが、未来永劫続いていくこのクラブにとっては単なる1ページ程度のこと。 だからこそ動き続けなければならない。書き続けなければならない。クラブは変わらないといけないし、サポーターも変わらないといけない。今回のアンケートとウダウダ#21は、そんなことをかなり考えさせられた。本当にありがたい話である。 長生きをするつもりはないが、自分自身のエンディングを迎えるまで、チームはファミリーだと、胸を張って言い続けたいと思っている。八月には一度大阪に帰る予定だ(緊急事態宣言下以外)。多くの方と話せると良いなと切に願っている。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP あ、ACLのことなど。 土曜日の四戦目。三ゴールともにクオリティが高く、非常に素晴らしいと感じた。この勝利でノックアウトラウンドへと近づきはした。暑さの中

AFCチャンピオンズリーグ、始まる。

アジアでの戦いが始まった。思うところは多々あるものの、大事な緒戦で勝ち点3を取れたことがなによりのポイント。短期集中のここからが勝負になる。厳しい日程のなかでのゲームがとれだけ今後のチームに活かせるのかが重要になってくる。 僕自身AFCチャンピオンズリーグにはとんと縁が薄い。記憶が定かではないが、多分、二試合か三試合くらいしか現地観戦したことが無いはず。しかも海外アウェイとなると、2014年シーズンのみ。ファン、サポーターとしてどうなのだろうか。 以前(20年前くらいの話で恐縮だが)も書いたりもしていたのだけれど、若いうちは旅に出ていくほうが良い、特に海外アウェイに行ったほうが良いと話してきた。ワールドカップ予選はもちろんのこと、我らがセレッソ大阪のアジア然り、だ。 海外では、特にアジアにおいての真剣勝負では、国内でのスタジアムで味わったことの無いような空気に包まれる。今はそれほどでも無いのかもしれないが、その昔は、石や瓶が飛んできた、なんてこともあった。そんなことを思い出してしまう。 旅は良い。吊り橋効果ほどでは無いものの、ファン、サポーターのあいだの距離を、限りなく狭めてくれる。同じ空気、同じ空間を共有することで、共感が生まれやすい。この共感を作り出す力が、このサッカーの旅には多く含まれているのだ。 齢五十となった今でも、この旅を続けたいという気持ちは昂っている。それ以上に、環境を準備するためにはやはりセレッソ大阪がこのアジアで戦い続ける必要があると強く感じている。今回もそのための資金石だと考えれば、素敵なのである。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

この時代に必要な存在について。

セレッソ大阪にゆかりのある選手たちが国家代表としてプレイする姿を見ると、感極まってしまうのは今に始まったことではない。綺麗すぎる言葉かもしれないが「共に戦ってきた」からこその感情であり、これはファンに与えられたご褒美だ。 先週から今週にかけての各カテゴリーの代表戦を見た。坂元選手と瀬古選手は言うまでもないが、桜なでしこから巣立っていった林選手、宝田選手そして北村選手の遜色の無い戦いに、これまでの育成は決して間違ってなかったのだなと感じる。 もちろん、組織である以上、諸々の事情はつきものである。避けて通れない「しがらみ」なんてものもまとわりついてくる。ファンの言葉の責任の有無を求めるのはナンセンスであると同時に、言葉と行動が責任を作っていくことも多々、ある。 木曜日にも話したが、クラブが誕生して27年以上経って、まだこんな形で分かり合えない部分が多いことに考えさせられる。たしかに二十年前くらいにはお互いがまだまだ未熟で、感情のぶつかり合いが、クラブだけでなく選手にも及んでいた。 このコロナ禍だから、というわけでは無いだろうが、いま言葉と感情のやりとりをできないもどかしさに苛まれる。これまでに何人も、クラブと僕らのあいだを取り持ってくれる方がいた。この時代に必要な存在として、重要ではないだろうか。 まあ、そういう方は、いつの時代も、何かの力が働いて、我が家からいなくなってしまうのだが。コロナが落ち着いたなら、そんな方々に会うための旅に出たい気持ちになってきた。過去を振り返るばかりでは駄目だろうが、温故知新でもある。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

継続は力なり。

トーマス・エジソンの言葉だったか「人間の一番の弱点は諦めてしまうところだ」に近いものがあったと記憶している。個人的にも飽きっぽさが身体の中を充満しているB型人間としては心と耳が痛い。「諦めたらそこで試合終了」でもあるのだ。 ラストチャンスをもらった形のジャマイカ戦は相応の姿を見せてくれた。結果は結果。どうなるかだけが人生でも無い。諦めずに戦い続けるだけの場面で、最後の最後まで堂々としたプレイ。「人事を尽くして天命を待つ」とはまさにこのこと。 そして、たとえ選ばれなかったとしても我らの誇りであることには変わりは無いし、選ばれたならば思う存分楽しんでもらいたいと思っている。それと同時に、ここが終わりなどではなく、継続していくこと。それこそが一番大事な部分だ。 話は変わるが、天皇杯では久々の複数得点での勝利となった。たしかにカテゴリが違うので一概に喜べないのだが、これから迎えるアジアの戦いに向けての重要だと位置付けていたので素直に嬉しい。桜スタジアムの景観にも少々感動している。 無観客試合だったからこそスタジアム近辺の風景が映える。先週木曜日のウダウダでもサクラホリックやオイト(なんで両方ともカタカナ)の話題になったが、あの場所にあることの意味や意義や重要性が、なんとなくではあるが分かってきた。 フル代表、U-24、なでしこ、そしてセレッソ大阪。毎週の話題に事欠かない状況が、ウダウダの継続を産んでくれる。継続は力なり。諦めずに続けていくことこそすべて。さて、いつまで回を重ねていくのか。それは誰にも分からないことだ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

感情。

天皇杯やアジアでの戦いがあるにしても、セレッソ大阪にとってのJリーグの試合が無いと、かなりの割合で退屈になってしまう。スポーツ選手同様にサポーターは感情の生き物。気持ちの整理をしながらクラブの行く末などを考えたりしている。 このようなコロナ禍ではなかなか思い通りに時間が作れないのが本当に辛い(色々とお断りしてしまったので申し訳なく思っています)。気持ちの整理という、とてもあいまいでデリケートな思いも持ちつつ、いくつかのワークをこなしている。 そのひとつがTシャツのプロトタイピングでもある。あまりに何も考えずに感覚的に作るので、 すべての方に満足していただくことはまず叶わないだろう。 いつもいつのときもそうだが「自分が着たい」という感情に従って、作ってしまうのだ。 ただの人間なので、その結果、失敗作が出来上がったりもする。しかしながら、失敗があるからこそ次につながるのだとも思う。感情のコントロールは、人間として生きていくうえで避けては通れない道。だから様々な感情を受け入れていく。 そんななか チャリティーマッチとはいえ 坂元達裕選手が日本代表デビューした。結果はともかく17番を背負った彼がこの場にいたこと、それこそが本当に嬉しい。願わくば前回共に辞退することになった原川力選手もいれば二重の満足だったが。 U-24含めて(もっと下のカテゴリーもだろうけれど)彼のポジションは激戦区でもある。日本代表に定着するには更なる成長が必要となってくる。そして逆に、日本代表で多くを吸収して、セレッソ大阪に還元してくれることを切に願っている。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第17節 ベガルタ仙台戦。

僕はカップラーメンが好きだ。年齢のせいか最近では量は減ってきたものの、コロナ禍で家にこもることが多くなった今、お昼ご飯としては最適でもある。身体に悪いとの話もあるだろうが、この好き感は、それらを超越しているかもしれない。 さて、仙台戦である。チアゴ選手、ダンクレー選手、瀬古選手による3バックと、原川選手の1アンカーのスタートメンバーを見て少々驚いた。監督としてもいよいよと言った感があるが、交替メンバー含めて見ても、即席感が否めないのも事実。 それでも、改めてひとりひとりの能力は高いなと感じると同時に、個々の選手は勢いを取り戻しつつ(と言ってもわずかばかりの)ある。だからこそここでいくつかのインターバルが取れるのは、チームにとってとてもありがたいことだと思う。 先日のSpaceでも話したが、今、監督が替わるのは好ましくないと僕は感じる。サポーターにも個性があり、考え方がそれぞれ違うのも当たり前なのだ。スタジアムで対話することがなかなか難しい時代だからこそ、多くの考えが出てきていい。 しかしながらその部分だけは即席では上手くいかないだろう。考え方や思想の違いをもっともっと共有して、対話を繰り返すことの重要性。サポーター同士はもちろん、監督と選手、選手と選手そしてサポーター。お湯を入れて3分ではできない。 話は戻るが、どんなカップラーメンが好きかというと、わかめラーメン、チキンラーメン、サッポロ一番塩ラーメン。やはり、カップラーメンもサッカーも、よりシンプルで分かりやすいなもののほうが好みなのである。後入れはとても難しい。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第16節 鹿島アントラーズ戦。

今年もこの日がやってきた。毎年のことではあるのだが、思い出す内容が少しずつ少しずつ減ってきている感もある。だからと言って綺麗さっぱり捨て去っていいものでもない。セレッソ大阪に関わる方々にとって非常に価値のある一日なのだ。 2000年5月27日から21年経つ、その前日に、鹿島アントラーズとのアウェイゲームが行なわれた。結果はもちろんご存知の通り。もうしばらくのあいだサポーターにとっては、なかなか(相当?)上手くいかないなと感じる試合が続いている。 選手もかなりフラストレーションが溜まっているのが見て取れる。また周辺でも、クラブや選手のSNSなどを拝見するだけで、なんとも言えない気持ちの葛藤が大きくなってくる。こればかりは時間が解決してくれるとはとても思えない状況だ。 勝てなくなると湧き上がる感情とは少しニュアンスが違っている。「怒り」などというよりはどちらかと言うと「寂しさ」とか「哀しさ」に限りなく近い。選手にもファンにもそしてサポーターに対しても「寂しさ」「哀しさ」を感じてしまう。 もちろんこの四年間で高く積み上げたレゴブロックが音を立てて崩れるのにどことなく似ている。だが、それ以上に寂しいのは、クラブの感情がまったく見えてこないこと。そこに本当の「寂しさ」が見え隠れしているような気がしてならない。 今日のspaceは果たしてどんな感情に包まれるのだろう。時間はあるようでそれほど残されていないような思いのほうが大きい。今やれること。根本的なことや将来のこと。ひとりひとり感じ方も違うだろうから。悲観的にはなりたくはないけど。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第15節 サンフレッチェ広島戦。

今日で長居スタジアムとしばしのお別れとなる。どの試合が思い出に残っているかと問われたところですべてが過去であり、常に未来を見据えていたいと言ったら、綺麗事だと言われるだろうか。共に過ごした日々はまさに「悲喜交交」だった。 クラブにおけるサポーターの存在は、偉大だ。どんなことがあろうとも惜しみなくクラブを愛し続け、ときには叱咤激励し、ともに笑い、ともに泣く。クラブが過ちを犯したとしても、繰り返し繰り返し裏切られたとしても、愛は、止めどない。 だから、長居スタジアムで起こった数々の出来事は、質量ともに自分自身への影響がとてつもなく大きい。そしてそれは、サポーターだからこそであり、人生の生活の大半を捧げているからこそ、そのような、多くの感情で溢れ返っているのだ。 その記念の試合でもある広島戦。ほぼほぼ見せ場などなく逆転負けという結果だけが目の前に残った。基本的にこのような記念マッチ的な試合で勝った場面を思い出すことができない。大概見てきてそうなのだから、多分、勝ってはいないはず。 まあそんなメモリアルはともかく、ここ数試合を見ているだけで、二十数年蓄積されてきたストレスと同様の何かを身体の中に溜めつつある。そのストレスがじわじわと全体に染み渡り、最後にはどうしようもない状況に陥りそうな、あれだ。 正直なところ、ここ数年ではあまり感じなかったし、開幕当時もそれこそ若いセンターバックを盛り立てる気持ちのほうが大きかったのでなんとかクリアできていた。しかしながら今は、勝てない勝ちきれない以上のもどかしさを抱えてしまう。 いつも書くことだが、サポーターがスタジアムにいたなら、少なくとも意味不明な失点をいくつかは防ぐ手伝いはできただろうし、90分間戦い続ける闘志を送ることは可能だっただろう。ジャッジよりもリモートマッチに不公平感を強く感じる。 とは言え、勝利から遠ざかっていることに変わりはない。1990年代、2000年代は「三歩進んで二歩下がる(いや四歩も五歩も、のときもあったかな)」の人生だったのを決して忘れてはいない。現代の、幸せな時代だからこその悩みでもある。 何度も書くが、長居スタジアムにおけるサポーターの力は偉大だった。たとえクラップだけだったとしても、選手に伝えられない辛さを、今サポーターは経験し、クラブはその力を評価できなかったのだろう。それほど、僕らは、強くないのだ

第14節 ヴィッセル神戸戦。

いつも思うのだが、時間の使い方ひとつで人生が良くも悪くも変わる。いつも思わされる。上手く使うことばかり考えるのではなく、大事に時間を活用するのが実に肝要だ。一分一秒を大事にしなければならないが、人は忘れる生き物でもある。 先日、ある新入社員の方に向けてプレゼンを行なうため、ドキュメントを作成していた。その際にたまたま1993年のこと(ちょうど彼らと同じくらいのときでもある)を振り返って懐かしんでいたのだった。そこで、あの5月15日と出くわした。 あの日あの時の思い出が蘇ってくる。そこにはもちろんセレッソ大阪はいない(実際にセレッソ大阪と出会うのは、その二ヶ月くらい先になる)。そんなJリーグ誕生から28年経った今日に試合が行なわれる意味や意義。噛み締めて生きている。 Jリーグの誕生日に、というか、何かの記念日には必ずと言っていいほど、なんとも言えない試合をしてしまうのがセレッソ大阪だ。それがデフォルトだと思えば良いのだろうが、結局、歴史の中からは何も学んでいないのだろうと感じてしまう。 いくつもの「タラレバ」もあった。毎回書くし、毎回どこかで話しているが、こういうときにサポーターとしてスタジアムに居られないのが、本当にもどかしい、と思うシーズンが続いている。歴史をつなげる一分一秒が、やっぱり大事なのだな。 あと何度同じような場面に遭遇したら耐えうる力が我々に宿るのだろう。それともいつまでも同様の葛藤に悩まされるのだろうか。まだ28年されど28年。時間の問題だけではなく、Jリーグとは死ぬまで付き合うつもりなのだろう。頭も身体も。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第13節 名古屋グランパス戦。

最近、左足の膝に違和感を感じたりすることがある。毎日夜間に黒いワンコと緑道を走っていたのだが、最近では歩くだけになってしまっている。怪我は、最初のうちは違和感のレベルで始まり、気づいたときには大ごとになることもしばしば。 サッカー選手ともなれば、日常的に怪我と付き合っていくことになる。「人間万事塞翁が馬」という言葉もある。いつそれが訪れるのか誰にも分からない。分かっているのは唯一、自分の行ないなのかもしれない。今ではそう思ったりしている。 名古屋戦は、ある意味、想定した通りの試合展開で、想定した通りの得点差で、想定した通りの結果に終わった。お互いそれほどの差は無いと思うが、前二戦の辛い敗戦から抜け出そうとする相手チームの気持ちの面のほうが上回った感がある。 それは決してガッツポーズとかだけではなく、クラブ、選手そしてサポーターの内面の強さに見えた。我らが駄目なのではなく、彼らが気持ちを見せたと、個人的には思っている。もう一度、彼らを上回る内面の強さを作っていかねばならない。 久々にTシャツのデザインなどしてみた。ふと降りてきたアイデアを形にしていくと、今までの自分に無いようなものが出来上がった。変わらないものと、変わってはいけないものと、変わっていく必要のあるもの。大ごとになる前に気づくべき。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第12節 大阪ダービーマッチ。

いまだにスコアレスドローで終えたことがないらしい。戦績では水を開けれられてはいるものの、100年構想で考えればまだ1/4程度でもある。世界に数多く存在しているが、大阪の2クラブによる戦いは既に文化となっているのではないだろうか。 その大阪ダービーマッチはドローで終わった。いや、終わってしまったというべきか。もちろんハンドの判定などについて語る気もないし、個々の選手のプレーも同様。それらを超越して勝ち点3を手に入れるのが、ダービーマッチというものだ。 昨年の第二節での吹田アウェイゲームでも感じたが、ファンやサポーターのいないダービーマッチほど寂しいものはない。やはり両ゴール裏の、お互いの気持ちと気持ちがぶつかるあの瞬間こそが生き甲斐だ。今ここに生きている、と言えるのだ。 日本各地にはダービーマッチがたくさんあるけれど、どこの誰が見ても最高のダービーマッチであると自負する。これからの大阪には多分いくつものJリーグクラブが誕生するのだろうが、大阪ダービーマッチと言えば未来永劫このカードなのだ。 そんな環境に存在できるのがありがたいと思うと同時に、重責に押しつぶされそうになるのはどちらのクラブも同じだろう。特にホームゲームともなると、積まれるものは倍々と膨れ上がっていくのだ。楽しみでもあり、プレッシャーでもある。 無観客試合の影響はホームゲームに出やすいという噂も耳にした。払拭する意味でも、バックスタンドに広がる桜色がモニタ越しにも圧巻だった。長居や鶴ヶ丘周辺のお店の方々も、最大限の力でこのダービーマッチを戦い続けたと聞いている。 時間が経てば記憶も薄れていく。しかしながらこのような一試合一試合が我らの血や肉となるはずだ。Clubhouseでも話したダービーマッチの重みを改めて考えるゲーム。怪我の選手は心配だが、反攻に出る体制は整いつつある。前進あるのみ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

大阪ダービーマッチとはなにか。

誕生してから初めて無観客でのダービーマッチを戦ったのがちょうど一年前。改めてこの試合の重みを感じる瞬間を迎えようとしている。その結果、神聖なる思し召しを得るのか、血に塗れた屍となり地に這いつくばるのか。誰も分からない。 ダービーマッチとはなにか。それは、その街の覇権を争うだけのものにあらず。我らが持つべきものは、大量のプライドとわずかばかりの運。ダービーマッチとはなにか。それは、我らに与えられた、至極のコロッセウムにおける魂のやり取り。 少しだけ時間旅行をする。それまでの成績などにかかわらず織り交ぜられ、そのダービーマッチの結果は次の作用を生み出す。二十六年前のあの日からなにひとつ変わらない化学反応が今もこのつながりの中に潜んでおり、そしてもがき続ける。 ダービーマッチは心の起伏。大阪というこの例えようのない劇場で選手たちは戦い、観客という観客が与えられた時間の分だけ狂喜乱舞する。時代は変わろうとも、世代が変わろうとも変わらないものは唯一無二。それが大阪ダービーマッチ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

なぜ懲りもせずにTシャツを作り続けるのか。

ビジネスとプライベートを同じプラットフォームで管理することに抵抗のある方が多いと聞く。僕の場合、別個に存在していることのほうが逆に気の持ちようが悪い。人生には一本道しか無いと思っているし、これからもそうだとも感じている。 だが、趣味は趣味、仕事は仕事であって、好きなことを生業にするのは正しいか否かを考える時間もことのほか多い。まあ大半の生きかたには、そんなことを意識して行なえるはずも無く、淡々とした毎日を送り続けるのがせいぜいなのだろう。 楽しみとしての領域では、まず自分が思った通りを実践してみて、周りの方々が同意してくれるのか理解してくれるのか、で判断する。しかしながら、昨今のビジネスにおいては当然のことだが、お客様そして利用者の目線が一番になってくる。 Tシャツ、Tシャツのデザインなんてものもその典型かもしれない。まずは自分自身が「着たい」と思わない限り、作る価値が無い。売れるか売れないかは二の次でやはり己の欲望が先に立ってしまうのが一番。そういった観点を意識している。 ここ数年というか、どのクラブでも2010年くらいからのスタジアムを見ていても、ユニフォーム姿のサポーターが圧倒的に増えた。素晴らしいなと純粋に思うし、逆の意味で捉えると、それだけ豊かになっているという証でもあるように思える。 サポーターになる時点でなんでも揃えられるものは揃えてしまえるほどの生活水準になっている。その昔はサポーターなりたての子たちに、持っているTシャツをプレゼントしたりしていた。着古したものにも、それ相応のステータスがあった。 時代も変わり、人の生活も変わり、そしてサッカーとの関わりかたも変わっていっている。改めてこのステータスというキーワードを考える時が来ている気がする。すべてが空中戦で事足りる昨今に、勝負の縦パスみたく打ち込む楔のように。 あの頃が良かったとか今に苦言を呈するとかではなく「この時代だからこそ」のTシャツを作り続けたいとも思う。昔のキャッチフレーズを思い出してしまった。「いつも心にREALを」。間違いなくこれからもTシャツを作り続けるのだろう。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第10節 浦和レッズ戦。

駄ブログを毎日書かなくなったからといって時間が作れたか、というとそうでもない。人間は「24時間」をなんとなく過ごしている生き物なのだと改めて気付かされた。とは言え、こんな体たらくは僕だけだろうとも思える。恥ずかしいほどに。 そんななかで何度目だろうかの緊急事態宣言が発出されそうだ。去年の夏に冠婚葬祭で帰阪した以外はまったく帰っていないのだが、人は馴れてしまう生き物でもあるのだ。元来のインドア派の本領が発揮されていると言っても、過言では無い。 さて、浦和レッズ戦である。ここ数試合、勝てていないことに加えて相手は連勝中。スタジアムの入場もかなりの人数制限が行なわれている状況下での厳しいゲームは、なんとか最小得点差で勝つことができた。実に、勝ちに不思議の勝ちあり。 一番気にして見ていたのが西尾選手だった。前の試合(これだけ"節"がぐちゃぐちゃになっていたら、"前節"て呼べないな)のプレイもあったし。まだまだ若いから、という言葉を含め、サポーターの声が選手を勇気付けているのは間違いない。 セレッソ大阪のサポーターだけでなく、各クラブのサポーターの方々は、自分たちの選手を勇気付けることにすべてを賭けている。伝わるか伝わらないかではなく、自分自身がサポーターとして選手にどうしたいのかを本当に考えて動いている。 過去には、選手との関係にギクシャクすることもあるにはあった。今のこの多様性の時代においては、選手たちへのリスペクト、クラブに対してのリスペクト、相手チームへのリスペクト、そして共に戦うサポーターにリスペクト。それが重要。 リスペクトしているサポーターの方々のニュースを見るたびに 選手とサポーター、クラブとサポーターの関係を、今一度見つめ直す時期なのかもしれないな、と思ったりする。人と会えない分、人のことを考える時間が増えた。不思議なほどに。 勝ちには不思議はあるが、負けには理由が存在する。要はその瞬間に気付けるか否か。その点で言えば西尾選手は気付きそしてこの勝利に結びつけた。多くの大人が彼から学んだことだ。関係性には、上下なんてものはそれほど意味を持たない。 リスペクトとはre(再び)とspect(見る)からなる言葉だそうだ。そういう意味だと「尊敬」よりもどちらかと言えば「尊重」に近いらしい。クラブとも選手ともそしてサポーターとも、

第18節 徳島ヴォルティス戦。

個人ひとりひとりの小さなミスによって起こるケースと組織全体の問題によって招き入れるケースの二通りが存在する。明らかな過失はともかくとして、大半は「しくみ」が成り立っていないときにこそ、ヒヤリハットはインシデントに変わる。 ビジネスだろうがサッカーだろうが、どのような組織であっても同様。そういう意味において徳島ヴォルティス戦は、1-2という点差以上にチームとしての「差」がついていたことを実感できる。最後のシーンなどはその「おまけ」かもしれない。 それよりも非常に気になったのは(Clubhouseでも話したのだけれど)オウンゴール後そして試合終了後の静けさだった。もちろんコロナ禍で応援スタイルが限定されているのは致し方ないのだが、「クラップ」オンリーだけでは表現は難しい。 ここ数試合、サポーターの存在が重要であると感じてしまう場面が少なくない。「サポーターの声」そのものが選手のためになっているのか否かの議論はこの先もずっと続くのだろう。だが良くも悪くも「無くてはならない」存在であるはずだ。 そんなことを今、この瞬間に考えている自分がいる。スタジアムに行くのもままならない状況で、現状を早く脱することができれば良いのだが、なかなか。しばらくはクラブの力に頼るしかないのが実情でもある。新たな策を期待して待っている。 そういやヒヤリハットとインシデントの話に戻る。「ハインリッヒの法則」は、ひとつの重大な事故の元には29の軽微な事故があり、その前に300ものヒヤリハットが存在すると言われている。クラブが兆候を見逃さないことを心から祈っている。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第9節 アビスパ福岡戦。

ついに東京も「新型コロナウイルス感染症まん延防止等重点措置」の適用が決まったようだ。大阪を含めすでに始まっている地域もあり、この先どのように変わっていくのか。飲食店を中心に、まだまだ余談を許さない状況は続いていくだろう。 そんなさなか、アジアチャンピオンズリーグの関係もあり試合日程がかなり動いた。セレッソ大阪としてはここからホーム四連戦となる。そのスタートがアビスパ福岡戦。なんとか勝ち点を稼ぎたいと思っていたものの、そうは問屋が卸さない。 率直に「あの頃のセレッソ大阪が戻ってきた」という感覚だけでは収まりきらない。試合の締めかたにサポーターが関与できていたら、もうちょっと違った結末にはなったのだろう。サポーターの声の力はそういう場面で発揮されるものなのだ。 終了間際の失点が多くなっているのも、監督や選手だけの問題ではない。サポーター含めたチームが一体になった試合になっていたなら防げる可能性もある。型にはまったものだけでは片付けられないサポーターの声の力。なにより重要だろう。 勝ち点2を失ったのは間違いない。とは言え二つのゴールは、未来を見せてくれるものとしては上物であったことも間違いない。一人多いからと言って、すべての試合が自分たちに都合良く思い通りに行くわけが無い。あと三試合が見ものである。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第8節 横浜F・マリノス戦。

「昔を思い出すのは歳を取ったせい」だとかよく言われる。色んな出来事を忘却していくのが人間の性ではあるが、なぜだかセレッソ大阪の歴史だけ常に覚えているというのがセレッソファンだ。これは一体どういうことかと時々思ってしまう。 記憶には短期記憶と長期記憶がある。長期記憶は回想記憶、展望記憶という時系列や、宣言、非宣言記憶という分類がされる。特に回想記憶のエピソード記憶、自伝的記憶に、セレッソ大阪があるのだ。まさに「自分ごと」としての記憶なのだ。 スタートメンバーを入れ替えて臨んだ横浜F・マリノス戦は久々の敗戦となった。直接の対戦でも10年ぶりということだったらしい。自分の記憶を辿ってもそんなに長かったのかとも思ってしまう。1990、2000年代を知る身としては少し歯痒い。 どうも、最近の若いサポーターと話しても勝利の記憶しか無いようだ。良き思い出は生活にも良い影響をもたらすとも言うので、それはそれでありなのだが、惨めな敗戦や、やるせない試合なども、時間が経ってみれば素敵な記憶でもあるのだ。 クラハでも話していたのだが、代わって出場した選手たちは充分に戦えていた。そう考えれば今後のことを考えても層が厚くなったと思いたい。それだけでもこの試合の価値がある。実際にそうなるかどうかは、次の試合の結果が決めるだろう。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第7節 サガン鳥栖戦。

このような状況下での金曜日開催が良いか悪いかは僕には分からない。だが土日に差し掛かる前に行なわれるゲームには何かワクワク感というのだろうか、ヨーロッパのリーグのような、多少の気持ちの高ぶりなどかあったりするので不思議だ。 木曜日のClubhouseでも同じような話になり、とは言え観客の入りなどには影響するよね、との結論に落ち着いた。二年前には4万人を集めたこの「金J」。いつまで続くのかという思いもあるのも事実。何事もチャレンジから始まるということ。 そんなフライデーのナイトマッチ。今シーズン無失点を継続していた鳥栖との試合は、なんとか勝利で終えることができた。こういうケースでは大概、相手の記録を更新させてしまう我がクラブだったが、今回ついにこの呪縛から逃れたようだ。 少々ミスもあって難しい展開が多かったものの、勝ち点3を手に入れられたのは嬉しい限りである。しかしながら、ボールを持たれる厳しい試合であったのは事実。選手的には持たせている感があったとも話しているが、それだけでも無さそう。 そういう、少し試合に入り込めない選手をサポートできるのが「サポーター」であり、僕がリードしていたときなどはそこを重視していた。個別のチャントが無かったとしても、声を送り、手拍子で鼓舞する。とても重要なミッションだった。 いま、コロナ禍において、このようなサポートができないなかで、どうアイデンティティを表現するか。この一年はそんな見方を常にしていくのだろうなと考えながらテレビ観戦している。来週のClubhouseで聴いてみようかなとも思っている。 それにしても「金J」だと、週末の使い方が不安になってしまうのは職業病か。三ヶ月ぶりに近くの眼科に行ってきた。検査の結果は良くもなっておらず悪くもなっておらず。まあとにかく、何事も様子を見ていくことが今の僕にできることだな。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第6節 湘南ベルマーレ戦。

その昔、結構な怪我をしたことがあった。順調なときにそういった事態になるとやはり心は折れるし、それ以上に焦りの色が濃くなってしまう。とは言え、どうするわけにもいかず途方に暮れてしまいがちだが、乗り越えてこその人生でもある。 ここのところ雨のなかでの試合が多かったので、体力の面ではかなり心配はしていた。多い少ないに関わらず雨による消耗が大きい。肉体面だけでなく心身ともに厳しい環境にある。そのなかでギリギリの勝負をするのだから、なにかは起こる。 結果的に湘南戦において怪我人が出てしまったわけだが、こればかりはなんとも言えない。この過密日程での頑張りがあって勝ち点を取れたのは、三選手 のおかげでもあるし、またその延長線として二人の日本代表選出も叶ったような気がする。 まずはしっかりと治して戻ってきてくれるのを願っているのだが、それ以上に出場機会を得られた選手たちの活躍に期待する。これにより競争意識がさらに活発化され、チームとしてはより一層強化されていく。そんなことを考えたりしている。 そして、その競争意識を続けていくためにも、ここからの三試合が大切になってくる。代表帰りならもともと出られる予定では無かった次の好調鳥栖戦では、チームの真価を問われる重要な一戦でもある。特に怪我明けの選手たちに期待したい。 さて昨日のClubhouseではゲストも来ていただいたりして、今後のJリーグについて話を聴かせていただいた。ACLのこと、日程変更のこと、みなし開催のことなど、ちょいちょい挟まる裏話にも耳を傾けていると、分かってくることがある。 今までは当たり前のように存在していた「週末サッカーとともに過ごす」という日常。この日常はコロナウイルスが蔓延している現在も、それらが去ったあとの世界でも、常に背中合わせで生きなければならないことを僕らに教えてくれている。 いくらライバルクラブであっても、みなし開催での不戦敗なんて辛すぎる。もし自分たちが同じ立場だったらどう感じるのか。その思いを、Jリーグも分かってくれていることを知れただけでも、昨日のウダウダ話は充実した時間だったと思える。 「結構続いているよね」と最後に言われ、ハッとした。続いている。続けている。発信を続けているのだ。やっぱり、今こそ、今だからこそ続ける意味があるのだと信じ始めてもいる。毎週木曜日の21時。是非とも同じ時間を共有して

日本代表選出雑感。

日本代表選出に盛り上がっている週末。嬉しいことばかりでも無いのが正直な気持ちではあるのだが、それでもナショナルチームの一員としてうちの選手が存在するのは素晴らしい。世界と戦った彼らが、無事にクラブに戻ることを願っている。 水曜日から米国テキサス州オースティンで毎年行われているサウス・バイ・サウス・ウエストに参加している。現状を鑑みて今年はオンライン開催なので、参加が容易ではあるものの、趣きも様変わりしているので少し戸惑っているのが本音だ。 2015年そして2016年とオースティンを訪れて、この世界的イベントを肌に触れ、様々な考えかたが変わったのも事実である。世界と戦うとか偉そうなことは決して言えないものの、日本という枠を飛び越えて感じる風景はまた格別なものがある。 当時はなかなか現地でお会いする方も少なかったが、近年では多くの日本人も参加している。インタラクティブであれ、フィルムであれ、ミュージックであれ、日本の素晴らしさを存分に発揮できるこのSxSWは、何度でも行きたいイベントだ。 そういえばこの前のニュースを見ていて、二回目の参加の際オースティン空港で、前日のイベントに出演されていたPerfumeの御三人にお会いしたのを思い出した。世界ではそのようなサプライズも数多く訪れるもの。これも旅の醍醐味である。 今週のClubhouseでも話題に上がったが、今年はアジアチャンピオンズリーグもある(集中開催にはなるが)。 コロナ禍では時間が比較的余裕がある方しか行けないだろうが、 また多くのファンやサポーターが、世界へと飛び出していくだろう。 アーカイブがあるにも関わらず、リアルに体感したい気持ちが大きいため、深夜にがっつりライブで参加している。しかしながら年齢の壁は越えられない。体調のコントロールに苦慮する今週でもあった。まずは湘南戦に向けて体調を整える。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第5節 大分トリニータ戦。

どのような世界でも「違いを見せる」方が存在して、いつも僕らを驚かしてくれる。仕事でもサッカーでも思ってしまうが、こういう人たちはどういう頭と心臓を持っているのか。僕のような凡人ではおよそ考えも及ばないし、興味が尽きない。 今年2021年のレヴィーセレッソは、事あるごとに前年までのサッカーと比較されてしまう。大分トリニータとの対戦でも同様。ウノゼロかそれとも攻撃力で捩じ伏せにかかるのか。どうでもいいとも思うが、悩ましいがそれでも意識してしまう。 坂元達裕選手のスーペルゴラッソが無ければ厳しい試合でもあった。引いてブロックを作られた相手とのゲームは、やはり「個」の勝負になるのが必定。そのような個人のスキルだけに頼るのも良くないのだが、とかく勝つとはそういうものだ。 さて、内容は僕が語るよりも、いつものように専門家の方々に任せるとして。水曜日の試合が多かったので、なかなかキックオフに追いついていなかった。ようやくミッドウィーク開催から解放されるか、と思ったら、次次節は「金J」なのか。 とは言え、ナショナルマッチデーウィークを挟むので、いま一度スケジュールの調整でもしてみるか。だが、凡人には何をやらせても中途半端なので、また、しくじり先生になりそうな予感もしている。次節勝って、穏やかな二週間を迎えたい。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第4節 横浜FC戦。

「一週間」という唱歌がある。ロシア民謡がベースとなっていて、一週間の仕事についてチュラチュラと描かれている。子供のときにはあまり納得感が無かった歌詞だったが、歳を取るにつれこの歌の意味がなんとなく分かるようになってきた。 そんな「チュラチュラ」な一週間の締めくくりとしての横浜FC戦となった。前々日にいつものウダウダ話、そして前日には横浜FCサポーターにお誘いをいただき、Clubhouseで少し話したのだが、雷雨以外は良くも悪くも予想した通りになった。 ぬかるんだピッチでもあり、思い描いたプランというわけにはいかなかっただろうが、攻撃において「個」の力が存分に出ていた。しかしながらディフェンスは相変わらず。少なくともこの五試合は、感情のアップダウンが激しい観戦でもある。 少なくとも前カノ(前任者)が残してくれたベースに獲得した選手が上手く絡めているのは事実だろうし、そのことには触れる必要も無い。この五試合が肝だと思っていたので、勝ち点9で乗り越えられたことには感謝しか頭には浮かんでこない。 Clubhouseでも話題になったターンオーバーやローテーションも、レヴィーが試合のなかで上手く行なってくれていると考えて良いだろうか。一週間に三試合のペースが持ち込んでくる疲労感を、どのようにいなしていくかも重要になってくる。 「金曜日には糸巻きもせず土曜日はおしゃべりばかり」。ときには休息も必要だ。僕個人はインターバルばかりが目立ってきているのも否めない。予定では3月21日に首都圏の緊急事態宣言解除だ。さあ、糸と麻を買いに行く準備も始めないとな。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第3節 清水エスパルス戦。

人には、触れられたくない痛みが、ひとつくらいはあるものだ。僕が歴史を好きになるきっかけの小説に、そこに触れたら命のやり取りになる、的なニュアンスの文章があったのをふと思い出す。その小説のタイトルがいまいち思い出せないが。 清水エスパルスとのゲームを「前カノ今カノ」対決で括るのはどうかとは思うが、お互いの監督があまり触れてほしくない部分なのだろうなと思いながら見ていた。サッカーだけに限らず戦術は生き物であり、選手が変われば戦いかたも変わる。 試合はそれこそ、プロの方やセミプロの分析官に任せたい。そこでClubhouseでも少し話題にはしたのだが、太鼓について。 セレッソファンの太鼓も聴こえなくはなかったが、 スタジアムでもモニタ越しでも、サンバの音色がかなり響いていた。 僕は常々、 無駄な太鼓ほど不必要なものは無い 思っている。無くても充分に応援をまとめることは可能だ。しかしながらこのコロナ禍では満足な声も出せず、クラップもなかなか合わせる機会が難しい。だから今は太鼓の力を借りる必要がある。 そういう意味では、各クラブの太鼓の方々の苦悩がよく分かる。スタンドで立って応援することもままならない状況で、太鼓の力だけで拍手を統一化させていくのはとても難しいのだろうなと感じる。コールリーダーと太鼓打ちの関係も、然り。 新型コロナウイルスは生活を一変させ、働きかたを一変させ、そして、応援スタイルまでも変えてしまった。セレッソファン、サポーターが一体となって、コールリードのありかた、太鼓がある意味などを議論・対話していくべきだと感じた。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第2節 FC東京戦。

僕が歴史好きなのは既にご承知のとおりだが、その歴史のなかには「勝てば官軍」という言葉が存在する。歴史とは常に勝者側のものの見方であって、敗者の歴史は葬り去られる。しかしながら最近では、それらが覆されるケースも、多々ある。 例えば、好物の明治維新に関しても同様だ。結果的に勝利した薩長を中心とした史観が通説と思われてきたが、ある意味「正しい部分」と「修正が必要な部分」が明確になってきている。だが、見かたは人それぞれで、その人に委ねられている。 今のセレッソ大阪も個人的にはそんな「人それぞれの見かた」がある。クラブの方向性や監督についても、考えかたは変わってくる。僕は否定するつもりもないし、そのような多くの考えが生まれることで、クラブは強くなっていくのだと思う。 前節同様に、最後は底力を見せつけられての逆転負けだが、不思議と結果に対しての不満の感情が生まれてこない。選手はかなり、このチームのために献身的に戦っている。また、それだけではなく、局面局面で素晴らしいプレーも見せていた。 次節がすべてのターニングポイントになり得る。この三試合で昨年の幻影をものの見事に断ち切った感もある。そのサッカーがロティーナの戦術に対してどう立ち向かうのか。第三者的見かたで恐縮だが非常に興味がある。これは偏見ではなく。 ただし、これはなにも、僕が今年のサッカーを認めたことを意味しない。いくら攻撃的チームを全面に出したとしても、前節同様、昨年までだったら起こらなかったような事故的失点(キーパーのは別で)を、とてもじゃないが僕は肯定できない。 最近はClubhouseなどでアウトプットしているので、僕の考えなどは聴いてもらえると幸いだ。そこでは、押し付けなどではなく、多様性を話し合える場づくりが重要だとも感じている。セレッソファン同士はそれができる仲間だと信じている。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第11節 川崎フロンターレ戦。

「頑張って前に進もう」と言い続けていても、進む方向を誤っていたらゴールには辿り着けない。目指すべき場所が正しくなければ、いくらやりかたが素晴らしいものであっても結果はついてこない。いつの日か僕らはそれに気付いてしまった。 その目指すべき場所が昨年と今年では大きく変わった。それは今に始まったわけでもなく、これまでの歴史のなかでもよくあった話。ひとつ違うのは、先ほども書いたが、僕たちは気付いてしまったということだ。それは紛れもない事実なのだ。 今年一年が、そのギャップを感じながら生きることになったのを悲観しているわけではない。物事には理由があり、そして選択がすべて。クラブが選んだ目的地と大半のサポーターが見ている目的地との乖離は、程よい温度感になってしまった。 Clubhouseのウダウダルームでも話したのだが、王者である川崎フロンターレとのアウェイゲームがそれほどの点差にならなかったことにびっくりしている。試合展開から見ても前半後半で変化のあった、非常に不思議な試合のようにも感じた。 終わってみればの当然の結果ではあったものの、選手個人個人にとっては、とても重要なレッスンであったように思えた。特に若いセッターバックのふたりには酷のようでもある川崎の強烈なアタックに対峙するだけでも学びの場になったはず。 ウダウダルームで、もしスタジアムにセレッソサポーターがいたら少しくらいは空気を変えられたかもしれない、と喋ったけれども、少なくとも二度の同点の場面では選手たちに勇気を届けることはできただろう。早くスタジアムに戻りたいね。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第1節 柏レイソル戦。

花粉症との戦いのなか、なんとか一ヶ月以内にはと思っていた書き起こし「 CEREBAKA EPISODE3 」が完了し、公開にこぎつけることができた先週末。多くの方の共感をいただいたことで、実現できて本当に良かったな、とつくづく感じる。 改めての「育成のセレッソ」と銘打って始まった2021年。思うところも多々ありながら、二人の会話をテキストにしていて感じたのは、クラブを生かすも殺すもサポーターの存在なのだなということだった。それを再認識できた喜びが今、ある。 人を育てるという行為はとても難しい。機械にプログラムを追加して、思い通りに動かすというわけにはいかない。教わる側も教える側も、そこには「心」というものがあるから。歳を取り、暇ができ、時間ができたからこそ、大事な要素だ。 開幕戦の柏レイソル戦は、結果こそ満足いく終わりかただった。しかしながら要所要所においてこの先のゲームで良い面と悪い面に出るだろうなと思える、いくつかのシーンも見てとれた。相手が10人になったことで、良い訓練にはなっていた。 もちろん勝利は一番のモチベーションにもなりえるし、特に若いセッターバックの二人の落ち着きは目を見張るものがあった。CEREBAKAで話してきた、サポーター側から見る育成の姿を意識していくことは、監督が誰であろうと同じでもある。 目の前の一瞬も大事。しかしながら一瞬の出来事だけに目を奪われることなく、僕らは次のステージへと向かう必要はある。僕も、もっともっとセレッソ馬鹿な方々と語り合って、そして、多くのセレッソファンに伝えないといけないのだろう。 そしてセレッソ大阪としてクラブの在りかたを認めさせるには、大久保嘉人選手の200という数字をなんとか成し遂げること。 YOSHI METERを前人未到の域にたどり着かせる、 そのためには多分僕らの役目も重大かもしれない。未来のために。 十代のヨシト、二十代のヨシトそして三十代のヨシトを知る人が先頭に立って、という必要性を改めて知った。たかだか15年、いや加入から言えば20年という距離は、1ゴールによって「ほんの一瞬」に変わったはず。さて、ここからである。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

多くの「声」を纏める。

セレッソ大阪の、というかJリーグの開幕まであと一週間となったこの週末。季節特有の症状と戦いながら(とは言え去年とは雲泥の差)先週から始めたClubhouseのなかでも話したのだが、多くの期待と不安が入り混じる、そんな時期でもある。 このClubhouseでは現コールリーダー、前コールリーダーおよび不肖僕との三人でウダウダ語っている。コールリーダーは一体何を考えていて、どう動いているのか。大半の方にはそもそも「どうでもいい」内容をウダウダ話す一時間でもある。 それでも、このJリーグというスモールワールドにおいて、多くのサポーターを鼓舞し、もう一方の側から試合を作り、チームを勝利へと導くために身体を張り続ける。そんな姿に憧れる方々に向けて少しでも何かを残していければと思っている。 そのようなコールリーダーにとってのこの一週間は、選手たち同様、非常に重要であり、この一年間のサポートをどのように進めていくかを熟考する時間だ。しかしながらコロナ禍の2021年は、コールリーダーにとっても厳しいという話があった。 キャンプを見に行けない。当然のことながら「声」を出しての応援もできない。できることが限定されたなかでコールリーダーがどのように生活しているのか、本当に興味が尽きない。純粋に僕が聴きたい。そこから旅路は始まったようなものだ。 サポーターの世界はまさに社会の縮図のようでもある。クラブを応援するという利害関係のうえに成り立っているこのワールド。チームのために多くの「声」を纏めるこのコールリーダーという役割。人としての成長をももたらすと改めて知る。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

「石」を投げ合うのか。「意志」を投げ合うのか。それとも「意思」なのか。

先日、アルゼンチン代表のウェアを着込んで、映画「ディエゴ・マラドーナ 二つの顔」を鑑賞してきた。俗に言う"格好から入るタイプ"では無いのはご存知のとおりだが、なぜだか気持ちのスイッチを入れなければ、と思い立ってしまったのだ。 もちろんのこと映画館のスタッフさんはすぐに気付き、どの映画を見るのか一目瞭然のような面持ちで誘導される。この「見た目」は、人に自分自身の印象を植え付ける、かなり重要なファクターでもある。その頭上に言葉という存在が、ある。 人間が、人として、他者と合意点を見つける旅。言葉とともに人間は何万年も生きてきた(どうもCMぽくなったが)。しかしながら、どこまで行ったとしても飽きもせず、この言葉によって争いは起こり続ける。賢すぎるせいなのか、それとも。 少なくとも批判だけを振りかざしていては引けないところまで行かなければならないし、そうなったところで一向に解決しない可能性もある。例のあの問題にレゴ®︎シリアスプレイ®︎を持ち込みたいと考えたファシリテーターは少なく無いはずだ。 アルベルト・アインシュタインの「 第三次世界大戦ではどうなるか分らないが、第四次世界大戦では、人間は多分、石を持って投げ合うのだろう 」という言葉がなぜかリフレインする。この名言には様々な意味合いが込められており、実に、深い。 戦うための道具が、石しか残っていないほど草木も生えない状況なのか。それとも、言葉の延長線上のメタファーとしての存在なのか(石打の刑というものも世の中にはあるにはある)。すべては言葉の行き着く先にあり、そして人は選択する。 「石」を投げ合うのか。「意志」を投げ合うのか。それとも「意思」なのか。日本語は同じ音でいくつもの解釈が生まれる。実に素敵な言語だと僕は思う。故にこの日本語には数多くの誤解も生まれやすく、また、数多くの責任も伴うことになる。 話は戻るが「ディエゴ・マラドーナ 二つの顔」を見て感じたのは、やはり愛すべきキャラクターなのだということ。光と闇、表と裏。完璧な人間など誰一人としてこの世にはいない。人には誰しも二つの顔がある。だから合意が重要なのだろう。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

こだわらない。こだわる。

随分とこだわりが減ってきた。若い頃なら考えられないほどの何でもあり感でもある。着るものも食べるものが毎日同じライフスタイルもそれほど悪くない。日常とはそれはそれでいい気もしているが、やはり刺激というか変化は欲しくなる。 大半の大人としてはウィークデーには仕事を勤しみ、そして週末には自分自身を取り戻す。もちろん、この週末の楽しみかたは人それぞれではあるが、日常とは、まるで川の水のように澱みなく流れているものだ。まるで一週間の歌のようだ。 だが本質は違う。いまこの瞬間に起こったことが同じように明日もやってくるかどうかは分からない。だからこそ一瞬一瞬を大事に生きなければという思いに駆られ、歳を取れば取るほど時間とのトレードオフを迫られる、そんな生き物である。 宮崎キャンプの様子が耳と目に入ってくる。選手は毎年のように入れ替わるものであり、この時期の調整は毎年のようにやってくる。企業で言うところの人事異動同様に、その毎年が必ず同じであるわけがない。特に今年はそんな思いが大きい。 そんななかでも、アカデミー出身の選手たちが活躍している記事を非常に見ると嬉しくなる。ちょうど先週収録した CEREBAKA で「クラブにおけるアカデミーの重要性」を話し合ったこともあり、自身の感情はより高まっている気もしている。 それにしてもこの第三節 EPISODE3 の内容は、すべてのセレッソファンがこの先も意識していかなくてはならないな、と改めて感じた。毎年のように行なわれてきた昇格の例の件も然り。一年は流れるが、その流れは決して一定ではないのだ。 こだわりの意識が限りなく低い僕がいうのも何だが、やはり我がクラブはアカデミーにはこだわったほうがいい。今朝、南野拓実のセインツでの (本当に素晴らしい) ゴールを見た。これこそ、こだわってきたアカデミーのDNAがなせる技だ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

綾。

もうすぐ二月である。新しい一年のスタートと思っていた矢先、既に一ヶ月が経過していることに驚愕する。時が経つのは実に早い。特に、齢五十を超えてからというもの、一日一日を大事にしなければと感じてしまう。そんな、毎日でもある。 セレッソ大阪が始動して結構経っているものの、まだまだモヤモヤが多発しているファン、サポーターも少なからずいる。そんなさなかによく分からない、例のあの問題などが起こり、ますます頭が混乱してくる気がするのは気のせいだろうか。 「言葉の綾」などに代表されるとおり、言葉というものは本当に難しい。書く言葉、話す言葉。それだけではなく、人と人とが交わると、そこには無数の「綾」が現れてくる。人間に色や形や考え方があるように、綾にも様々な形状が存在する。 クラブと選手の綾、選手とサポーターの綾そしてクラブとサポーターの綾。そのすべてにおいての綾もまったく違った容姿であろうし、意味合いも変わってくる。何だか文章がおよそ哲学的な様相になってきてしまったのでブレーキをかけよう。 話は変わるが最近「社会学史」という書籍を読了した。人の社会との関わりにはすでに綾が存在しており、理解できること理解できないことがからまり合っていることを知る。併せて昨年末に二ヶ月ほど心理学を学んでみて、感じるものがある。 まあまあ暗い話も多く、2021年シーズンがどうなることかと思案してしまうのだが、希望が見える話題もチラホラ現れてくる今日この頃。本日久々に「 CEREBAKA 」今回は第三節の収録だ。少々、いや、かなり停滞しており大変申し訳ない思い。 この「 CEREBAKA 」も本来ならば F.C.OITO で語り合いたいと思っているが、まだまだリモートを余儀なくされている。だが、なんとか人と人の交わりというセレッソ大阪サポーター同士の「綾」を記録していく。本当に本当に大事な時間なのだ。 辞書で調べたりすると「綾」は「文」とも置き換えられることがある。やはり「綾」を追い求める僕が「文」をも追い求めるのはまさに必然と言える。言葉や文章の意味と価値を改めて高めていく。テキストの重要性を更に意識していこうと思う。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

文章や言葉が「行動」を促すとしたら、僕には何ができるだろうか。

コロナ禍で人の心が傷んでいる。態度や姿勢、そして、言葉にも傷みが多く含まれているようにも思える。だが、こんなときでも、人に優しく寄り添う、勇気を与え合う日常があるからこそ、人間は生きていくことができるのだ、と僕は思う。 少し前の話なのと、僕の好きな幕末明治の話であることをご容赦いただきたい。薩摩藩士の五代友厚を描いた映画「天外者」。このなかでの、今は亡き三浦春馬さん演じる五代が最後に語る言葉。まさに人々に多くの勇気を与える演説に見えた。 幕末明治を語り出すと止まらなくなるが、この五代友厚。大阪の経済のために尽力した偉大な人物であり、そしてその裏では多くの謎も秘めている人物だと僕は見ている。50歳を迎えることなく亡くなったが、まさに波瀾万丈とも言える人生だ。 たったひとりの力でどうにかなるわけでは無い。日本全国の経済が循環しない今も、多くの方のご苦労とご尽力によって、なんとか耐えに耐えている。こんなときだからこそ、言葉や文章の持つ力は、人が勇気を持つための源になるのだろう。 さて、ある研修に参加した。研修の主な内容とは「文章の書き方」。何だか当たり前のように復習的意味合いでいたものの、改めての学び直しでは多くの気づきを得ることもできた。そのなかのひとつが「その文章の持つ目的は何か」だった。 要は、文章は「読ませる」ために書くのではなく「行動させる」ために書くのだということ。勘違いしていたわけでもないのだが、どうしても読んでもらうためにはどうするかばかりに目が行ってしまいがちだ。僕もそのひとりなのだと感じた。 セレッソ大阪が先日、監督スタッフおよび新加入選手の記者会見を行なった。レヴィー・クルピ監督以下ひとりひとりの言葉を耳にする。もちろん弁が立つ選手もいればそうでない選手もいる。当たり前でもあり仕方のないところかもしれない。 人を「行動させる」文章そしてそこに含まれる言葉というものには計り知れない力がある。特に外国人監督の持つ独特の世界観と言い回しは、選手たちの心や身体を動かすパワーの源泉があるようにも思える。個人としても見習うべきところだ。 思えばこの駄ブログも、様々なプラットフォームを巡り巡って、もうかれこれ20年以上書き続けている。どれだけのサポーターの「行動」に影響があったかなど考えて書いてもいないので知る由もないが、少なくとも自分の意識だけは変わった。 暴走

ハチがない世界とはどういうことか。

個人的な理由で申し訳ない。 それなりに悪い成績でもなかったのだが、 勉強自体は好きとは言えなかった。特に、 算数や数学というジャンルにおいてはやや苦手に思っていた節もあ る。大人になってようやく、数字の面白さに気づいた気もする。 先日少し話題になっていた この記事 を改めて読み返してみた。 特定の数だけを抜いた  0から9までの数字を並べる。その数字に対していろんな数字をかけることによって、様々な「化学反応」を起こすというもの。読んでいると実にワクワクする。 「奇跡」と呼ぶのが相応しいかどうかは凡人の僕には到底分からないが、この数字が存在しないだけでこんなにも不思議なリアクションが起こることに感動する。存在しないことを証明するのと、存在することを証明するのは、共に難解である。 では、そのワクワクを引き起こす数字とはいったい何番なのかということだ。セレッソ大阪ファンの方ならば間違いなく「あー。またこいつ言ってるよ」とのため息が出ているものと思われる。その数字とは紛れもなく、そして、幻影のようだ。 ちょうど一年前くらいから始めたF.C.OITOのプロジェクト。このようなコロナ禍であっても多くのお客様が来てくださり、魔法のような時間を味わってもらっている。いくら同じ番号とは言っても、もちろん僕らは魔法を使うことなどできない。 いつからこの番号は、魔法使いのような位置付けになってしまったのだろう。長い長い歴史を思い出しながらそんなことを思いつつも、当然、世代にもよるのだろう、とか頭の中を巡らせている。この記事を見て率直に感じたのはまさにそれだ。 1997年シーズンに固定番号制が始まり、そこでさもアイデンティティの一種になってしまった。そこから11年後にこの番号は「引き継ぎ式」が行なわれることになる。偉大かどうかはさておき、クラブにしてみれば立派なステータスなのである。 時を戻す(漫才ではない)。あの日、常に自然体でそこにあったはずの番号が、特別な存在に変わってしまった。0でも1でも2でも3でも4でも5でも6でも7でも9でもない存在に変わってしまったのだ。僕は思う。そうしたのは紛れもなく僕らだ。 「おはちがまわってくる」という言葉がいま適切かどうかは分からないが、僕らは改めてこの番号の存在意義と価値を考える必要があると感じる。そういう意味でもF.C.OITOと命名したことは本

選手生活の最後をセレッソ大阪で。

年末年始連休明けはやはり身体に良くない。良くない上にセレッソ大阪の契約更改、新加入、復帰、移籍などのニュースが五月雨式に降り注いできて余計に神経がすり減っていく。齢五十の身体に心底悪く、ましてや緊急事態宣言下でもある。 監督人事に納得したわけではないものの2021年シーズンはすでに始まっており、このような状況だとしても来月にはJリーグが開幕する。選手の採り方云々は僕のような素人に分かる由もないので触れはしないが、ただひとりだけ言っておきたい。 大久保嘉人選手がセレッソ大阪に復帰した。2006年シーズン以来だと聞いて、もうそんなになるのかと、思ったりもする。「選手生活の最後をセレッソ大阪で終えたい」という言葉はリップサービスだとしても、これ以上のプレゼントは、無い。 思い出せば2000年。もう耳にタコができるくらいの状況かもしれないあの5月27日が起こった年。舞洲の練習場でセレッソ大阪とアビスパ福岡のサテライトの試合。そこで僕らサポーターは、まだ進路か決まっていなかった大久保選手を勧誘した。 何とかしてセレッソ大阪に来て欲しい。その一途な思いを高校三年生にぶつけるのは、今となっては大人気ないなと思ってしまう。だが、あの頃は本当に、本気で選手たちと向き合っていたと感じるし、クラブという存在が僕らを動かしていた。 受け取ってくれたREALマフラーは今でも持っているのだろうか、なんてことは正直どうでもいいことだが、セレッソ大阪に戻ってきてくれた事実に感謝している。クラブに入る前から色んな出来事に巡り合う、そんな時代だったのかもしれない。 サポーターに選手を動かす力などあるわけは無いのだが、クラブを愛する強い気持ちを伝えることで、思いもしない何かが動き出すことだって十分ありえる。大久保嘉人選手加入のニュースを見ていてのこの流れ。やはり歳を取り過ぎたようだ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

アンダンテ。

新年の始まりであっても生活のリズムをあまり変えない。ワンコとの散歩に始まりワンコとの散歩に終わる。リズムは一定の速度を保って、一日の流れを生む。まさに音楽用語における「アンダンテ」。どんなときでも歩く速さが重要なのだ。 今年は一般参賀もなく靖国神社への初詣もしばらく行けないかなと思い、近所の第六天様にお詣りしてきた。と言っても前を通り過ぎる際に軽く礼をする程度だったのでご利益などもってのほか。なかなか期待できない。それも何だか僕らしい。 五十歳という年齢のせいかなのかどうか。とかくこだわりなんてものが薄れていっているのも事実だ。昔の僕だったら、ルーティンなどに異常なくらい固執していたはずなのに。良い意味でも悪い意味でも歩く速さを意識するようになってきた。 とは言え今年の目標はいくつか立てた。スタートはいいが、すぐに飽きる性格だけは子供の頃からまったく変化は無い。唯一、ワンコと歩くことだけは身体に染み付いているのか、ひたすら繰り返す毎日。やはり、歩く速さが僕には合っている。 今年はたぶん幕末の歴史について調べることがとても多くなると思う。あとは小説を書くこと。これは既に昨年からスタートしている。もちろんF.C.OITOは重要でサッカーショップ蹴球堂も同様。セレッソ大阪も然り。さて旅にも出られるかな。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP