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インタビュー。

セレッソ大阪に関わる人とは、どんな形であってもアミーゴになれる。なぜなのか。それは利害関係がただセレッソ大阪だけだからかもしれない。余計なことに囚われず、ただひたすら「セレッソ愛」を持って接していくのが、アミーゴなのだ。
そんなアミーゴからの依頼で、昨日あるインタビューを受けた。いつもブログなどでも話しているような内容だったが、改めて自分のなかでも整理できることがあった。やはり言葉にするのは学びにもなる。とても素晴らしい時間だったと思う。
長居スタジアムで観戦する意義。長居スタジアムで観戦する価値。なかなか素敵な質問だ。素敵な言葉は見つからなかったので自分自身が思っていることをそのまま伝えた。僕の、この頼りないお粗末な回答が、役に立ってくれれば幸いである。
「もしセレッソ大阪が無くなってしまったらどんな気持ちになるのか」を深く考えさせられた。未来永劫に続くものなど何も無いだろうが、いつも想定しておかなければならない。ただ、サードプレイスがなくなる気持ちは何物にも変えがたい。
何だか、アミーゴと過ごす日々を大事にしなければという気持ちがさらに大きくなった。これは大袈裟でも何でもなく「人生にセレッソ大阪が含まれている」のか、それとも「セレッソ大阪が人生そのもの」なのかの違いだ。後者だからこその。
NEVER STOP,NEVER GIVE UP
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とっかかりを持つ。

かなり疲れている。昨日、若い人たちに「初歩のお金の勉強会」と称して約一時間半ほど(本当は一時間だったがDescuentoがあった)説明しただけでもぐったりだ。この体たらくぶり。講師業や真のファシリテーターの方々に感服してしまう。
もちろんのことだが、かなり興味がある人、少しは知りたいと思っている人そしてあまり関心のない人がいるとは思う。しかし昨日もほぼ全員がしっかりと食いついてきた。知らないことは知らない、だから学びたい、という意欲が旺盛なのだ。
当然でもあるのだが、僕はその道のプロでもないので、まずは得たもの、これまで学んだことを自分なりに咀嚼してブレイクダウンすることにしている。選択するのは聴く側の自由。にわか説明員が重要視しているのは「とっかかりを持つ」だ。
子供の頃からこのお金の教育を実践できている日本人は少ないと思う。そして、それを学ぼうとしても「何か魂胆があるのでは?」「騙されるのでは?」と訝しんでしまう。だからこそ昔の藩校や私塾のようなものが必要になってくるのだろう。
坂本龍馬は、アメリカ帰りのジョン万次郎と親交のあった河田小龍から世界の情勢を知ることで見識が広がった。18世紀後半の日本には多くの藩校や私塾が建設され、さらに寺小屋という初等教育も始まった。まさに身近な「先生」がいたのだ。
知識や見識は自分ひとりのものでなく、周りの人と共有してこそ、良い社会が生まれると僕は思っている。だから今日も、先日学んだ「社会デザイン、ソーシャルデザイン」についての説明会を開催する。人に話すことで学び返しもできるのだ。
そんな、正しいことを正しく伝える「プチ先生」お節介でもいいじゃないか。「プチ先生」が増えれば、この国も面白くなるのかなと思ったりする。いろいろとやって、やってみてダメなら止める。でも「とっかかりを持つ」には充分に役立つ。
NEVER STOP,NEVER GIVE UP
※2015年に高知を訪れた際に

血液型の定義。

根が「いい加減」だということは散々書いてきたので理解してもらえていると思っている。だが最近、この「いい加減」は、無意識のうちに溢れ出ているのではなく、意図を持ってアクションしているのではないか、と感じ始めている節がある。
この行動を取ってしまうのは一体何故だろうか。演じているのでも試しているのでもなく、人との接点に存在する自分自身の立ち位置。潜在的なものだろうか。役のある仕事を始めた頃くらいから意識しているこの「いい加減」というフレーズ。
その前に少しだけ話しておかなければならないのが「B型はいい加減で大雑把なのか?」だ。我が先祖がどうだったかはまったく知らないが、少なくとも両親はともにB型だ。好きなことにはとことんのめり込むが、良い意味で「いい加減」である。
その血を濃く受け継いだのはよく分かる。よく分かるが、それがB型の宿命なのかと言われると、どうも違う気がしている。「いい加減」にもタイプがあるのかもしれない。タイプというか何というか、これが個性と呼べる個々人の特性だろうか。
ただ、親がいい加減だと子もいい加減なのかについては大いに疑問もある。血液型が性格を決めるのであれば、一体何がどう違うのだろうか。別段、何かのトリガーがあったわけでもないのだが、最近は何故かそんなことばかりを考えてしまう。
さて、犬には血液型は無いらしい。人間のABO型に対してDEA式と言い、日本では全部で九種類に分けられているとインターネット上では書かれている。果たしてこのワンコは何型なのだろうか(見てみると血液型性格判定は無いとのことだ)。
熱しやすく冷めやすい。B型に近いのだろうか。環境や育てかたで犬の性格は変わるという話をどこかで聞いたこともある。そうするとやはり、B型に育てられたワンコはB型となっていってしまうのだろうか。それが宿命だとしたら申し訳ない。
だがもしそれが運命だとしたら、本人(本犬?)次第で何にでも変えられるだろう。望んでそうなっているのかもしれないし、望まない状況ならば変えるしかない。ワンコも人も本質は同じ。変えられない未来を変えていく。やはり自分自身。
血液型はその少しのトリガーたり得るかもしれないが、それ以上でもそれ以下でも無いと僕は思っている。そう考えてみれば、B型の「いい加減」は武器になる可能性もある。すべてのB型の方が「いい加減では無い」ことが前提ではあるのだが。
NEV…

第18節 FC東京戦。

東京はかなりの大雨だ。日々、傘はバッグに忍ばせているのでまずは無事だった。昔々に誰かの書籍を読んだ際、「傘を持ち歩いているような男はダサい」的な意味合いの文章を読んだ記憶があるのだが、傘は無いよりあったほうがやはり良い。
ミッドウィークのFC東京戦。このカードは毎回毎回我慢のゲームになる。しかも雨の中という消耗戦でもある。首都で行なわれる試合にスタジアムに行けないもどかしさを、リモートチェックインで気持ちを落ち着かせながらの観戦となった。

走ってないわけでも無いし戦えるところは戦っている。では何故このような試合になってしまうか。上位クラブとは根本的な実力差があるとは思えない。何がこの差を生んでいるのだろうか。鹿島戦同様にインテンシティの違いなのだろうか。
この試合の場合もいくつかの微妙な判定はあったのは事実だ。だが以前から気になっているのは選手たちが「アピール」し過ぎてしまうところ。そして勝手に判断してしまうところ。それが全体的なテンションに変化を起こしている気もする。
持っていないのか。それとも与えられるにはまだ早いというのか。VARだけがすべてを解決するファクターなら、どんなに楽だろうか。もしこの原因が積み重なった疲労の蓄積によるものだとしたら、雨がいろいろ洗い流してくれたらいいのに。
今日ようやく戸田和幸さんの例の動画を見た。僕らはまだまだやれるということを戸田さんの口調から改めて感じた。選手層の問題も無くはないが、厳しい戦いが続くのはうちだけではないし、ここから横並びでヨーイドンになる可能性もある。
僕らは常に困難と向き合ってきた。だから、一試合一試合を大事にしていく。まずは自分たちのサッカーが間違っていないことを信じる。仲間を信じて、自分を信じる。そして、雨が降ってきたなら持っている傘でカバーする。それだけのこと。
NEVER STOP,NEVER GIVE UP

宇宙兄弟とFFS理論。

休みという休みではない(毎回そんな気がする)のだが、連休となると、空いた時間で読書量が増える。本を読んでいると何だか心が落ち着く。僕が生きている日数は10,000日も無さそうなので、一週間に一冊を読んだとしても1,400冊程度だ。
そう思うと、読む本も選別していかなくてはならない。しかしながらどうしても実益よりも趣向を意識して読んでしまう。僕の良いところなのかそれとも悪癖なのかは分かりづらいが、人間の感情など常にうつろいやすく常にふわふわしている。
そんな折この本を読んだ。初めて耳にする「FFS理論」とマンガも映画も見たことがない「宇宙兄弟」のコラボレーション。あるきっかけでインプットの無さすぎるこの書籍を手に取った。少しだけかじっていたが何とか一日ですべて読み切った。
本の詳細は他に譲るが、自分自身がどういうタイプや型なのかを調べてみたところ、特性をかなり正確に捉えられた結果が現れた。「宇宙兄弟」の登場人物など誰も分からないのにサブキャラを充てられても、とは感じたが、詳細は比較的正しい。
もちろん若い頃は「持っている自分」と「見せている自分」とのギャップに悩んだりした。これは今も昔も同じだ。通り一辺倒の教育手法。学歴重視の中間層。そして何より「個性」という名の呪縛に囚われている子供が実に多いと感じるのだ。
大人になればなるほど守るべきものが増えてしまい、なかなか思い切ることもできなくなる。だが逆に歳を取れば取るほどに、どういうわけか素直になれていくような、そんな感覚もあるような気がしている。人間とは、実に不思議な生き物だ。

子供のときに戻って「性格当てゲーム」に戯れたいとは思わない。しかしながら大人としての自分自身の置き位置なども一度診断してみてもいいのかもしれない。どんな方向性を示しても素直に受け止められるだろう。もしも自分を信じるなら。
NEVER STOP,NEVER GIVE UP

なるようにしかならない。

長年検討してきてその度に挫けていたが、ついに今年、「星新一賞」にエントリーした。内容はともかく、スタートラインに立てたことが素直に嬉しい。今年は第八回ということもあるが、僕にとってはこの大事な数字に、なんだか縁を感じる。
作品については何も言うまい。プロフェッショナルの中に素人が混じってどうなるかなど、考えたところで滑稽であり無意味だ。趣味の域を超えないレベル。評価にも値しないだろう。だが、振らないバットには絶対にボールは当たらないのだ。
「ポジティブに考えすぎだ」と人によく言われたりする。いやいや、そんなことは無い。結構なくらいの終末的思想であるし、自分が駄目っぽいなと感じることはしばしばだ。ただ、ひとつ言えるとしたら「あまり意識をしない」ということだ。
別の言いかただと「なるようにしかならない」。考えて考えて考え抜いたところで、いろんなことは決まっており、だったら、素直で意識せずそのままの状態で生きていくのが一番だと僕は思っている。少なくともそうやって僕は生きてきた。
だから結構冷めてるとか関心なさそうとか、そんな見方をされるときも多かった。ただの素人の戯言なので影響があるとは思えない。だが最近の考えすぎてしまう方々に向けてのヒントになったりしたら良いかなとも感じる。まあならないか。
もう一度言う。この世は「なるようにしかならない」のだ。だから今を受け入れて生きる。良くするとか何とかなどはあとの問題。まずは今を大事に生きる。その積み重ねが何かを生み出す。適当感丸出しだがこれで生きてこられた人もいる。
好きなことをすれば良い。好きなことをするためには嫌なこととも向き合わなければならない。それを「嫌なこと」と捉えるか「なるようにしかならないもの」として捉えるかで、気持ちに対する重圧は変わってくると声を大にして言いたい。
さて「星新一賞」。年内に中間選考、三月くらいに結果が出るようだ。結果がどうなるかなど今の僕には関係ない。好きな文章を書いて、いつかどこかで誰かが読んでくれれば良いのかなと。書いていたらなんか次のアイデアも浮かんできた。
いや、その前にと思い、今回の作品についてレゴブロックでシリアスプレイしてみた。結構グロテスクなものが生まれた。やはり終末的思想が程よく(色濃く)出てしまっている。私のことは嫌いでも作品のことは嫌いにならないでください。
NEVER STOP,NEVE…

「コブラ会」にハマる。

「コブラ会」にハマっている。インドアサイクルをしながらいつも見ている。1984年の映画「ベスト・キッド」その34年後の話であるこのドラマ。当時の俳優がそのままの役で出演していたり、ところどころで回想シーンが出てきたりしている。
なぜこのドラマに夢中になってしまうのか。それは自分自身の姿とダブらせてしまっているからかもしれない。1984年というと僕は13歳〜14歳くらい。日本で上映されたのは少し後だったように記憶している(TV初放送が1988年だったそうだ)。
まあ、よくはないのだろうけれど、子供の頃は世の中全体がコブラ会のような状況だった(気がする)。良く言えばスパルタ教育。今風だと「パワーハラスメント」と呼ばれるのだろうか。主人公のジョニーが頭を抱える場面がとても理解できる。
当然ではあるが、時代がまったく違うわけで、今と昔では指導のしかたも変わっている。これは何もスポーツに限った話でもなく、仕事においても同様で、今日の若者の考え方や論理が僕のような人間と根本的に違っていると感じるときがある。
そのような葛藤の連続がこの「コブラ会」には散りばめられている。そしてその葛藤に抗うかのような空気感を醸し出していく「コブラ会」。そんな同年代の"あがき"のようなものに、僕はどんどんと惹かれていっているような思いがあるのだ。
もちろん暴力は何の効果も意味も持たないし、暴力で得た信頼関係など肝心なところで木っ端微塵に砕け散る。そんな新時代だからこそ、僕は「コブラ会」に何かを重ね合わせてしまう。やはりどうしようもなく「バッド・アス」に憧れてしまう。
ようやくシーズン2の中盤に差し掛かってきた。ジョニーに共感しっぱなしの状況でもある。ここから先に進むにつれ、更に問題が増えていくものと推測される。それすらも共に楽しんでいくのが僕らの世代。まだまだやれることは、しこたまある。
NEVER STOP,NEVER GIVE UP