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多くの「声」を纏める。

セレッソ大阪の、というかJリーグの開幕まであと一週間となったこの週末。季節特有の症状と戦いながら(とは言え去年とは雲泥の差)先週から始めたClubhouseのなかでも話したのだが、多くの期待と不安が入り混じる、そんな時期でもある。 このClubhouseでは現コールリーダー、前コールリーダーおよび不肖僕との三人でウダウダ語っている。コールリーダーは一体何を考えていて、どう動いているのか。大半の方にはそもそも「どうでもいい」内容をウダウダ話す一時間でもある。 それでも、このJリーグというスモールワールドにおいて、多くのサポーターを鼓舞し、もう一方の側から試合を作り、チームを勝利へと導くために身体を張り続ける。そんな姿に憧れる方々に向けて少しでも何かを残していければと思っている。 そのようなコールリーダーにとってのこの一週間は、選手たち同様、非常に重要であり、この一年間のサポートをどのように進めていくかを熟考する時間だ。しかしながらコロナ禍の2021年は、コールリーダーにとっても厳しいという話があった。 キャンプを見に行けない。当然のことながら「声」を出しての応援もできない。できることが限定されたなかでコールリーダーがどのように生活しているのか、本当に興味が尽きない。純粋に僕が聴きたい。そこから旅路は始まったようなものだ。 サポーターの世界はまさに社会の縮図のようでもある。クラブを応援するという利害関係のうえに成り立っているこのワールド。チームのために多くの「声」を纏めるこのコールリーダーという役割。人としての成長をももたらすと改めて知る。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP
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「石」を投げ合うのか。「意志」を投げ合うのか。それとも「意思」なのか。

先日、アルゼンチン代表のウェアを着込んで、映画「ディエゴ・マラドーナ 二つの顔」を鑑賞してきた。俗に言う"格好から入るタイプ"では無いのはご存知のとおりだが、なぜだか気持ちのスイッチを入れなければ、と思い立ってしまったのだ。 もちろんのこと映画館のスタッフさんはすぐに気付き、どの映画を見るのか一目瞭然のような面持ちで誘導される。この「見た目」は、人に自分自身の印象を植え付ける、かなり重要なファクターでもある。その頭上に言葉という存在が、ある。 人間が、人として、他者と合意点を見つける旅。言葉とともに人間は何万年も生きてきた(どうもCMぽくなったが)。しかしながら、どこまで行ったとしても飽きもせず、この言葉によって争いは起こり続ける。賢すぎるせいなのか、それとも。 少なくとも批判だけを振りかざしていては引けないところまで行かなければならないし、そうなったところで一向に解決しない可能性もある。例のあの問題にレゴ®︎シリアスプレイ®︎を持ち込みたいと考えたファシリテーターは少なく無いはずだ。 アルベルト・アインシュタインの「 第三次世界大戦ではどうなるか分らないが、第四次世界大戦では、人間は多分、石を持って投げ合うのだろう 」という言葉がなぜかリフレインする。この名言には様々な意味合いが込められており、実に、深い。 戦うための道具が、石しか残っていないほど草木も生えない状況なのか。それとも、言葉の延長線上のメタファーとしての存在なのか(石打の刑というものも世の中にはあるにはある)。すべては言葉の行き着く先にあり、そして人は選択する。 「石」を投げ合うのか。「意志」を投げ合うのか。それとも「意思」なのか。日本語は同じ音でいくつもの解釈が生まれる。実に素敵な言語だと僕は思う。故にこの日本語には数多くの誤解も生まれやすく、また、数多くの責任も伴うことになる。 話は戻るが「ディエゴ・マラドーナ 二つの顔」を見て感じたのは、やはり愛すべきキャラクターなのだということ。光と闇、表と裏。完璧な人間など誰一人としてこの世にはいない。人には誰しも二つの顔がある。だから合意が重要なのだろう。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

こだわらない。こだわる。

随分とこだわりが減ってきた。若い頃なら考えられないほどの何でもあり感でもある。着るものも食べるものが毎日同じライフスタイルもそれほど悪くない。日常とはそれはそれでいい気もしているが、やはり刺激というか変化は欲しくなる。 大半の大人としてはウィークデーには仕事を勤しみ、そして週末には自分自身を取り戻す。もちろん、この週末の楽しみかたは人それぞれではあるが、日常とは、まるで川の水のように澱みなく流れているものだ。まるで一週間の歌のようだ。 だが本質は違う。いまこの瞬間に起こったことが同じように明日もやってくるかどうかは分からない。だからこそ一瞬一瞬を大事に生きなければという思いに駆られ、歳を取れば取るほど時間とのトレードオフを迫られる、そんな生き物である。 宮崎キャンプの様子が耳と目に入ってくる。選手は毎年のように入れ替わるものであり、この時期の調整は毎年のようにやってくる。企業で言うところの人事異動同様に、その毎年が必ず同じであるわけがない。特に今年はそんな思いが大きい。 そんななかでも、アカデミー出身の選手たちが活躍している記事を非常に見ると嬉しくなる。ちょうど先週収録した CEREBAKA で「クラブにおけるアカデミーの重要性」を話し合ったこともあり、自身の感情はより高まっている気もしている。 それにしてもこの第三節 EPISODE3 の内容は、すべてのセレッソファンがこの先も意識していかなくてはならないな、と改めて感じた。毎年のように行なわれてきた昇格の例の件も然り。一年は流れるが、その流れは決して一定ではないのだ。 こだわりの意識が限りなく低い僕がいうのも何だが、やはり我がクラブはアカデミーにはこだわったほうがいい。今朝、南野拓実のセインツでの (本当に素晴らしい) ゴールを見た。これこそ、こだわってきたアカデミーのDNAがなせる技だ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

綾。

もうすぐ二月である。新しい一年のスタートと思っていた矢先、既に一ヶ月が経過していることに驚愕する。時が経つのは実に早い。特に、齢五十を超えてからというもの、一日一日を大事にしなければと感じてしまう。そんな、毎日でもある。 セレッソ大阪が始動して結構経っているものの、まだまだモヤモヤが多発しているファン、サポーターも少なからずいる。そんなさなかによく分からない、例のあの問題などが起こり、ますます頭が混乱してくる気がするのは気のせいだろうか。 「言葉の綾」などに代表されるとおり、言葉というものは本当に難しい。書く言葉、話す言葉。それだけではなく、人と人とが交わると、そこには無数の「綾」が現れてくる。人間に色や形や考え方があるように、綾にも様々な形状が存在する。 クラブと選手の綾、選手とサポーターの綾そしてクラブとサポーターの綾。そのすべてにおいての綾もまったく違った容姿であろうし、意味合いも変わってくる。何だか文章がおよそ哲学的な様相になってきてしまったのでブレーキをかけよう。 話は変わるが最近「社会学史」という書籍を読了した。人の社会との関わりにはすでに綾が存在しており、理解できること理解できないことがからまり合っていることを知る。併せて昨年末に二ヶ月ほど心理学を学んでみて、感じるものがある。 まあまあ暗い話も多く、2021年シーズンがどうなることかと思案してしまうのだが、希望が見える話題もチラホラ現れてくる今日この頃。本日久々に「 CEREBAKA 」今回は第三節の収録だ。少々、いや、かなり停滞しており大変申し訳ない思い。 この「 CEREBAKA 」も本来ならば F.C.OITO で語り合いたいと思っているが、まだまだリモートを余儀なくされている。だが、なんとか人と人の交わりというセレッソ大阪サポーター同士の「綾」を記録していく。本当に本当に大事な時間なのだ。 辞書で調べたりすると「綾」は「文」とも置き換えられることがある。やはり「綾」を追い求める僕が「文」をも追い求めるのはまさに必然と言える。言葉や文章の意味と価値を改めて高めていく。テキストの重要性を更に意識していこうと思う。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

文章や言葉が「行動」を促すとしたら、僕には何ができるだろうか。

コロナ禍で人の心が傷んでいる。態度や姿勢、そして、言葉にも傷みが多く含まれているようにも思える。だが、こんなときでも、人に優しく寄り添う、勇気を与え合う日常があるからこそ、人間は生きていくことができるのだ、と僕は思う。 少し前の話なのと、僕の好きな幕末明治の話であることをご容赦いただきたい。薩摩藩士の五代友厚を描いた映画「天外者」。このなかでの、今は亡き三浦春馬さん演じる五代が最後に語る言葉。まさに人々に多くの勇気を与える演説に見えた。 幕末明治を語り出すと止まらなくなるが、この五代友厚。大阪の経済のために尽力した偉大な人物であり、そしてその裏では多くの謎も秘めている人物だと僕は見ている。50歳を迎えることなく亡くなったが、まさに波瀾万丈とも言える人生だ。 たったひとりの力でどうにかなるわけでは無い。日本全国の経済が循環しない今も、多くの方のご苦労とご尽力によって、なんとか耐えに耐えている。こんなときだからこそ、言葉や文章の持つ力は、人が勇気を持つための源になるのだろう。 さて、ある研修に参加した。研修の主な内容とは「文章の書き方」。何だか当たり前のように復習的意味合いでいたものの、改めての学び直しでは多くの気づきを得ることもできた。そのなかのひとつが「その文章の持つ目的は何か」だった。 要は、文章は「読ませる」ために書くのではなく「行動させる」ために書くのだということ。勘違いしていたわけでもないのだが、どうしても読んでもらうためにはどうするかばかりに目が行ってしまいがちだ。僕もそのひとりなのだと感じた。 セレッソ大阪が先日、監督スタッフおよび新加入選手の記者会見を行なった。レヴィー・クルピ監督以下ひとりひとりの言葉を耳にする。もちろん弁が立つ選手もいればそうでない選手もいる。当たり前でもあり仕方のないところかもしれない。 人を「行動させる」文章そしてそこに含まれる言葉というものには計り知れない力がある。特に外国人監督の持つ独特の世界観と言い回しは、選手たちの心や身体を動かすパワーの源泉があるようにも思える。個人としても見習うべきところだ。 思えばこの駄ブログも、様々なプラットフォームを巡り巡って、もうかれこれ20年以上書き続けている。どれだけのサポーターの「行動」に影響があったかなど考えて書いてもいないので知る由もないが、少なくとも自分の意識だけは変わった。 暴走

ハチがない世界とはどういうことか。

個人的な理由で申し訳ない。 それなりに悪い成績でもなかったのだが、 勉強自体は好きとは言えなかった。特に、 算数や数学というジャンルにおいてはやや苦手に思っていた節もあ る。大人になってようやく、数字の面白さに気づいた気もする。 先日少し話題になっていた この記事 を改めて読み返してみた。 特定の数だけを抜いた  0から9までの数字を並べる。その数字に対していろんな数字をかけることによって、様々な「化学反応」を起こすというもの。読んでいると実にワクワクする。 「奇跡」と呼ぶのが相応しいかどうかは凡人の僕には到底分からないが、この数字が存在しないだけでこんなにも不思議なリアクションが起こることに感動する。存在しないことを証明するのと、存在することを証明するのは、共に難解である。 では、そのワクワクを引き起こす数字とはいったい何番なのかということだ。セレッソ大阪ファンの方ならば間違いなく「あー。またこいつ言ってるよ」とのため息が出ているものと思われる。その数字とは紛れもなく、そして、幻影のようだ。 ちょうど一年前くらいから始めたF.C.OITOのプロジェクト。このようなコロナ禍であっても多くのお客様が来てくださり、魔法のような時間を味わってもらっている。いくら同じ番号とは言っても、もちろん僕らは魔法を使うことなどできない。 いつからこの番号は、魔法使いのような位置付けになってしまったのだろう。長い長い歴史を思い出しながらそんなことを思いつつも、当然、世代にもよるのだろう、とか頭の中を巡らせている。この記事を見て率直に感じたのはまさにそれだ。 1997年シーズンに固定番号制が始まり、そこでさもアイデンティティの一種になってしまった。そこから11年後にこの番号は「引き継ぎ式」が行なわれることになる。偉大かどうかはさておき、クラブにしてみれば立派なステータスなのである。 時を戻す(漫才ではない)。あの日、常に自然体でそこにあったはずの番号が、特別な存在に変わってしまった。0でも1でも2でも3でも4でも5でも6でも7でも9でもない存在に変わってしまったのだ。僕は思う。そうしたのは紛れもなく僕らだ。 「おはちがまわってくる」という言葉がいま適切かどうかは分からないが、僕らは改めてこの番号の存在意義と価値を考える必要があると感じる。そういう意味でもF.C.OITOと命名したことは本

選手生活の最後をセレッソ大阪で。

年末年始連休明けはやはり身体に良くない。良くない上にセレッソ大阪の契約更改、新加入、復帰、移籍などのニュースが五月雨式に降り注いできて余計に神経がすり減っていく。齢五十の身体に心底悪く、ましてや緊急事態宣言下でもある。 監督人事に納得したわけではないものの2021年シーズンはすでに始まっており、このような状況だとしても来月にはJリーグが開幕する。選手の採り方云々は僕のような素人に分かる由もないので触れはしないが、ただひとりだけ言っておきたい。 大久保嘉人選手がセレッソ大阪に復帰した。2006年シーズン以来だと聞いて、もうそんなになるのかと、思ったりもする。「選手生活の最後をセレッソ大阪で終えたい」という言葉はリップサービスだとしても、これ以上のプレゼントは、無い。 思い出せば2000年。もう耳にタコができるくらいの状況かもしれないあの5月27日が起こった年。舞洲の練習場でセレッソ大阪とアビスパ福岡のサテライトの試合。そこで僕らサポーターは、まだ進路か決まっていなかった大久保選手を勧誘した。 何とかしてセレッソ大阪に来て欲しい。その一途な思いを高校三年生にぶつけるのは、今となっては大人気ないなと思ってしまう。だが、あの頃は本当に、本気で選手たちと向き合っていたと感じるし、クラブという存在が僕らを動かしていた。 受け取ってくれたREALマフラーは今でも持っているのだろうか、なんてことは正直どうでもいいことだが、セレッソ大阪に戻ってきてくれた事実に感謝している。クラブに入る前から色んな出来事に巡り合う、そんな時代だったのかもしれない。 サポーターに選手を動かす力などあるわけは無いのだが、クラブを愛する強い気持ちを伝えることで、思いもしない何かが動き出すことだって十分ありえる。大久保嘉人選手加入のニュースを見ていてのこの流れ。やはり歳を取り過ぎたようだ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP