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第10節 浦和レッズ戦。

駄ブログを毎日書かなくなったからといって時間が作れたか、というとそうでもない。人間は「24時間」をなんとなく過ごしている生き物なのだと改めて気付かされた。とは言え、こんな体たらくは僕だけだろうとも思える。恥ずかしいほどに。 そんななかで何度目だろうかの緊急事態宣言が発出されそうだ。去年の夏に冠婚葬祭で帰阪した以外はまったく帰っていないのだが、人は馴れてしまう生き物でもあるのだ。元来のインドア派の本領が発揮されていると言っても、過言では無い。 さて、浦和レッズ戦である。ここ数試合、勝てていないことに加えて相手は連勝中。スタジアムの入場もかなりの人数制限が行なわれている状況下での厳しいゲームは、なんとか最小得点差で勝つことができた。実に、勝ちに不思議の勝ちあり。 一番気にして見ていたのが西尾選手だった。前の試合(これだけ"節"がぐちゃぐちゃになっていたら、"前節"て呼べないな)のプレイもあったし。まだまだ若いから、という言葉を含め、サポーターの声が選手を勇気付けているのは間違いない。 セレッソ大阪のサポーターだけでなく、各クラブのサポーターの方々は、自分たちの選手を勇気付けることにすべてを賭けている。伝わるか伝わらないかではなく、自分自身がサポーターとして選手にどうしたいのかを本当に考えて動いている。 過去には、選手との関係にギクシャクすることもあるにはあった。今のこの多様性の時代においては、選手たちへのリスペクト、クラブに対してのリスペクト、相手チームへのリスペクト、そして共に戦うサポーターにリスペクト。それが重要。 リスペクトしているサポーターの方々のニュースを見るたびに 選手とサポーター、クラブとサポーターの関係を、今一度見つめ直す時期なのかもしれないな、と思ったりする。人と会えない分、人のことを考える時間が増えた。不思議なほどに。 勝ちには不思議はあるが、負けには理由が存在する。要はその瞬間に気付けるか否か。その点で言えば西尾選手は気付きそしてこの勝利に結びつけた。多くの大人が彼から学んだことだ。関係性には、上下なんてものはそれほど意味を持たない。 リスペクトとはre(再び)とspect(見る)からなる言葉だそうだ。そういう意味だと「尊敬」よりもどちらかと言えば「尊重」に近いらしい。クラブとも選手ともそしてサポーターとも、

第18節 徳島ヴォルティス戦。

個人ひとりひとりの小さなミスによって起こるケースと組織全体の問題によって招き入れるケースの二通りが存在する。明らかな過失はともかくとして、大半は「しくみ」が成り立っていないときにこそ、ヒヤリハットはインシデントに変わる。 ビジネスだろうがサッカーだろうが、どのような組織であっても同様。そういう意味において徳島ヴォルティス戦は、1-2という点差以上にチームとしての「差」がついていたことを実感できる。最後のシーンなどはその「おまけ」かもしれない。 それよりも非常に気になったのは(Clubhouseでも話したのだけれど)オウンゴール後そして試合終了後の静けさだった。もちろんコロナ禍で応援スタイルが限定されているのは致し方ないのだが、「クラップ」オンリーだけでは表現は難しい。 ここ数試合、サポーターの存在が重要であると感じてしまう場面が少なくない。「サポーターの声」そのものが選手のためになっているのか否かの議論はこの先もずっと続くのだろう。だが良くも悪くも「無くてはならない」存在であるはずだ。 そんなことを今、この瞬間に考えている自分がいる。スタジアムに行くのもままならない状況で、現状を早く脱することができれば良いのだが、なかなか。しばらくはクラブの力に頼るしかないのが実情でもある。新たな策を期待して待っている。 そういやヒヤリハットとインシデントの話に戻る。「ハインリッヒの法則」は、ひとつの重大な事故の元には29の軽微な事故があり、その前に300ものヒヤリハットが存在すると言われている。クラブが兆候を見逃さないことを心から祈っている。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第9節 アビスパ福岡戦。

ついに東京も「新型コロナウイルス感染症まん延防止等重点措置」の適用が決まったようだ。大阪を含めすでに始まっている地域もあり、この先どのように変わっていくのか。飲食店を中心に、まだまだ余談を許さない状況は続いていくだろう。 そんなさなか、アジアチャンピオンズリーグの関係もあり試合日程がかなり動いた。セレッソ大阪としてはここからホーム四連戦となる。そのスタートがアビスパ福岡戦。なんとか勝ち点を稼ぎたいと思っていたものの、そうは問屋が卸さない。 率直に「あの頃のセレッソ大阪が戻ってきた」という感覚だけでは収まりきらない。試合の締めかたにサポーターが関与できていたら、もうちょっと違った結末にはなったのだろう。サポーターの声の力はそういう場面で発揮されるものなのだ。 終了間際の失点が多くなっているのも、監督や選手だけの問題ではない。サポーター含めたチームが一体になった試合になっていたなら防げる可能性もある。型にはまったものだけでは片付けられないサポーターの声の力。なにより重要だろう。 勝ち点2を失ったのは間違いない。とは言え二つのゴールは、未来を見せてくれるものとしては上物であったことも間違いない。一人多いからと言って、すべての試合が自分たちに都合良く思い通りに行くわけが無い。あと三試合が見ものである。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第8節 横浜F・マリノス戦。

「昔を思い出すのは歳を取ったせい」だとかよく言われる。色んな出来事を忘却していくのが人間の性ではあるが、なぜだかセレッソ大阪の歴史だけ常に覚えているというのがセレッソファンだ。これは一体どういうことかと時々思ってしまう。 記憶には短期記憶と長期記憶がある。長期記憶は回想記憶、展望記憶という時系列や、宣言、非宣言記憶という分類がされる。特に回想記憶のエピソード記憶、自伝的記憶に、セレッソ大阪があるのだ。まさに「自分ごと」としての記憶なのだ。 スタートメンバーを入れ替えて臨んだ横浜F・マリノス戦は久々の敗戦となった。直接の対戦でも10年ぶりということだったらしい。自分の記憶を辿ってもそんなに長かったのかとも思ってしまう。1990、2000年代を知る身としては少し歯痒い。 どうも、最近の若いサポーターと話しても勝利の記憶しか無いようだ。良き思い出は生活にも良い影響をもたらすとも言うので、それはそれでありなのだが、惨めな敗戦や、やるせない試合なども、時間が経ってみれば素敵な記憶でもあるのだ。 クラハでも話していたのだが、代わって出場した選手たちは充分に戦えていた。そう考えれば今後のことを考えても層が厚くなったと思いたい。それだけでもこの試合の価値がある。実際にそうなるかどうかは、次の試合の結果が決めるだろう。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第7節 サガン鳥栖戦。

このような状況下での金曜日開催が良いか悪いかは僕には分からない。だが土日に差し掛かる前に行なわれるゲームには何かワクワク感というのだろうか、ヨーロッパのリーグのような、多少の気持ちの高ぶりなどかあったりするので不思議だ。 木曜日のClubhouseでも同じような話になり、とは言え観客の入りなどには影響するよね、との結論に落ち着いた。二年前には4万人を集めたこの「金J」。いつまで続くのかという思いもあるのも事実。何事もチャレンジから始まるということ。 そんなフライデーのナイトマッチ。今シーズン無失点を継続していた鳥栖との試合は、なんとか勝利で終えることができた。こういうケースでは大概、相手の記録を更新させてしまう我がクラブだったが、今回ついにこの呪縛から逃れたようだ。 少々ミスもあって難しい展開が多かったものの、勝ち点3を手に入れられたのは嬉しい限りである。しかしながら、ボールを持たれる厳しい試合であったのは事実。選手的には持たせている感があったとも話しているが、それだけでも無さそう。 そういう、少し試合に入り込めない選手をサポートできるのが「サポーター」であり、僕がリードしていたときなどはそこを重視していた。個別のチャントが無かったとしても、声を送り、手拍子で鼓舞する。とても重要なミッションだった。 いま、コロナ禍において、このようなサポートができないなかで、どうアイデンティティを表現するか。この一年はそんな見方を常にしていくのだろうなと考えながらテレビ観戦している。来週のClubhouseで聴いてみようかなとも思っている。 それにしても「金J」だと、週末の使い方が不安になってしまうのは職業病か。三ヶ月ぶりに近くの眼科に行ってきた。検査の結果は良くもなっておらず悪くもなっておらず。まあとにかく、何事も様子を見ていくことが今の僕にできることだな。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第6節 湘南ベルマーレ戦。

その昔、結構な怪我をしたことがあった。順調なときにそういった事態になるとやはり心は折れるし、それ以上に焦りの色が濃くなってしまう。とは言え、どうするわけにもいかず途方に暮れてしまいがちだが、乗り越えてこその人生でもある。 ここのところ雨のなかでの試合が多かったので、体力の面ではかなり心配はしていた。多い少ないに関わらず雨による消耗が大きい。肉体面だけでなく心身ともに厳しい環境にある。そのなかでギリギリの勝負をするのだから、なにかは起こる。 結果的に湘南戦において怪我人が出てしまったわけだが、こればかりはなんとも言えない。この過密日程での頑張りがあって勝ち点を取れたのは、三選手 のおかげでもあるし、またその延長線として二人の日本代表選出も叶ったような気がする。 まずはしっかりと治して戻ってきてくれるのを願っているのだが、それ以上に出場機会を得られた選手たちの活躍に期待する。これにより競争意識がさらに活発化され、チームとしてはより一層強化されていく。そんなことを考えたりしている。 そして、その競争意識を続けていくためにも、ここからの三試合が大切になってくる。代表帰りならもともと出られる予定では無かった次の好調鳥栖戦では、チームの真価を問われる重要な一戦でもある。特に怪我明けの選手たちに期待したい。 さて昨日のClubhouseではゲストも来ていただいたりして、今後のJリーグについて話を聴かせていただいた。ACLのこと、日程変更のこと、みなし開催のことなど、ちょいちょい挟まる裏話にも耳を傾けていると、分かってくることがある。 今までは当たり前のように存在していた「週末サッカーとともに過ごす」という日常。この日常はコロナウイルスが蔓延している現在も、それらが去ったあとの世界でも、常に背中合わせで生きなければならないことを僕らに教えてくれている。 いくらライバルクラブであっても、みなし開催での不戦敗なんて辛すぎる。もし自分たちが同じ立場だったらどう感じるのか。その思いを、Jリーグも分かってくれていることを知れただけでも、昨日のウダウダ話は充実した時間だったと思える。 「結構続いているよね」と最後に言われ、ハッとした。続いている。続けている。発信を続けているのだ。やっぱり、今こそ、今だからこそ続ける意味があるのだと信じ始めてもいる。毎週木曜日の21時。是非とも同じ時間を共有して

日本代表選出雑感。

日本代表選出に盛り上がっている週末。嬉しいことばかりでも無いのが正直な気持ちではあるのだが、それでもナショナルチームの一員としてうちの選手が存在するのは素晴らしい。世界と戦った彼らが、無事にクラブに戻ることを願っている。 水曜日から米国テキサス州オースティンで毎年行われているサウス・バイ・サウス・ウエストに参加している。現状を鑑みて今年はオンライン開催なので、参加が容易ではあるものの、趣きも様変わりしているので少し戸惑っているのが本音だ。 2015年そして2016年とオースティンを訪れて、この世界的イベントを肌に触れ、様々な考えかたが変わったのも事実である。世界と戦うとか偉そうなことは決して言えないものの、日本という枠を飛び越えて感じる風景はまた格別なものがある。 当時はなかなか現地でお会いする方も少なかったが、近年では多くの日本人も参加している。インタラクティブであれ、フィルムであれ、ミュージックであれ、日本の素晴らしさを存分に発揮できるこのSxSWは、何度でも行きたいイベントだ。 そういえばこの前のニュースを見ていて、二回目の参加の際オースティン空港で、前日のイベントに出演されていたPerfumeの御三人にお会いしたのを思い出した。世界ではそのようなサプライズも数多く訪れるもの。これも旅の醍醐味である。 今週のClubhouseでも話題に上がったが、今年はアジアチャンピオンズリーグもある(集中開催にはなるが)。 コロナ禍では時間が比較的余裕がある方しか行けないだろうが、 また多くのファンやサポーターが、世界へと飛び出していくだろう。 アーカイブがあるにも関わらず、リアルに体感したい気持ちが大きいため、深夜にがっつりライブで参加している。しかしながら年齢の壁は越えられない。体調のコントロールに苦慮する今週でもあった。まずは湘南戦に向けて体調を整える。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第5節 大分トリニータ戦。

どのような世界でも「違いを見せる」方が存在して、いつも僕らを驚かしてくれる。仕事でもサッカーでも思ってしまうが、こういう人たちはどういう頭と心臓を持っているのか。僕のような凡人ではおよそ考えも及ばないし、興味が尽きない。 今年2021年のレヴィーセレッソは、事あるごとに前年までのサッカーと比較されてしまう。大分トリニータとの対戦でも同様。ウノゼロかそれとも攻撃力で捩じ伏せにかかるのか。どうでもいいとも思うが、悩ましいがそれでも意識してしまう。 坂元達裕選手のスーペルゴラッソが無ければ厳しい試合でもあった。引いてブロックを作られた相手とのゲームは、やはり「個」の勝負になるのが必定。そのような個人のスキルだけに頼るのも良くないのだが、とかく勝つとはそういうものだ。 さて、内容は僕が語るよりも、いつものように専門家の方々に任せるとして。水曜日の試合が多かったので、なかなかキックオフに追いついていなかった。ようやくミッドウィーク開催から解放されるか、と思ったら、次次節は「金J」なのか。 とは言え、ナショナルマッチデーウィークを挟むので、いま一度スケジュールの調整でもしてみるか。だが、凡人には何をやらせても中途半端なので、また、しくじり先生になりそうな予感もしている。次節勝って、穏やかな二週間を迎えたい。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第4節 横浜FC戦。

「一週間」という唱歌がある。ロシア民謡がベースとなっていて、一週間の仕事についてチュラチュラと描かれている。子供のときにはあまり納得感が無かった歌詞だったが、歳を取るにつれこの歌の意味がなんとなく分かるようになってきた。 そんな「チュラチュラ」な一週間の締めくくりとしての横浜FC戦となった。前々日にいつものウダウダ話、そして前日には横浜FCサポーターにお誘いをいただき、Clubhouseで少し話したのだが、雷雨以外は良くも悪くも予想した通りになった。 ぬかるんだピッチでもあり、思い描いたプランというわけにはいかなかっただろうが、攻撃において「個」の力が存分に出ていた。しかしながらディフェンスは相変わらず。少なくともこの五試合は、感情のアップダウンが激しい観戦でもある。 少なくとも前カノ(前任者)が残してくれたベースに獲得した選手が上手く絡めているのは事実だろうし、そのことには触れる必要も無い。この五試合が肝だと思っていたので、勝ち点9で乗り越えられたことには感謝しか頭には浮かんでこない。 Clubhouseでも話題になったターンオーバーやローテーションも、レヴィーが試合のなかで上手く行なってくれていると考えて良いだろうか。一週間に三試合のペースが持ち込んでくる疲労感を、どのようにいなしていくかも重要になってくる。 「金曜日には糸巻きもせず土曜日はおしゃべりばかり」。ときには休息も必要だ。僕個人はインターバルばかりが目立ってきているのも否めない。予定では3月21日に首都圏の緊急事態宣言解除だ。さあ、糸と麻を買いに行く準備も始めないとな。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第3節 清水エスパルス戦。

人には、触れられたくない痛みが、ひとつくらいはあるものだ。僕が歴史を好きになるきっかけの小説に、そこに触れたら命のやり取りになる、的なニュアンスの文章があったのをふと思い出す。その小説のタイトルがいまいち思い出せないが。 清水エスパルスとのゲームを「前カノ今カノ」対決で括るのはどうかとは思うが、お互いの監督があまり触れてほしくない部分なのだろうなと思いながら見ていた。サッカーだけに限らず戦術は生き物であり、選手が変われば戦いかたも変わる。 試合はそれこそ、プロの方やセミプロの分析官に任せたい。そこでClubhouseでも少し話題にはしたのだが、太鼓について。 セレッソファンの太鼓も聴こえなくはなかったが、 スタジアムでもモニタ越しでも、サンバの音色がかなり響いていた。 僕は常々、 無駄な太鼓ほど不必要なものは無い 思っている。無くても充分に応援をまとめることは可能だ。しかしながらこのコロナ禍では満足な声も出せず、クラップもなかなか合わせる機会が難しい。だから今は太鼓の力を借りる必要がある。 そういう意味では、各クラブの太鼓の方々の苦悩がよく分かる。スタンドで立って応援することもままならない状況で、太鼓の力だけで拍手を統一化させていくのはとても難しいのだろうなと感じる。コールリーダーと太鼓打ちの関係も、然り。 新型コロナウイルスは生活を一変させ、働きかたを一変させ、そして、応援スタイルまでも変えてしまった。セレッソファン、サポーターが一体となって、コールリードのありかた、太鼓がある意味などを議論・対話していくべきだと感じた。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第2節 FC東京戦。

僕が歴史好きなのは既にご承知のとおりだが、その歴史のなかには「勝てば官軍」という言葉が存在する。歴史とは常に勝者側のものの見方であって、敗者の歴史は葬り去られる。しかしながら最近では、それらが覆されるケースも、多々ある。 例えば、好物の明治維新に関しても同様だ。結果的に勝利した薩長を中心とした史観が通説と思われてきたが、ある意味「正しい部分」と「修正が必要な部分」が明確になってきている。だが、見かたは人それぞれで、その人に委ねられている。 今のセレッソ大阪も個人的にはそんな「人それぞれの見かた」がある。クラブの方向性や監督についても、考えかたは変わってくる。僕は否定するつもりもないし、そのような多くの考えが生まれることで、クラブは強くなっていくのだと思う。 前節同様に、最後は底力を見せつけられての逆転負けだが、不思議と結果に対しての不満の感情が生まれてこない。選手はかなり、このチームのために献身的に戦っている。また、それだけではなく、局面局面で素晴らしいプレーも見せていた。 次節がすべてのターニングポイントになり得る。この三試合で昨年の幻影をものの見事に断ち切った感もある。そのサッカーがロティーナの戦術に対してどう立ち向かうのか。第三者的見かたで恐縮だが非常に興味がある。これは偏見ではなく。 ただし、これはなにも、僕が今年のサッカーを認めたことを意味しない。いくら攻撃的チームを全面に出したとしても、前節同様、昨年までだったら起こらなかったような事故的失点(キーパーのは別で)を、とてもじゃないが僕は肯定できない。 最近はClubhouseなどでアウトプットしているので、僕の考えなどは聴いてもらえると幸いだ。そこでは、押し付けなどではなく、多様性を話し合える場づくりが重要だとも感じている。セレッソファン同士はそれができる仲間だと信じている。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第11節 川崎フロンターレ戦。

「頑張って前に進もう」と言い続けていても、進む方向を誤っていたらゴールには辿り着けない。目指すべき場所が正しくなければ、いくらやりかたが素晴らしいものであっても結果はついてこない。いつの日か僕らはそれに気付いてしまった。 その目指すべき場所が昨年と今年では大きく変わった。それは今に始まったわけでもなく、これまでの歴史のなかでもよくあった話。ひとつ違うのは、先ほども書いたが、僕たちは気付いてしまったということだ。それは紛れもない事実なのだ。 今年一年が、そのギャップを感じながら生きることになったのを悲観しているわけではない。物事には理由があり、そして選択がすべて。クラブが選んだ目的地と大半のサポーターが見ている目的地との乖離は、程よい温度感になってしまった。 Clubhouseのウダウダルームでも話したのだが、王者である川崎フロンターレとのアウェイゲームがそれほどの点差にならなかったことにびっくりしている。試合展開から見ても前半後半で変化のあった、非常に不思議な試合のようにも感じた。 終わってみればの当然の結果ではあったものの、選手個人個人にとっては、とても重要なレッスンであったように思えた。特に若いセッターバックのふたりには酷のようでもある川崎の強烈なアタックに対峙するだけでも学びの場になったはず。 ウダウダルームで、もしスタジアムにセレッソサポーターがいたら少しくらいは空気を変えられたかもしれない、と喋ったけれども、少なくとも二度の同点の場面では選手たちに勇気を届けることはできただろう。早くスタジアムに戻りたいね。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第1節 柏レイソル戦。

花粉症との戦いのなか、なんとか一ヶ月以内にはと思っていた書き起こし「 CEREBAKA EPISODE3 」が完了し、公開にこぎつけることができた先週末。多くの方の共感をいただいたことで、実現できて本当に良かったな、とつくづく感じる。 改めての「育成のセレッソ」と銘打って始まった2021年。思うところも多々ありながら、二人の会話をテキストにしていて感じたのは、クラブを生かすも殺すもサポーターの存在なのだなということだった。それを再認識できた喜びが今、ある。 人を育てるという行為はとても難しい。機械にプログラムを追加して、思い通りに動かすというわけにはいかない。教わる側も教える側も、そこには「心」というものがあるから。歳を取り、暇ができ、時間ができたからこそ、大事な要素だ。 開幕戦の柏レイソル戦は、結果こそ満足いく終わりかただった。しかしながら要所要所においてこの先のゲームで良い面と悪い面に出るだろうなと思える、いくつかのシーンも見てとれた。相手が10人になったことで、良い訓練にはなっていた。 もちろん勝利は一番のモチベーションにもなりえるし、特に若いセッターバックの二人の落ち着きは目を見張るものがあった。CEREBAKAで話してきた、サポーター側から見る育成の姿を意識していくことは、監督が誰であろうと同じでもある。 目の前の一瞬も大事。しかしながら一瞬の出来事だけに目を奪われることなく、僕らは次のステージへと向かう必要はある。僕も、もっともっとセレッソ馬鹿な方々と語り合って、そして、多くのセレッソファンに伝えないといけないのだろう。 そしてセレッソ大阪としてクラブの在りかたを認めさせるには、大久保嘉人選手の200という数字をなんとか成し遂げること。 YOSHI METERを前人未到の域にたどり着かせる、 そのためには多分僕らの役目も重大かもしれない。未来のために。 十代のヨシト、二十代のヨシトそして三十代のヨシトを知る人が先頭に立って、という必要性を改めて知った。たかだか15年、いや加入から言えば20年という距離は、1ゴールによって「ほんの一瞬」に変わったはず。さて、ここからである。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

多くの「声」を纏める。

セレッソ大阪の、というかJリーグの開幕まであと一週間となったこの週末。季節特有の症状と戦いながら(とは言え去年とは雲泥の差)先週から始めたClubhouseのなかでも話したのだが、多くの期待と不安が入り混じる、そんな時期でもある。 このClubhouseでは現コールリーダー、前コールリーダーおよび不肖僕との三人でウダウダ語っている。コールリーダーは一体何を考えていて、どう動いているのか。大半の方にはそもそも「どうでもいい」内容をウダウダ話す一時間でもある。 それでも、このJリーグというスモールワールドにおいて、多くのサポーターを鼓舞し、もう一方の側から試合を作り、チームを勝利へと導くために身体を張り続ける。そんな姿に憧れる方々に向けて少しでも何かを残していければと思っている。 そのようなコールリーダーにとってのこの一週間は、選手たち同様、非常に重要であり、この一年間のサポートをどのように進めていくかを熟考する時間だ。しかしながらコロナ禍の2021年は、コールリーダーにとっても厳しいという話があった。 キャンプを見に行けない。当然のことながら「声」を出しての応援もできない。できることが限定されたなかでコールリーダーがどのように生活しているのか、本当に興味が尽きない。純粋に僕が聴きたい。そこから旅路は始まったようなものだ。 サポーターの世界はまさに社会の縮図のようでもある。クラブを応援するという利害関係のうえに成り立っているこのワールド。チームのために多くの「声」を纏めるこのコールリーダーという役割。人としての成長をももたらすと改めて知る。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

「石」を投げ合うのか。「意志」を投げ合うのか。それとも「意思」なのか。

先日、アルゼンチン代表のウェアを着込んで、映画「ディエゴ・マラドーナ 二つの顔」を鑑賞してきた。俗に言う"格好から入るタイプ"では無いのはご存知のとおりだが、なぜだか気持ちのスイッチを入れなければ、と思い立ってしまったのだ。 もちろんのこと映画館のスタッフさんはすぐに気付き、どの映画を見るのか一目瞭然のような面持ちで誘導される。この「見た目」は、人に自分自身の印象を植え付ける、かなり重要なファクターでもある。その頭上に言葉という存在が、ある。 人間が、人として、他者と合意点を見つける旅。言葉とともに人間は何万年も生きてきた(どうもCMぽくなったが)。しかしながら、どこまで行ったとしても飽きもせず、この言葉によって争いは起こり続ける。賢すぎるせいなのか、それとも。 少なくとも批判だけを振りかざしていては引けないところまで行かなければならないし、そうなったところで一向に解決しない可能性もある。例のあの問題にレゴ®︎シリアスプレイ®︎を持ち込みたいと考えたファシリテーターは少なく無いはずだ。 アルベルト・アインシュタインの「 第三次世界大戦ではどうなるか分らないが、第四次世界大戦では、人間は多分、石を持って投げ合うのだろう 」という言葉がなぜかリフレインする。この名言には様々な意味合いが込められており、実に、深い。 戦うための道具が、石しか残っていないほど草木も生えない状況なのか。それとも、言葉の延長線上のメタファーとしての存在なのか(石打の刑というものも世の中にはあるにはある)。すべては言葉の行き着く先にあり、そして人は選択する。 「石」を投げ合うのか。「意志」を投げ合うのか。それとも「意思」なのか。日本語は同じ音でいくつもの解釈が生まれる。実に素敵な言語だと僕は思う。故にこの日本語には数多くの誤解も生まれやすく、また、数多くの責任も伴うことになる。 話は戻るが「ディエゴ・マラドーナ 二つの顔」を見て感じたのは、やはり愛すべきキャラクターなのだということ。光と闇、表と裏。完璧な人間など誰一人としてこの世にはいない。人には誰しも二つの顔がある。だから合意が重要なのだろう。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

こだわらない。こだわる。

随分とこだわりが減ってきた。若い頃なら考えられないほどの何でもあり感でもある。着るものも食べるものが毎日同じライフスタイルもそれほど悪くない。日常とはそれはそれでいい気もしているが、やはり刺激というか変化は欲しくなる。 大半の大人としてはウィークデーには仕事を勤しみ、そして週末には自分自身を取り戻す。もちろん、この週末の楽しみかたは人それぞれではあるが、日常とは、まるで川の水のように澱みなく流れているものだ。まるで一週間の歌のようだ。 だが本質は違う。いまこの瞬間に起こったことが同じように明日もやってくるかどうかは分からない。だからこそ一瞬一瞬を大事に生きなければという思いに駆られ、歳を取れば取るほど時間とのトレードオフを迫られる、そんな生き物である。 宮崎キャンプの様子が耳と目に入ってくる。選手は毎年のように入れ替わるものであり、この時期の調整は毎年のようにやってくる。企業で言うところの人事異動同様に、その毎年が必ず同じであるわけがない。特に今年はそんな思いが大きい。 そんななかでも、アカデミー出身の選手たちが活躍している記事を非常に見ると嬉しくなる。ちょうど先週収録した CEREBAKA で「クラブにおけるアカデミーの重要性」を話し合ったこともあり、自身の感情はより高まっている気もしている。 それにしてもこの第三節 EPISODE3 の内容は、すべてのセレッソファンがこの先も意識していかなくてはならないな、と改めて感じた。毎年のように行なわれてきた昇格の例の件も然り。一年は流れるが、その流れは決して一定ではないのだ。 こだわりの意識が限りなく低い僕がいうのも何だが、やはり我がクラブはアカデミーにはこだわったほうがいい。今朝、南野拓実のセインツでの (本当に素晴らしい) ゴールを見た。これこそ、こだわってきたアカデミーのDNAがなせる技だ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

綾。

もうすぐ二月である。新しい一年のスタートと思っていた矢先、既に一ヶ月が経過していることに驚愕する。時が経つのは実に早い。特に、齢五十を超えてからというもの、一日一日を大事にしなければと感じてしまう。そんな、毎日でもある。 セレッソ大阪が始動して結構経っているものの、まだまだモヤモヤが多発しているファン、サポーターも少なからずいる。そんなさなかによく分からない、例のあの問題などが起こり、ますます頭が混乱してくる気がするのは気のせいだろうか。 「言葉の綾」などに代表されるとおり、言葉というものは本当に難しい。書く言葉、話す言葉。それだけではなく、人と人とが交わると、そこには無数の「綾」が現れてくる。人間に色や形や考え方があるように、綾にも様々な形状が存在する。 クラブと選手の綾、選手とサポーターの綾そしてクラブとサポーターの綾。そのすべてにおいての綾もまったく違った容姿であろうし、意味合いも変わってくる。何だか文章がおよそ哲学的な様相になってきてしまったのでブレーキをかけよう。 話は変わるが最近「社会学史」という書籍を読了した。人の社会との関わりにはすでに綾が存在しており、理解できること理解できないことがからまり合っていることを知る。併せて昨年末に二ヶ月ほど心理学を学んでみて、感じるものがある。 まあまあ暗い話も多く、2021年シーズンがどうなることかと思案してしまうのだが、希望が見える話題もチラホラ現れてくる今日この頃。本日久々に「 CEREBAKA 」今回は第三節の収録だ。少々、いや、かなり停滞しており大変申し訳ない思い。 この「 CEREBAKA 」も本来ならば F.C.OITO で語り合いたいと思っているが、まだまだリモートを余儀なくされている。だが、なんとか人と人の交わりというセレッソ大阪サポーター同士の「綾」を記録していく。本当に本当に大事な時間なのだ。 辞書で調べたりすると「綾」は「文」とも置き換えられることがある。やはり「綾」を追い求める僕が「文」をも追い求めるのはまさに必然と言える。言葉や文章の意味と価値を改めて高めていく。テキストの重要性を更に意識していこうと思う。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

文章や言葉が「行動」を促すとしたら、僕には何ができるだろうか。

コロナ禍で人の心が傷んでいる。態度や姿勢、そして、言葉にも傷みが多く含まれているようにも思える。だが、こんなときでも、人に優しく寄り添う、勇気を与え合う日常があるからこそ、人間は生きていくことができるのだ、と僕は思う。 少し前の話なのと、僕の好きな幕末明治の話であることをご容赦いただきたい。薩摩藩士の五代友厚を描いた映画「天外者」。このなかでの、今は亡き三浦春馬さん演じる五代が最後に語る言葉。まさに人々に多くの勇気を与える演説に見えた。 幕末明治を語り出すと止まらなくなるが、この五代友厚。大阪の経済のために尽力した偉大な人物であり、そしてその裏では多くの謎も秘めている人物だと僕は見ている。50歳を迎えることなく亡くなったが、まさに波瀾万丈とも言える人生だ。 たったひとりの力でどうにかなるわけでは無い。日本全国の経済が循環しない今も、多くの方のご苦労とご尽力によって、なんとか耐えに耐えている。こんなときだからこそ、言葉や文章の持つ力は、人が勇気を持つための源になるのだろう。 さて、ある研修に参加した。研修の主な内容とは「文章の書き方」。何だか当たり前のように復習的意味合いでいたものの、改めての学び直しでは多くの気づきを得ることもできた。そのなかのひとつが「その文章の持つ目的は何か」だった。 要は、文章は「読ませる」ために書くのではなく「行動させる」ために書くのだということ。勘違いしていたわけでもないのだが、どうしても読んでもらうためにはどうするかばかりに目が行ってしまいがちだ。僕もそのひとりなのだと感じた。 セレッソ大阪が先日、監督スタッフおよび新加入選手の記者会見を行なった。レヴィー・クルピ監督以下ひとりひとりの言葉を耳にする。もちろん弁が立つ選手もいればそうでない選手もいる。当たり前でもあり仕方のないところかもしれない。 人を「行動させる」文章そしてそこに含まれる言葉というものには計り知れない力がある。特に外国人監督の持つ独特の世界観と言い回しは、選手たちの心や身体を動かすパワーの源泉があるようにも思える。個人としても見習うべきところだ。 思えばこの駄ブログも、様々なプラットフォームを巡り巡って、もうかれこれ20年以上書き続けている。どれだけのサポーターの「行動」に影響があったかなど考えて書いてもいないので知る由もないが、少なくとも自分の意識だけは変わった。 暴走

ハチがない世界とはどういうことか。

個人的な理由で申し訳ない。 それなりに悪い成績でもなかったのだが、 勉強自体は好きとは言えなかった。特に、 算数や数学というジャンルにおいてはやや苦手に思っていた節もあ る。大人になってようやく、数字の面白さに気づいた気もする。 先日少し話題になっていた この記事 を改めて読み返してみた。 特定の数だけを抜いた  0から9までの数字を並べる。その数字に対していろんな数字をかけることによって、様々な「化学反応」を起こすというもの。読んでいると実にワクワクする。 「奇跡」と呼ぶのが相応しいかどうかは凡人の僕には到底分からないが、この数字が存在しないだけでこんなにも不思議なリアクションが起こることに感動する。存在しないことを証明するのと、存在することを証明するのは、共に難解である。 では、そのワクワクを引き起こす数字とはいったい何番なのかということだ。セレッソ大阪ファンの方ならば間違いなく「あー。またこいつ言ってるよ」とのため息が出ているものと思われる。その数字とは紛れもなく、そして、幻影のようだ。 ちょうど一年前くらいから始めたF.C.OITOのプロジェクト。このようなコロナ禍であっても多くのお客様が来てくださり、魔法のような時間を味わってもらっている。いくら同じ番号とは言っても、もちろん僕らは魔法を使うことなどできない。 いつからこの番号は、魔法使いのような位置付けになってしまったのだろう。長い長い歴史を思い出しながらそんなことを思いつつも、当然、世代にもよるのだろう、とか頭の中を巡らせている。この記事を見て率直に感じたのはまさにそれだ。 1997年シーズンに固定番号制が始まり、そこでさもアイデンティティの一種になってしまった。そこから11年後にこの番号は「引き継ぎ式」が行なわれることになる。偉大かどうかはさておき、クラブにしてみれば立派なステータスなのである。 時を戻す(漫才ではない)。あの日、常に自然体でそこにあったはずの番号が、特別な存在に変わってしまった。0でも1でも2でも3でも4でも5でも6でも7でも9でもない存在に変わってしまったのだ。僕は思う。そうしたのは紛れもなく僕らだ。 「おはちがまわってくる」という言葉がいま適切かどうかは分からないが、僕らは改めてこの番号の存在意義と価値を考える必要があると感じる。そういう意味でもF.C.OITOと命名したことは本

選手生活の最後をセレッソ大阪で。

年末年始連休明けはやはり身体に良くない。良くない上にセレッソ大阪の契約更改、新加入、復帰、移籍などのニュースが五月雨式に降り注いできて余計に神経がすり減っていく。齢五十の身体に心底悪く、ましてや緊急事態宣言下でもある。 監督人事に納得したわけではないものの2021年シーズンはすでに始まっており、このような状況だとしても来月にはJリーグが開幕する。選手の採り方云々は僕のような素人に分かる由もないので触れはしないが、ただひとりだけ言っておきたい。 大久保嘉人選手がセレッソ大阪に復帰した。2006年シーズン以来だと聞いて、もうそんなになるのかと、思ったりもする。「選手生活の最後をセレッソ大阪で終えたい」という言葉はリップサービスだとしても、これ以上のプレゼントは、無い。 思い出せば2000年。もう耳にタコができるくらいの状況かもしれないあの5月27日が起こった年。舞洲の練習場でセレッソ大阪とアビスパ福岡のサテライトの試合。そこで僕らサポーターは、まだ進路か決まっていなかった大久保選手を勧誘した。 何とかしてセレッソ大阪に来て欲しい。その一途な思いを高校三年生にぶつけるのは、今となっては大人気ないなと思ってしまう。だが、あの頃は本当に、本気で選手たちと向き合っていたと感じるし、クラブという存在が僕らを動かしていた。 受け取ってくれたREALマフラーは今でも持っているのだろうか、なんてことは正直どうでもいいことだが、セレッソ大阪に戻ってきてくれた事実に感謝している。クラブに入る前から色んな出来事に巡り合う、そんな時代だったのかもしれない。 サポーターに選手を動かす力などあるわけは無いのだが、クラブを愛する強い気持ちを伝えることで、思いもしない何かが動き出すことだって十分ありえる。大久保嘉人選手加入のニュースを見ていてのこの流れ。やはり歳を取り過ぎたようだ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

アンダンテ。

新年の始まりであっても生活のリズムをあまり変えない。ワンコとの散歩に始まりワンコとの散歩に終わる。リズムは一定の速度を保って、一日の流れを生む。まさに音楽用語における「アンダンテ」。どんなときでも歩く速さが重要なのだ。 今年は一般参賀もなく靖国神社への初詣もしばらく行けないかなと思い、近所の第六天様にお詣りしてきた。と言っても前を通り過ぎる際に軽く礼をする程度だったのでご利益などもってのほか。なかなか期待できない。それも何だか僕らしい。 五十歳という年齢のせいかなのかどうか。とかくこだわりなんてものが薄れていっているのも事実だ。昔の僕だったら、ルーティンなどに異常なくらい固執していたはずなのに。良い意味でも悪い意味でも歩く速さを意識するようになってきた。 とは言え今年の目標はいくつか立てた。スタートはいいが、すぐに飽きる性格だけは子供の頃からまったく変化は無い。唯一、ワンコと歩くことだけは身体に染み付いているのか、ひたすら繰り返す毎日。やはり、歩く速さが僕には合っている。 今年はたぶん幕末の歴史について調べることがとても多くなると思う。あとは小説を書くこと。これは既に昨年からスタートしている。もちろんF.C.OITOは重要でサッカーショップ蹴球堂も同様。セレッソ大阪も然り。さて旅にも出られるかな。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP