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第15節 サンフレッチェ広島戦。

今日で長居スタジアムとしばしのお別れとなる。どの試合が思い出に残っているかと問われたところですべてが過去であり、常に未来を見据えていたいと言ったら、綺麗事だと言われるだろうか。共に過ごした日々はまさに「悲喜交交」だった。

クラブにおけるサポーターの存在は、偉大だ。どんなことがあろうとも惜しみなくクラブを愛し続け、ときには叱咤激励し、ともに笑い、ともに泣く。クラブが過ちを犯したとしても、繰り返し繰り返し裏切られたとしても、愛は、止めどない。

だから、長居スタジアムで起こった数々の出来事は、質量ともに自分自身への影響がとてつもなく大きい。そしてそれは、サポーターだからこそであり、人生の生活の大半を捧げているからこそ、そのような、多くの感情で溢れ返っているのだ。

その記念の試合でもある広島戦。ほぼほぼ見せ場などなく逆転負けという結果だけが目の前に残った。基本的にこのような記念マッチ的な試合で勝った場面を思い出すことができない。大概見てきてそうなのだから、多分、勝ってはいないはず。

まあそんなメモリアルはともかく、ここ数試合を見ているだけで、二十数年蓄積されてきたストレスと同様の何かを身体の中に溜めつつある。そのストレスがじわじわと全体に染み渡り、最後にはどうしようもない状況に陥りそうな、あれだ。

正直なところ、ここ数年ではあまり感じなかったし、開幕当時もそれこそ若いセンターバックを盛り立てる気持ちのほうが大きかったのでなんとかクリアできていた。しかしながら今は、勝てない勝ちきれない以上のもどかしさを抱えてしまう。

いつも書くことだが、サポーターがスタジアムにいたなら、少なくとも意味不明な失点をいくつかは防ぐ手伝いはできただろうし、90分間戦い続ける闘志を送ることは可能だっただろう。ジャッジよりもリモートマッチに不公平感を強く感じる。

とは言え、勝利から遠ざかっていることに変わりはない。1990年代、2000年代は「三歩進んで二歩下がる(いや四歩も五歩も、のときもあったかな)」の人生だったのを決して忘れてはいない。現代の、幸せな時代だからこその悩みでもある。

何度も書くが、長居スタジアムにおけるサポーターの力は偉大だった。たとえクラップだけだったとしても、選手に伝えられない辛さを、今サポーターは経験し、クラブはその力を評価できなかったのだろう。それほど、僕らは、強くないのだ。

この厳しい2021年シーズン。監督が代わっても、チームのコンセプトが変わっても、サポーターの力が加われば勝てる、とでも踏んでいたのか。しばらくはそのパワーがスタジアムでは手に入れられない。そうなると、打つ手はひとつしかない。

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