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「間」を埋める。「間」は抜かず。

海外サッカーを見る機会がかなり減った。もちろん興味ある試合は今でもリモート観戦するが、年間に数百試合を見るという、若い頃のようなパワーが湧き上がることが少なくなった。ダイジェストの流し見では駄目だなと最近思い始めている。 あの頃はまだ人生のステージを上がりかけていた時期でもあるし、そのうえで時間もたっぷりあった。ひたすら試合を録画して、ひたすら試合を見る毎日。当然ながら学ぶことも多かった。選手個々のテクニックだけじゃなく、環境含め、だ。 来年、2021年のJ1全試合を含む394試合でVAR(ビデオアシスタントレフェリー)の再開が決定した。審判も人の子であるのでミスをするのが常だと思っていたが、よりテクノロジーの力を得て正確なジャジが行なわれることになるのだろう。 僕は、あの「間」がとても苦手だった。海外サッカーを見ていても、プレイがその度に止まってしまう「間」。エラー混みがサッカーの醍醐味だと思っている派としては、このVARに対して非常にネガティブな感情を持っていたのが本音である。 そんななかで毎週のように「Jリーグジャッジリプレイ」を見ていて、なんだか感覚が変わってきたのが分かる。プレイが止まるのは変わらないものの、やはり場面場面でその状況を把握できる仕組みは必要なのだろうなと今ではそう思っている。 何となく、言いたい放題なところと、なかなか大手を振れない(!)ゲスト審判の方との掛け合いが心地良い。そのうえで、DOGSOだとかSPAといった言葉を知りながら毎週学んでいる気もする。やはりこういう番組を見るのもかなり好きだ。 今季はかなりレフェリングに泣かされていることも多い我がクラブではある(多分他クラブのファン、サポーターもそう思っているに違いない)。だが、来シーズンは純粋に「力と力」の勝負ができる環境を持てるようになるのはありがたい。 あとは、この「間」をどのように埋めるのか。できうる限り「間」が抜けることだけは避けたい。各クラブのサポーターも、この「間」をどのように埋めるか。そして、どのように抜けないようにするか。来季に向けて考えていることだろう。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP
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動かねば。

例の問題については多くの方がほうぼうで動き始めている。さきほども、署名サイトなどを見ながら、 剛柔使い分けながら どんな方向にベクトルが向いていくのだろうかと考えていた。とにかく早く動くこと。それが重要であり大事だと思う。 何となく過去のログを見ていたら面白いこと書いている。ブログそのものも20年以上書き続けているので、セレッソ大阪の多くの歴史と触れることができる。昔から色々と動いてきたんだなとしみじみするとともに、まだまだ感も漂っている。 僕にとって休日は仕事日だ。やりたいことが沢山あってそれがいつまでも続いていく。そんな休日は、好きなことを好きなだけ楽しむのが僕の流儀でもある。「働く」という言葉は「人が動く」と書くくらいだから、やはり、動かねばと思う。 仕事の目的が「お金」だけだったとしたらここまでは続けられない。もちろん「お金」は大事。とは言え、それだけではとも思ってしまう。やりがいは人それぞれ違うのだろうけれど、やはり「お金」だけだというのは寂しい感じもしている。 そんななかで新たに考えているのが、自分自身の持つ技能や能力を社会に活かすことだ。今、いろいろな方と話をしながら、僕自身がどんな貢献ができるのかを検討している。やはり先日受講していたソーシャルデザインが大きな刺激だった。 それに加えて試験勉強も僕には待っている。そしてサッカーショップ蹴球堂もある。休日は自由時間ではあるがとても大事で重要な労働時間だ。だからこそ、休日の概念が常にバランスを保っている。僕にとっては非常に均衡が保たれている。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第28節 サンフレッチェ広島戦。

 あの記事がネット状況に出た日に、とてもワクワクするような企画のことを話していたのを思い出している。どのように進めれば良いかは悩みどころではあるが、まあ、なるようになる、がモットーでもあるので、あまり心配はしていないのだ。 蹴球堂も、サポーターのためだけの単なるグッズの販売から、世の中に貢献できる組織になっていけるような努力を行なっていかねばならない。そのためには多くの徳を積んでいく必要がある。そんなことを噛み締めながら、毎日を生きている。 さてサンフレッチェ広島戦である。桜なでしこの試合を見に行っていた関係で前半途中からのリモート観戦となった。かなり押し込まれたなかでゴールを決められ、相手が一人少なくなった後半ですら、糸口を見つけられないままの敗戦だった。 アミーゴのタイムラインなどを見ていると、やはり幕なども結構出ていたようだ。理想と現実、妄想と保身入り混じる状況下において、何をもって愛を伝えていくか、すべてのセレッソ大阪に関わる人間が考えていくべきなのだろうなと感じた。 三十年近く付き合ってきて改めて思うがセレッソ大阪は本当に良いクラブだ(マ・クベ風ではない)。良い意味でも悪い意味でも、人間性というものが滲み出ている。だからこそ考えるべきときに考える。やるべきときにやる。それが大事だ。 この続きを書いていた最中、ちょっと人様にお見せできるような文章に留まれず、とても過激な内容になってしまったので公開する前に削除した。危ない危ない。いつかどこかでシェアしようとは思うので、そのときまで少々待ってもらえればと。 そう。サッカーショップ蹴球堂がF.C.OITOでRestartしてから半年を迎える。早かったような、そうでも無いような。桜スタジアムとの関係性も、先週色々とワクワクさせられるような内容を聴いて心がはやる。果たして年内に行けるのだろうか。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

なでしこリーグの「最後」の日。

理解することが到底不可能ものなどこの 世の中には 山のように存在している。数え出したらきりが無く、あまり考えないようにしたいと思ったりもするが、なかなかそういうわけにも行かない。どっちに向いたとしても、不条理であり理不尽だ。 何だか似たような言葉なので、つい同時に使ってしまったこの「不条理」と「理不尽」。何となくだがインターネットで調べてみたところ、このふたつは、かなり意味の違うことが分かった。知識が乏しい自分自身に恥じてしまう毎日でもある。 「不条理」とは一般的に「筋道が通らない」「道理に反すること」と書かれている。哲学的には更に衝撃的な言葉で括られている。「人生に何の意味も見出せない絶望的な状況」。いかなこんな僕でも、かなり落ち込んでしまうようなワードだ。 そして次が「理不尽」。こちらは「道理の不尽」から作られた言葉だそうだが、まさに「道理を果たしていない」「道理が足らない」状態らしい。要するにひとことで言ってしまうと「無茶苦茶」だということだ。日本語は本当に難しく感じる。 昨日今日と先輩方の話を聞かせていただいたお陰で、個人的に不満を抱いていたおおよその事柄について理解できた。言うなればこの「不条理」と「理不尽」のハイブリッドである。すべてを信じてきたわけでは無いが、何とも言えない気分だ。 それが、いみじくも試合内容に表れる。来年のことを話すと鬼が笑うと言うが、この言葉通りだとすると、まだ笑ってくれているだけ良いほうだ。ここからどうなるのか、不安しかない。「不条理」になる前に、何とか手を打っていきたいね。 なでしこリーグの「最後」の日をセレッソ大阪堺レディースと共に過ごす。 ファイナルを意識してなのか、 駒沢公園陸上競技場は物凄く強い風が舞っていた。知識が乏しいうえに書けないことがことさら多くて、文章づらに頭を悩ましてしまう。 繰り返しだが、世の中は理不尽だ。理不尽からの逃走か、それとも闘争か。ここからがサポーターとしての道理を貫く時間なのかもしれない。こんな日のトップが良い結果だったことはほぼない。「不信感」の幕がまた出るのも時間の問題だ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

健康体。チームの、人の。

健康診断当日は何歳になっても気が重い。それほど大したことでもないはずなのに、どうしてこんな気持ちになってしまうのかを考察してみた。真っ先に思い当たるのがバリウムという白い液体の話になるのだろう。どうしても得意になれない。 「じゃあ胃カメラにすれば良いではないか」と言われてしまいそうだが、胃カメラは胃カメラで、もっと苦手なのである。初めて行なったときのトラウマというかなんというか、もう耐えがたい苦痛を伴った検査に、号泣しっぱなしだったのだ。 健康体を保つためには大切な儀式なのだろうが、これはサッカーにおいても同様だと思っている。今日、多くのセレッソファンもニュースで見ただろうが、僕個人的に感じるのは、せっかく健康体に向けて進めてきたのにこれからどうする、だ。 監督を決める権利は、もちろんサポーターには無い。うちの歴史の中でも守備重視(という括りで置くのは違うとは思うが)な監督もいなくはなかった。そのたびに攻撃面のテコ入れに失敗してきたが、それは、監督だけの問題でも無かった。 まあ、綻びはここが始まりというわけでもなく、もっと前から蝕まれていた。日々多くの情報を聞くごとに様々な葛藤に苛まれる毎日でもある。冷静になって考えてみれば分かることでも、感情的になると見境がつかなくなるのが人の常なのだ。 健康体を保ち続けるには変化も必要。だが今かと言われたら何と答えればよいだろうか。様々な活動によって健康診断の数値は結構良かった気がする。齢五十。どうにかしてこの先しばらくは生きていかなければならない。続いていくのだから。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

1990年代の「人として」。

先日ある方と話していて、1990年代の日本中のウルトラだった方々が、素敵なビジネスマンになっているという話題で盛り上がった。アメリカワールドカップ予選、フランスワールドカップ予選と本戦での経験が、今の糧になっている気はする。 たしかにあの頃を思い出すと、今日とのギャップが激し過ぎる方もいたりして、「大人になる」とはそういうことなのかと妙に納得してしまう自分もいる。やはりあの1990年代の思い出は何物にも変えがたい。そんな「大人になる」がテーマだ。 大人とは何歳からのことを指すのだろう。まさに永遠のテーマのようにも聴こえる。もちろん少年の心を持ったまま大人になった方もいる(僕はこういう風に言われることがしばしばある)し、年齢だけがその基準では無いことを物語っている。 仕事場でもスタジアムでもそう。大人びた性格、物事の分別がしっかりとしている方がいれば、その逆も少なからず存在する。「大人になる」は人間性のバロメータなのだ。大人として、そして、人として、を、この時代で多くを学んだと思う。 時が過ぎて、今、この「人として」がフォーカスされる時代を迎えている。このふたつのキーワードが非常に重要だと感じる。冒頭の話に戻るが、1990年代を、ウルトラとして生きたことで、今まさに、ウルトラな人生へと向かっているはずだ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

壁。

日に日に感染者数が増えていてかなり大変な状況になりつつある。何度もこの駄ブログでも書いてきたが、やはり「感染しない」ことよりも「感染させない」がまさに壁なのだろう。重きを置くべきなのだろう。そんなことを考えながらの一日。 しっかりと対策したからといって感染しないとは言えないし、その逆もある。しかしながら、自分にとって大事な人のことを思うと、手洗いうがいは当たり前であり、ともに食事をしたとしても、取り箸を用意するなどが、心遣いの壁、なのだ。 今日は予定もかなり詰まっていて結局のところU-23の試合を見ることができなかった。結果だけは見たが、今季のJ3は実に思うことが多い。そこには数々の壁が存在しており、その壁を果たして何人越えられたのか。壁は来季には消滅してまう。 浜田省吾さんの歌に「壁に向かって」というものがある。1976年に発売された「生まれたところを遠く離れて」というアルバムに収録されている、結構お気に入りの歌詞の中、まさにサビの部分にこのようなセンセーショナルなフレーズがある。 死にかけているぜ蹉跌の空で 帰るところも見つけられずに 失くするものも何ひとつ無いまま 雨に打たれて壁に向かって 諸刃のやいば肩にかざして 脅え続けたいつもの通りへ 何だか、今の情勢を物語っているかのようなこの歌詞だ。ちなみにだが、このアルバムには、かなりの確率で心にグサッと刺さる歌がとてつもなく多い(実際、先輩歌手に浜田省吾さんが持っていったたころ「重すぎる」と言われたとか)のだ。 この浜田省吾さんのアルバムはすべて持っていたのだが、たぶん今はMy弟のところにあるはず(今となっては分かる由もない)。コロナ禍だからこそ聴きたい気分になってしまった。壁に向かって生活しているような、そんななかだからこそ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP