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4月, 2020の投稿を表示しています

4月30日のキックオフ。

今日少々ショックなことが起こった。やはり別れは悲しいものだと改めて思う。人が人と何かを創っていくというのはそれだけ多くの困難が伴う。かのアルフレッド・アドラー先生も問題のすべては人間関係だと語られているように、まさしくこれこそが「産みの苦しみ」ってやつだろう。

別の言い方をするならば、避けて通れない道とでもいうのだろうか、非常に意味深いものを感じている。純粋に夢だけを追い求めて走っていられた子供の頃から、ひとつずつ歳を取るたびに現実と向き合うことになり、周りから色んなものを見せつけられた末、今に至っているという事実。

神様はなんて厳しい道ばかりの人生を僕らに歩ませるのか、と考えられるのなら、まだましなほうかもしれない。とはいえ、その時期も過ぎ、死までのカウントダウンをし始める頃には何か吹っ切れているのも紛れもない事実だ。四十にして惑わず、五十にして天命を知る、の言葉通りだ。

そうなると、言わば吹っ切れている状況になってくる。やりたいことを真にやることができるようになる。もちろんその分身体にも異常をきたすかもしれないし、場合によっては命の保証もなくなる可能性もある。だが、何もしないで平穏な暮らしができるほど、この世の中は甘くはない。

いまユヴァル・ノア・ハラリ氏の「21Lessons」を読んでいる。今、変わらなければ、生き残ることすらままならない時代がやってくるかもしれないのだ。その時代で生き残れる能力を持ち合わせているか、ではなく、「必ず生き残るのだ」という強い意志を示さなくてはいけないのだろう。

そして、そうするには三つの要素「健康」「学習意欲」「行動すること」が必要となってくるのだと僕は思っている。何より身体。また、常に学ぶことの大事さを意識する。しかもそれらを評論家になることなく実践していくことが必要。この歳になって初めて、一日が短すぎると思った。
そんな今日、4月30日は我らがpiccolo grande森島寛晃社長の誕生日でもある。この日に慎ましくキックオフの笛を吹いた僕らは、まだまだ人が集まれるような状況ではないのだが、この日だからこそ意味を成す。小さな小さな一歩でも構わない。死ぬまで歩き続けられれば、それは天命だ。
NEVER STOP,NEVER GIVE UP

「勝手に歴史シリーズ」ゆるっと休憩。

人と話をするのが恋しいという方が多い。もちろん僕も同様だ。そんななかでZoomなどを代表としたオンライン会議アプリケーションは本当に重宝する。もともと面と向かったコミュニケーションが苦手な僕としては、これらのツールも相当辛いのだが、恋しい気持ちのほうが大きいのだろう。

ゆるっと始めたメディア「CEREBAKA」。想定通りゆるっと見てもらえている。完全に自己満足の世界に陶酔しているものと思われる。この先どこまで続くのかまったく見通しもつかない状況ではあるが、まあできれば生きている限り一歩ずつでも続けていけるようにしたいなとも思っている。

昨日、「2ステージ制は2003年まで」とか書いてしまったが、よく考えてみたらこの2004年も2ステージ制だった。何かを勘違いしていたようだ。しかも恩恵を受けたのはこの年のほうが圧倒的に得られていた。それらを今思い出すかのように様々な情報に目を通しながらこの文章を書いている。

よくみたら6勝しかできていない。さらに勝ち点は26。今ならとてもじゃないが嬉しいなんて言っている場合ではない内容だ。この結果が語るのは奇跡に近いくらいの残留。その最終節のアルビレックス新潟戦は、この四半世紀のなかでも「痺れる試合」のひとつ。PKは神がくれたプレゼントだ。

この試合。セレッソ大阪ではあまり馴染みがないように思えるのだが、なんと外国人選手がメンバーにいなかったようなのだ(という、事実に今気づいた)。大久保嘉人選手のマジョルカへの移籍と重なってもいたのでよく覚えているつもりだったが、人の記憶とは何とも言い難いものがある。

この「勝手に歴史シリーズ」も勝手にゆるっと休憩したいと思う。「CEREBAKA」のDETAILも早く書き起こさなければ怒られてしまう(誰にだよ)。なんだか最近エレファントカシマシの「悲しみの果て」が身に染みるんだよなあ。この先にあるもののために、家でコーヒーでも飲もうと思う。

NEVER STOP,NEVER GIVE UP



戦いは続く。武器を持つ。

ステイホーム週間に多くの悲しいニュースを聞いて辛い気持ちになってくる。どこかの記事で今は戦時だと書かれていた。まさにそうだ。戦争とはなにも人と人の争いだけではない。新型コロナウイルスに打ち勝つために外出自粛という武器を持って僕は戦い続けていく。大事なことだ。

J1に復帰した2003年シーズンもインパクトの大きい試合が多かった。とにかく派手なゲームの目白押し。0-3から6-4という大逆転の浦和レッズ戦を中心に、ゴール数もかなり多かったと記憶している。特に大久保嘉人選手の時代がやってきた感が非常に表れた一年間でもあった気がする。

セレッソ大阪としては三度目の天皇杯ファイナル(実際は2004年の元旦)に進出したり、意外といってはなんだが勝ち負けをしていたんだなと思い調べてみたのだが、なんとセカンドステージは四勝しかしていない。ファーストステージ躍進での貯金を払い出したことで生き延びられた。

とても印象に残った選手が徳重隆明さんだ。2002年に戦場をJFLからJリーグへ変えるためにやってきた彼。スポードを軸にJ1でも充分通用することを証明してみせた。ゴール数は7。素晴らしい数字だと思う。たしか固め打ち(2点)が多かった記憶があるが曖昧なのでサラッと書いておく。

この年の僕はホーム南側席にいることが多かった。選手と同様、良くも悪くもサポーターの性質が変わりつつあったし、様々な転換期だったのだなと思い出される。僕自身、別の戦場にいたこともあり、ホームですら試合を見に行く機会がかなり減ってしまっていたのが生活に影響した。

実質の2ステージ制はこの年で終了した(2015年シーズンには一時的に再開されるわけだ)のだが、僕はこの2ステージ制にあまり賛同できていない。ただこの2003年のように恩恵に預かる場合もある。何が良くて何が悪いかなどちっぽけな僕に判断できるはずもない。神ではないのだから。

試合を見れないストレスは、それ以外のストレスを凌駕する。セレッソファンとしては当たり前のことだろうが、周りからは理解されることもなく積み重なっていく。なにか動かないと・・・と考え始めたのもこの頃からだ。戦いは続いている。今僕は、CEREBAKAという武器を持った。

NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第二だからこその。

サポーターの中にも同期や同い年なんていうカテゴリーも存在しており、時折同年の生まれと知ったりしたら、より仲良くなったりする。言ってしまえばJリーグのサポーターは地域コミュニティと呼べるのだろう。人に出会い、絆が深まり、そして一緒に育っていく。今の時代に貴重な存在だ。

しかしながらサポーターに対しての偏見や固定観念みたいなものが存在しているのを聞くと、まだまだ小さなコミュニティに終始していたのだろうなと反省する部分も非常に多かった。先日も色々と話をしていて「第○世代」とか漫才界みたいだと笑いあったのを思い出して一人で笑っている。

日韓ワールドカップイヤーの2002年。かれこれ18年も経っているのかと驚きが隠せないのだが、このシーズンのセレッソ大阪はJ2が戦いの場だった。調子に乗って全勝優勝みたいな空気があったが、そんなものが実現できるはずもなく、厳しいシーズンを過ごすことになったのは周知の事実だ。

そもそも、ホーム・アンド・アウェイで4試合という同一相手との試合数は身体に良くない。ワールドカップでエース三人が抜ける時期もあったりしたが、それでも多くの選手が非常に素晴らしいプレーでチームを勝利に導き続けていたのを記憶している。44試合で25勝12分けは上々だと思う。

開幕戦の6ゴールやJ1復帰を勝ち取ったアルビレックス新潟戦の印象が非常に残っているだろう。だが僕はやはり、いつも書いている「日本代表戦とJリーグが同日に隣同士のスタジアムで行なわれた」3月21日が一番。今ではとてもじゃないが考えられないような日程の組み方だったように思える。

長居第二陸上競技場での試合が多かった。やはりオールドファンにとって第二は3つのスタジアムの中でも愛着がかなりある。見づらいし遠いし屋根もない。しかしながらノスタルジーを感じずにはいられない。良いことも悪いこともいっぱい詰まったこの第二から僕らはスタートしたのだから。

実力と運が交わり合ってJ1叶った2002年は、サポーターの若返りも生んだのではないかと感じている。別にベテランが去ったわけでも若手の台頭があったわけでも無かったのだろうが、この年になぜかそんなイメージを持っている。もしかすると、第二がそんな気持ちを作り出したのだろうか。

NEVER STOP,NEVER GIVE UP

タイミングと個性。

久々にMacbookのiMovieを使って動画を編集してみたが、こういうのもたまにやると楽しいなと感じる。テクもないのに半可通な男としても有名な僕だが(そういや昨日とある投稿で半可通をディスっている人を見かけてゾクッとした)、時々だから楽しくて、これが仕事だと苦痛でしかない。

色物と言うわけではないが、個性というものもそのタイミングで利用するから良いのであって、毎回見せられると、飽きる。まるで一つ覚えのマジシャンと何ら変わらない。サッカーもそうだと思うし、2001年のセレッソ大阪は特にそんなことを感じた一年だったように僕は今でも感じている。

西澤明訓さんが海外に移籍した関係で何名かのフォワード選手が加入した。前年に盛られた毒によって僕らは西澤さんの幻影を一年間も追うことになる。選手たちも難しい立ち位置だっただろう。決して重ね合わせて見ているわけではないが、どうしても比べてしまう自分がいたのも否めない。

結局のところ、クラブも選手もそしてサポーターもが、ボタンをかけ違えたことにまったく気づいていなかった。そういう意味での開幕戦。この年に昇格したコンサドーレ札幌とのゲームは、秋に起こる、まさに昨年以上の「悲劇」に向かうすべての元凶だった。少なくとも僕にはそう思えた。

まったくそんな事態を想定していなかった。なんとなく勝ち負けができて、優勝とまではいかなくともなんとなくの結果で終わるものと想像していた。前年と同じことが起こると高をくくっていたわけだ。その状況で戦えるほどJ1は甘くない。いやJ2も厳しいことを翌年、更に知ることになる。

大久保嘉人選手を中心に若い選手も台頭し始め、天皇杯でもファイナルまで進出した2001年だった。そのなかでもセミファイナル浦和レッズ戦、杉本倫治さんのゴラッソが鮮やかに蘇る。たしか救急救命士になったはずだ。タイミングタイミングで個性を見せる男とは実に素晴らしい生き物だ。

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520という毒。527という毒。

今回は2000年のセレッソ大阪。この年といえば、いつも口にしているお決まりの「527」というキーワードが中心になるだろう。この日のことだけは鮮明に覚えている。いや、それは断片化されている。一週間前の勝利から完全に浮かれていた僕らは、周りを見渡すことすらできていなかった。

ひとつはサポーターとしてのありかただ。どういう意味かというと、多分その時は、勝利を信じたのではなく疑わなかったのだと思う。このことが敗因のすべてだと言って間違いがない。昔よく言われた「人がやることを信頼はしてもいいが決して信用はするな」という言葉がリフレインする。

もっと悪いことにこの浮かれ気分という毒が、セカンドステージ、更には翌シーズンの降格へつながったのではないかと僕は今でも思っている。自分自身がそうさせてしまった感もあるし、本当に申し訳ないなという気持ちでいっぱいになった思い出がある。そんな2000年のシーズンだった。

この年の思い出とすれば、もちろん2000年5月20日の雨の三ツ沢。あの試合を見てあの試合を感じてあの緊張感の中のゲームを制したシーンを味わって、感動しないセレッソファンがいるわけがない。セレッソという毒が更に身体のなかを駆け巡る感覚。ものすごい鳥肌が脳に焼き付いている。

さて話は変わる。遠い昔から構想を練ってきた「CEREBAKA」。ようやくというかやっとというか色々なことで動き出している。取り急ぎは多くの「セレッソ馬鹿」な方々と熱く語り合い、いろんなキーワードをいただきたいと思っている。既にEPISODE 1の対談を終えてまとめに入っている。

多くのセレッソ大阪を愛してやまない方々と一緒の時間を過ごせてありがたいうえにこんな企画にのっていただけるなんて本当にありがたい。どれだけメディアとして成立するのかなんてまったく予想もできないが、まあ、いつものパターンで、とりあえずは走り出してから考えるって感じだ。

そんな感じでゆるゆるとスタートするので、それほど見てもらわなくてもいいと思っていたりする自分がいる。セレッソ大阪サポーター以外が見て、何が面白いねん、というメディアになること間違いない。暇ではないが時間はある。外出自粛のこんな時期だからこそできることをやっていく。

NEVER STOP,NEVER GIVE UP

正解の中から正解を選ぶ。

ファシリテーターの大事なところ。すべてが正解だった場合に、より正しい道に進んでもらうためにできること。今日主催した勉強会で話した内容の肝。そこにLEGOが加わると更に活性化すること。実際に言うは易く行うは難しだが、常に追い求めていかなければならないと思っている。

25年の中でどのチームが一番好きかと言われてもなかなか決めきれない。すべてが正解というかすべてが素晴らしかった。しかしながら、実のところ1999年のセレッソ大阪が、好きなチームのひとつであることはあまり隠していない事実だ。バランスだけでなく豪快さがそこにはあった。

レネ・デザイエレ監督の元躍進したこの1999年。なにせ濃いメンバー構成だったなと今でも感じる。森島さん西澤さんはともかく、黄善洪さん、盧廷潤さんといった韓国代表選手。それ以外にも数多くのよだれが出そうな状況だった。考えてみたらシーズンの途中で堀池さん来るとか。

前年を踏襲した攻撃的サッカーが花開いた形だ。その中でも印象に残っている試合が9月11日の大阪ダービーマッチ。今ではちょっと考えられない長居に10,000人くらいしか集められなかった時期。それでも試合はとても素晴らしい結果(4-1)で、すべての面においてパーフェクトだった。
何点目だったか完全に忘れたのだが「北陽のマラドーナ」西谷正也さんが現ガンバ大阪監督の宮本恒靖さんをキリキリ舞いさせたシーンは圧巻だった。この頃のセレッソ大阪の攻撃は全部正解に近かった。どんな形からでもゴールが奪えると選手もサポーターも信じ切っていたのだった。

もちろん忘れてはならないのはセレッソ大阪にとっての初めてのタイトル。そして、久高友雄さんだ。大阪ダービーの二週間後に行なわれたサンフレッチェ広島戦がこの年のすべてを物語っている。僕らのセレッソ大阪が今ここにあることを、最も噛み締めた年であったと非常に感じる。

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攻撃のセレッソ大阪の時代。

日本が初めてワールドカップに出場した1998年。僕はあいも変わらず仕事に明け暮れていた。前年の最終予選はほぼ応援に行ったのだが、どうしても日程が合わずフランスへは行けなかった。悔やんでいるわけでもないのだけれど少し寂しさも湧いていたな。今となっては良い思い出だ。

そんなセレッソ大阪の1998年といえば松木安太郎監督の時代。何をどうすればこういう人事になるのか僕にはほぼ理解不能だったが、何かが起こるんじゃないかと相当な期待をしていた年でもあった。結果としてはファーストステージ9位セカンドステージ13位とそれほどでも無かった。

そのなかでの森島社長の開幕7試合連続ゴールは素晴らしい記録だった。緒戦の大阪ダービーマッチから始まり第7節のヴェルディ川崎戦までの7つのゴラッソは凄いのひとことだ。その間にはあの忘れられないスコアとなった試合も存在している。とにかくこの年はインパクトが強すぎた。

このジュビロ磐田戦の1-9という結果もさることながら、僕が印象に残っている試合をあげるとすればセカンドステージ第14節の横浜フリューゲルス戦だ。この三日前に横浜マリノスとの合併話が大きな話題となった。発表直後の試合という、なんとも難しい局面にぶち当たってしまった。

やはり他のクラブであっても、大好きなチームが無くなってしまうのを間近で見ると、やはり心が痛くなったのを覚えている。自分たちがそうなったときにどう感じるのだろう。そういや何年か前に大阪の2チームが一緒になる、なんて記事が世間を賑わせたな。まあありえない話なのである。
この試合。結局のところ0-7とまたも大敗してしまった。とにかくこのシーズンは大味な試合が多かった。大阪ダービーはダブル。柏レイソルとは当時の総得点記録(5-7)。これ以外にも4-3の試合が二試合と、実に松木さんらしいといえばらしい。ここから攻撃のセレッソ大阪の時代が始まる。

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若気の至り今ここに・・・。

オンライン会議の準備をしている。狭い部屋でもあるのでそれほど気にしなくてもいいとは思うのだが、それでも少しでもセレッソ色を出したいなと思うとこだわりが出てきてしまう。こだわりが強すぎると逆にうまくいかないケースもあったりするのでやはり僕らしくほどほどが良い。

今回は1997年ということで。この年は名将レヴィー・クルピのセレッソ大阪での記念すべき第一回目の采配である。レヴィーとうちのクラブとの相性は言わずもがなだが、1997年は少し早すぎたと言わざるを得ない。シーズン通して16勝16敗。なんとも言えない一年でもあったと感じる。

実はこの1997年は、とても記憶に残る試合の宝庫だ。前にも書いた京都パープルサンガ戦や平塚での4-5というサッカーとは思えないスコア(いやもう今の時代、この程度の点数では驚きもしないだろう)もあったりと、本当に真剣に前向きにそして悩みも多く抱えながらの一年間だった。

また、1997年はちょうどフランスワールドカップ予選という大事な一年だった。最終予選がセントラル方式からホーム・アンド・アウェーに変わったこともあり、リーグ戦との日程もかなり過密になりがちになっていた。体力があったから良かったものの今ではこんな無茶はできない。

その最たる例が9月27日から28日。土曜日に大分でサンフレッチェ広島と試合をしてからの、日曜日、東京に移動しての国立競技場での日韓戦というありさま。セレッソ大阪は勝利したが韓国にホームで敗れる瞬間を目の当たりにしてしまった。しかも、様々ショックな出来事もあった。

日曜日の夜に国立で試合をして、月曜の朝には大阪で仕事をするというルーティンが板についていた。それでもなんだかそれが自分たちの使命のように思えてひた走っていたような気もする。そんななかで一番の思い出は長崎。天皇杯のジュビロ磐田戦。若気の至り今ここに・・・だな。

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夜行電車で行くアウェイ。

僕は電車が結構好きだ。と言っても姿形がとか写真を撮ったりするほうではなく、ゆったりと揺られてしばらく乗っている時間が好きなのだ。電車の中で本を読むあの感覚。時々船を漕ぐのではあるが、なんだか不思議と自分だけの空間ができているような、そんな気持ちにさえなってしまう。

そんな僕ではあるが、電車の中でビジネス本を読むこと、最近ではまず無い。たいていは小説ものである。できればその優雅な空間を空想の世界で埋め尽くしたい気分になってくる。そんな思いがなぜだか抑えきれなくなってしまう。電車はそんな魔力を持っているなといつも感じているのだ。

さて1996年の思い出。この年は西澤明訓さんが日本に帰ってきたりパウロ・エミリオ監督から楚輪さんに変わったりした。Jリーグが1シーズン制になったのもこの1996年が最初だったはず。Jリーグ、ナビスコカップ含めて、もちろん成績はそれほどでもなかったが多くの懐かしいシーンがある。

最近のこのニュースでグーガのことを思い出したが、そういや1996年だったのだな。各国で得点王を獲得し鳴り物入りだったがなかなか馴染めなかったこのブラジル人に目茶苦茶期待していたのが昨日のようだ(遠い目)。今でも最高の外国人のひとり、マルキーニョスが去ったのもこの年だ。

そんな、想い出がいっぱい(H2O)な1996年でなぜか鮮烈な記憶が残っているのがリーグでもカップ戦でもなく天皇杯。栃木で行なわれた浦和レッズの試合にどうしたのか電車で行こうということになり、今では定期便がなくなった(らしい)「ムーンライトながら」で一路向かったのだった。

みんなで夜行列車に揺られ、楽しい思い(大半は寝ていたが)とは裏腹に、浦和レッズにボコボコにされ(またかよ)、失意の中、新幹線で帰ったこと。まだまだ若いし無茶ができた頃でもあったなと今ではとても懐かしい。しかしながら深夜急行で行くアウェイの旅もそれはそれで乙なもの。

経済的に豊かになってしまうとそんな無茶がなかなかできなくなってくる。それでも、時々夜行電車でアウェイに行くなんていう夢を見たりする。身体が欲しているのかもしれないし、それはただの幻想なのかもしれない。まだまだ空想の世界をリアルに楽しんでいたい表れなのかもしれない。

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毎週末にJリーグで戦える喜びを。

セレッソ大阪は初物に弱いというジンクスができあがったのはいつ頃なのだろう、と考え込んでしまう日がある。昇格クラブに敗れたり初めてJクラブと戦うというチームに敗れたりと本当に弱い。「獅子は兎を捕らえるにも全力を尽くす」と言われるが、なかなか上手くいかないのも本音だ。

1995年はセレッソ大阪にとってJリーグで戦う初めての年であった。ヤンマーディーゼルサッカー部の栄光は輝かしいものがあったが、やはり後発であったことは否めず、当初からかなり気後れしていたような気も、今となったら感じてしまう。たかが二年、されど、とてつもなく大きな二年。

前年には天皇杯を含めていくつかのJリーグクラブと試合をしていた(ナビスコカップにも出ていたこと何故だか忘れていた)が、クラブも選手もサポーターもまだまだヒヨッコだったのだろう。事実、JFL優勝と天皇杯の準優勝で相当浮かれていたのは間違いない。通用すると思い込んでいた。

そんな1995年の印象といえばJ初戦のサンフレッチェ広島戦から開幕三連勝の第3節。たしか草薙で行なわれた清水エスパルス戦だ。ボールが見えなかったとアミーゴから聞いた大雨の中の試合。僕は現地に行けなかったが、仕事終わりのパブリックビューイングだったことをとても覚えている。

森島社長がJリーグ初ゴールを決めたこの試合を含めて、Jリーグの層の厚さを思い知ると同時に、やれるかもしれないという淡い期待が入り混じった年だったように思える。何人かの選手はトップレベルに入ってやれていたし、僕らは毎週末にJリーグで戦える喜びを味わっていたようだった。

併せて、初めての大阪ダービー(もちろん勝利したわけだが)が5月3日。今年は5月2日の予定だった。新型ウイルスの関係で開催がなくなってしまったことは非常に残念でもあるが、僕らのサッカー自体が失われたわけではない。サポーター全員の力でなんとか週末にサッカーを取り戻したい。
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「ボコボコ」にされるということ。

セレッソ大阪はシーソーのような成績をひたすら繰り返してここまできた。それはもちろん優勝争いのあとに降格するパターンだけでなく、攻撃的なスタイルのあまり大量得点もあればボコボコにされるシーンも数多く存在した。そこが魅力だといえばそこまでだが、たまったものではない。

Jリーグを目指してJFLを戦っていた1994年。当然のことながら一年での昇格を信じていたのは当時のセレッソ大阪関係者全員の思いだった。この年のJ準加盟クラブは、選手層やプロとしての環境面など他のクラブと比べても一枚も二枚も上手だったが、それでも毎試合がドキドキの連続だった。

単純に昇格だけではなく「優勝をして昇格する」という夢を全員が持っていた。しかもそれは夢ではなく使命でもあるとみんなが考えていたような気がする。終盤に差し掛かるにつれて、プレッシャーやらなんやらでかなり気持ちも張っていた頃に、アウェイでの柏レイソル戦を僕らは迎えた。

全部記憶に残っているかと言われると正直謝るしかない。結果としての2-4というスコア以上に、まさに「ボコボコ」にされた思いだったことだけはしっかり身体と頭が覚えている。Jリーグ昇格もJFL優勝も白紙になってしまいそうな柏からの帰路のどんよりとした気持ちがとても印象的でもある。

そして同時に、Jリーグを目指すクラブのアウェイはこうあるものかと、レイソルサポーターの気迫にすべて持っていかれた気分だったと思い出している。やはり、Jリーグに上がりたい優勝したいと思っているのは、決して自分たちだけではない。分かっていたのに改めて気付かされたのだった。

何かの拍子にこの試合のダイジェストを見た。もうほとんど記録なども残っていないのだろう。当時の柏レイソルにはスーパースターのカレカ、セレッソで関連しているといえば大倉智さんが在籍した。そして極めつけは、この試合でもゴールを決めた大熊裕司さんという顔ぶれだったのだ。

この年の印象というと、優勝したコスモ石油戦や藤枝ブルックスとの延長Vゴールがまっさきに出てくるはずだろう。だが僕の中ではこの試合がセレッソ大阪にとっての「ボコボコ」の原点のように思える。実のところ昇格同期の柏レイソルとは切っても切れない縁のようなものを感じている。

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年度別の記憶に残るシーンを書いていこうと思う。

三国志を読み始めたら止まらなくなりそうだったが一巻を読了した。誇り高き人物たちの出会いと立身出世していくさまが描かれている。今の時代も同じような感があり、ディフォルメされている部分も否めないのではあるが、1800年もの前の話だと考えると、歴史とは非常に素敵なものだ。

家に居続けると書くこともなくなっていくので、ここからはセレッソ大阪年度別の記憶に残るシーンを書いていこうと思う。とはいえかなり見方が偏っている性分でもあるので、皆さんのお口に合うかどうかが心配でもある。まあ続くところまで書いてみようと思いながら手を動かしている。

1993年に名門ヤンマーディーゼルサッカー部がJリーグ参戦を発表した。その年の天皇杯予選を見に行った(確か尼崎陸上競技場だったような気はするが、間違っていたらごめんなさい)。もちろん当時はアマチュアでもあるのでそれほど観客もなく、何よりあっさりとた敗戦を記憶している。

試合はともかく、まあアマチュアでもあるのでトイレも選手と共通。ネルソン吉村さんや貴志さんと隣同士になったりしてたな、と今でもそんなことを覚えている。だがどうしてだか試合内容がまったく頭の中に残っていないのだ。まあ26年以上も前の話なので仕方ないといえば仕方ない。

記憶に残るシーンがその程度かよと言われると頭を下げざるを得ない。ヤンマープロサッカー推進室のドアを開けた瞬間も確かに気持ちの高ぶりを抑えられなかったが、ここから長い付き合いになっていくのだという予感というか、この試合を見たときに感じたもののほうが非常に大きい。

その12月には公募にてセレッソ大阪という名前を得たヤンマーディーゼルサッカー部。今でこそカプコンが撤退したが、このヤンマーと日本ハムの二社は、今でもつながっている方々がいる。この頃からセレッソ大阪の関係者は関西らしく人情に溢れた人が多かったなととても感じている。

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「我ら生まれた日は違えども死す時は同じ日同じ時を願わん」。

もうなんだか時間の流れがよく分からなくなってきている。今日が金曜日であると思い出したかのように”TGIF”を連発する。これはひとえにJリーグサイクルというか、そういうものの中で僕が生きている証拠では無いだろうか。もうかれこれそんな生活も30年近く過ごしているのだから。

その時間の流れというものが感じられない今、何を基軸に生きていけばいいのかと模索してしまう。週末、土日をどのように生きていけばいいのだろうか。やはりサッカーはJリーグは偉大だなと改めて気付かされてしまう。人生ならぬサポーター生の持つ力でもあるなとか感じてしまう。

サポーター生は「我ら生まれた日は違えども死す時は同じ日同じ時を願わん」という桃園の誓いようなものだ。桃園の誓いとは、三国志における劉備玄徳、関羽雲長、張飛翼徳の三人が志をひとつにした有名なシーンだ。横山光輝先生の三国志ファンでもある僕の好きなシーンでもある。

「いつなったのか」など愚問であり、今ここでどう生きているかが大事なのだと思う。とはいえ、すべてのサポーターの「セレッソ大阪との出会い」には非常に興味もある。別にドラマ性を求めたいわけでもないのだが、ひとりひとりに想いが存在しているといっても過言ではないのだ。

選手、監督は変わっていくが、サポーターは死ぬその日までクラブのサポーターだ。なんてことはない土日の試合を見て元気をもらっているという大先輩も、試合の最中、今まさに生まれそうな赤ちゃんも同じ。まさに「我ら生まれた日は違えども死す時は同じ日同じ時を願わん」だな。

※書いていたら三国志を読みたくなってきた。

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習慣とは「意地」。

ひたすら「本」の話で恐縮ではある。今日、ようやく何度目かの「第8の習慣」を読み終えた。2019年3月に購入してから何回読むのだろうか。audiobookなのでまだ特典の部分が残っている。しかしながら改めて「原則」という言葉は不変でありかつ普遍であるということをまざまざと感じた。

頭のできが僕とは違う方からすると、この「第8の習慣」そしてその前作の「7つの習慣」はビジネス書としては軽すぎると思われるかもしれない。だが若い頃からフランクリン・プランナーを利用し、7つの習慣を読んで実践してきた身からすると、もうバイブルと読んでいいかもしれない。
以前からも書いている通り、「習慣」は人間の本質のような気がする。習慣には思考と行動があると思っている。考え(まさに原則か)と実行が伴ってこそ、この習慣が血と肉になり人生の一部となっていく。たとえ時代が変わっていったとしても人間の持っている原則だけは常に同じだ。
SkytreefanというWebサイトとInstagram。転居してからというもの更新することがなくなったのは当たり前だが、いまだに訪れてくださっている方が多い。特に外国の方々の様子。いま日本に旅行することすらできない状況なので情報を探しているのだろうなと思いながらいつも眺めている。
思えばこれも習慣の賜物。別に東京スカイツリーが撮りたかったわけではなく、日本に来れない外国の方に向けて、地元にある誇り高きタワーを少しでも感じてもらおうと始めたものだったのを思い出して懐かしんでいる。それがあれよあれよと5,000枚ほどのフォトで溢れかえったのだった。
習慣とは恐ろしくも美しい。中毒にもなるし美談にもなる。これからもそんな習慣を実践していきたい。さてこのブログ。「習慣」というテーマの記事は既に9個。もうこれ自体が習慣なのではないかと驚嘆している。決してネタが無いとは口が避けても言わない。ようするにそれが「意地」だ。
NEVER STOP,NEVER GIVE UP

一万歩という「目的」。

このような状況であっても毎日一万歩は歩こうと努力をしている。これはひとえにパグのクロヱさんの散歩のおかげで稼げているのもあるが、元来歩くのはそれほど嫌いなジャンルではない。しかしながらそこには「目的」あってのこと。「目的」がなければただ歩くなど苦痛でしかない。

子供の頃からそうだったが、この「目的」無く走ったり歩いたりするのが駄目だった。この「目的」無しの行動が世の中には多すぎる。「なぜ」や「なんのために」が先に存在し、その先に「どのように」がある。だがどうしても目先のことに執着してしまうきらいが僕に存在している。

そんな理由もあり、でき得る限り今日のこと、明日のこと、一週間後のこと、一ヶ月後のこと、半年後のこと、一年後のこと、と時間を区切って管理しようと努力している。だが逆に時間に支配されてばかりの毎日でもある。抗うことで自分を保つ日々。なんとも言いようのない気持ちだ。

さて、Jリーグから今後の大会方式について発表された。試合数もとても少なく、なかなか厳しい日程の中だが、サッカーが見れる喜びをすべてのファンで必ずや分かち合うことができるだろう。そうだ。「目的」はあくまでもJリーグの再開だ。僕らのJリーグがこのままでいいわけがない。

だからこそ、その日を夢見て、しばらくは家にいよう。家族の絆を大事にしよう。そしてまた、仲間と会えるときを楽しみに生きよう。選手のプレイに驚かされる準備をしよう。スタジアムの雰囲気に涙して使うタオルを用意しよう。だから、その日まで健康でいることを「目的」にしよう。
J LEAGUEウォーキングを使って今日も歩数をカウントしてみる。セレッソ大阪を登録しているクラブメンバーは1,700名弱だ。その中での121位はありなのかそれとも。いやそんなことよりも今日も一万歩を超えた。それが嬉しい。こんなシンプルな「目的」でも無いよりはあったほうがいい。

NEVER STOP,NEVER GIVE UP

「記録を残す」を始めます。

歳を重ねれば重ねるほど勇気を持てなくなるのだろうか。五十歳を数カ月先に控え、様々考えているのは何度も書いてきたのでご承知のとおりだ。体力と気力を両立させることの重要さとそこで垣間見える難しさ。人間とは実に繊細な生き物であり、脆弱な生き物であると思い知らされる。

そんな弱った心を奮い立たす意味でマンガBANG!で読み始めた「花の慶次」。ようやく全話読み終えたところだ。やはりというか何というか隆慶一郎先生の小説を読みたくなってきてしまう。昨日も書いたが歴史とは記憶が大事なのだが重ねて記録も必要である。そんなことを思い始めた。

記録を残す。それを強く感じる。日々の記録(無類の手書きノート派の僕)ではなくその場に生きた記録を残す。そんなものを書き記せる場所を作る。こんな僕だから長続きができるはずもない。しかしながらまずは始めることこそが大事であり、まさに「スタートライン」いったところ。

そんな、記録を残すためのWebサイトを立てることにした。というか、既にドメインを取得してページも作成済みだ。まだ一歩も踏み出せていないので公開できるようになってからの案内のほうが良いかなとも思ったのだが、まずは形だけでも近々にはスタートしていきたいと強く感じる。

コロナウイルスに打ち勝ったあかつきには色んな「セレッソ」な方に声をかけていきたいと思っている。たくさん話しをしてたくさん記録を残していくのが、少し使命みたいに感じ始めた。ひとりでやっていくのも限界がありそう(ほらでた)なので、ヘルプ募集やらもここに書いておく。

NEVER STOP,NEVER GIVE UP

ドラマに学ぶ「選択」の重さ。

「黒書院の六兵衛」を見ている。WOWOW制作のこの幕末から明治にかけての時代背景のドラマから感じるのは何とも言えない孤独さ。先日も書いたが「日本人とはなにか」を考えさせられる。僕らはもっと歴史から学ばなければならないと気づかせてもらえるだけでもありがたいのである。

何事も、どちらが正しくてどちらが間違い、という白黒をつけるだけですべてが上手くときばかりではない。どちらも正しいという場合に人は「選択」という瞬間を突きつけられる。「黒書院の六兵衛」でいえば御三家である尾張徳川家が幕府につくか新政府につくかというのと同じだろう。

現代においてもそんなシーンがしこたまある。いい大人でも決断する心が鈍り「選択」の狭間で揺れ動いてしまう。社会に出て30年以上経つが未だに時間を要する決断が何度も存在する。その中で持つべきなのはやはり「自分はなぜこれを選ぶのか」という確固たる気持ちなのかもしれない。

現代と同じようなイメージのある幕末の動乱期。日本人の誇りというものが様々な形を変えて現れていたこの時代。すべての「選択」が正しいなかで模索を続けてくれたおかげで今があると思えば、頭を使いこの先に見える何かを信じてまだまだ進むしかない。明けない夜は決してないのだ。

残り二話くらいになった。幕末系では少し異質な、比較的動きの少ないこのドラマから学ぶものは非常に多い気がする。実は見る少し前に小説を購入していたのだった。本好きの僕としてはまずこちらから入ったほうが良かったかなとも感じるが、たぶんどちらも正しい。ただし後の祭りだ。

NEVER STOP,NEVER GIVE UP

花を愛でる。

家の中で仕事をしながらの週末をまた終える。ゴールデンウィーク(既に黄金週間とは呼べないが)は一体どのような事態になるのだろうか。そんなことを考えながら、企画や作業を行なっていた。そして雨が振りそうな、そのわずかな合間にクロヱさん(パグ♀3歳)の散歩へと向かう。

今も昔も特に草花が好きなわけでもない。どちらかというとひどい花粉症持ちなので苦手な部類にエントリーされているこの生き物たち。だが緑の葉や花びらを見ていると心が和む。この時期は特になのだが非常に美しい姿を僕に見せてくれる。そんな桃園緑道をてくてくと歩いていく。

4月も半ばなので桜の花はほぼ散ってしまっている(縁起でもない)が、代わりに多くの花が公園などを彩っている。この瞬間にいつも感じてしまうのが「日本人らしさ」だ。別に日本人だから花が好きで外国人だから嫌いということでも無いのだろうが、なぜだか僕はそう感じてしまう。

サッカーに関してもだ。セレッソ大阪のエンブレムに花が付いていて本当に幸せに思う。花を愛でる気持ちと人を思う気持ちは同様のものであり、そして、クラブを愛する気持ちはこれらの延長線上にあると確信が持てる。僕らのクラブは愛でるべき対象であり、愛し続ける対象なのだ。

散歩しているとよく分かる。やはりというか何というか黒パグは花とよく合う。コントラストがとても効いていると感じる。とはいえクロヱ自身が花を愛でているかどうかなど知る由もない。ただ、近くにそっと寄り添い、花の匂いを嗅ぎ、少し満足しているように見える。それでいい。

NEVER STOP,NEVER GIVE UP

「混雑レーダー」を使ってみる。外出しないけど。

GoogleマイビジネスでOITOの登録と蹴球堂の住所変更などの申請を行なっている。しかしながらこのコロナウイルスが原因でGoogle自体も相当な作業過多になっているのだろう。今のところまったく進む気配がない。仕方のないことであるので受け止めながら、早々の対応を期待している。

このGoogleマイビジネスで利用されている地図はもちろんGoogleマップだ。そのGoogleマップにはタイムラインという機能がある。僕はこのタイムラインを利用して、自分がどのような行動を取ったのか、どんな店に行ってどれくらい滞在したのかの記録を取っている。万が一のために。
何故なら今ひとりひとりが行動に責任を持つ必要があるから。いつも人だかりだった歌舞伎町や渋谷センター街がまるでゴーストタウンのような様子。ニュースを見てびっくりしているところ。医療関係の方々同様に、いつも楽しませてくれていた店舗の方々の気持ちを察すると胸が痛い。

Googleマップな生活をしていた僕だがこんな記事を見つけた。サービスの復活は素晴らしい。改めて思い出した。僕、株主だった。応援しないといけない。そんなことを思い、アプリケーションをダウンロードして「混雑レーダー」を試してみた。うん、なんかいい。外出はしないけどね。

ここ何年かで数多くのアプリケーションやサービスを終了させてきたこの企業。某会社との合併も話題になったが、これからは、更に「人」に寄り添っていく方向性を見せようとしている。(少し作りが古いと感じている)インターネットポータルはまだまだお年を召した方々には人気だ。

相変わらずニュースアプリはかなりの度合いで利用させていただいている。当然のことながらなかなか上手くいっていない(と感じる)事業もあるにはある。それでもこんな良いコンテンツも持っているのだ。今の非常に厳しい時期(株主総会でも相当な怒号が飛ぶ)を乗り越えてほしい。

話は戻る。人との接触を7割カットする行動が思いつかない僕は、こうしたアプリを利用して、まずは不特定多数の人多数のところには決していかない、長時間他人と三密状態を作らない。家族はどうしても仕方ない・・・聞いたら犬も感染するらしいじゃないか。いつも一緒に寝ているのに。

NEVER STOP,NEVER GIVE UP

サッカーにはレゴ®シリアスプレイ®が。

このような状況下でもあるから、レゴ®シリアスプレイ®のレの字もない(この表現は果たしてあっているのか)。先日も書いたかもしれないが取り急ぎブロックは洗浄して保管してある。いつでも使える状態にはなっている。だがワークショップを開催することができずに日々を過ごしている。

この新型コロナウイルス騒ぎの前にとあるサッカー関係の方々とレゴ®シリアスプレイ®のミーティングを行なう予定だった。お互いなかなか予定が合わないまま不要不急の外出自粛そして緊急事態宣言となってしまった。まずはなんとか話をするところまでは持っていきたいと思っているのだ。

個人的(認定ファシリテーターとして)にはサッカー選手にとってレゴ®シリアスプレイ®は向いているメソッドだと思っている。もちろんプレイヤーに創造性は多分に必要な要素なのだが、それ以上に、個人の隠れた才能やチームとしての関係性そしてもっとも重要なのはストラテジーだろう。

レゴ®シリアスプレイ®にはいくつかのアプリケーションが存在している。それらを駆使しながらリアルタイムに戦略策定やひとりひとりの指針を立てていく。ときには実際にレゴ作品を使って現実に近い形や飛躍的に考えてみたりする。高さを加えた三次元の構造物は人の理解力を高めていく。

結果が物を言うスポーツの世界。しかも、自由度が比較的高いサッカーにおいて優勝や上位をキープできるようなときは良い。だが、ひとたび降格争いに巻き込まれ、選手間もミーティングもぎくしゃくしがちななかでこそ、レゴ®シリアスプレイ®は絶大な効果を発揮するのではないだろうか。

実際はこんな簡単な言葉で片付けられるようなものではないのだ。複雑怪奇な世の中だからこそ、その複雑性のなかで活路を見いだせるメソッドが必要なのだ。なぜ、サッカーとレゴ®シリアスプレイ®の相性が良いと言えるのか。今後はそのような詳細なども書いていきたいと思ってしまった。

選手を中心としたワークショップだけでなく、OITOでも小さなイベントを開催していこうかと考えている。実施はもう少し先の話ではあるだろう。しかしながら僕自身は常にスキルアップに努め、来たるべきときが訪れるのを今か今かと待っているのだ。スタートダッシュの準備はできている。

NEVER STOP,NEVER GIVE UP

ジャージの「ありがたみ」。

東京でコロナウイルス感染者が増加している。100人を超えてからはかなり早そうだ。やはり3月の三連休のコロナ疲れによるものだろうか。考えてみれば僕はもう一ヶ月くらい外でご飯を食べていないような気がする。家でモソモソしているタイプとしてはそれほど苦でもない自宅三昧である。

基本、家にいても外にいても着ているものはジャージだ。家着としてのジャージとよそ行きのジャージを使い分けている。僕は古着はいけるほうなので、結構メルカリなどで購入したりするが当然買ってみて「ちょっと違うなあ」と感じてしまうものもしばしば。家着に直行となってしまう。

もちろん、上下もあれば上だけ下だけも存在しており、家の中はほぼTシャツ(まあNEVER GIVE UPとかBORN IN THE OSAKAが大量に存在する)とジャージで埋め尽くされている。だけどそんな生活がとても合っているなとも思うし、いくつになってもTシャツとジャージは止められないのだ。

ときにはジャージの上にジャージを着る「ジャージ・オン・ジャージ」なんていう手法も産み出したりもしている。ジャージの重ね着。これは皆さんにやってみてほしいと思う。そんな、戦闘服としてのジャージの「ありがたみ」を今日も感じながら、伸び伸びとフィット感を楽しんでいく。

NEVER STOP,NEVER GIVE UP

動画を見て感動した話。

緊急事態宣言から一夜開けた東京。やはり何となく人が少ない人気がない。仲間に聞いてみても電車などもかなりスカスカだという。宣言の威力が凄いのか、それとも人が凄いのか。僕的にはどこまで行っても人。災害時も感じるが「人間力」の素晴らしさではないかと感じてしまう。

それにしてもだ。少なく見積もってJリーグが開幕できるのは7月〜8月くらいになるのだろうか。当然この一ヶ月がほぼ何もできず(自主トレレベルかな)冬場のオフシーズンのような状況になるとすればそうなってしまう。僕らの楽しみもなのだが、選手のコンディションが気になる。

結構、過去のゴール集やスーパープレイを紹介してくれるニュースサイトを見たりして感動したりしている。先日見たのは、何歳なのか分からないが、往年のスター選手のゴールシーンを再現している動画。子供はどうしても苦手ではあるが、映像のなかだけだとありがたいと感じる。

ウェイン・ルーニー、クリスティアーノ・ロナウド、ディエゴ・マラドーナ、ロナウジーニョ、ティエリ・アンリ、デヴィッド・ベッカム、ロナウド、ロビン・ファン・ペルシー、フランチェスコ・トッティ、ライアン・ギグス、リヴァウドという錚々たるメンバーのオンパレード。

時間がそれほどあるわけではないのだが、まずはいろいろ見ておきたい。結構貯め置いている映像などを見ることにする。ちなみにこの動画だが、元トフィーズ(エヴァートン)の選手の子供たちらしい。何という嬉しいことなのか。面白いサッカー動画を見つけたら是非教えてほしい。

動画や映像だけでなくても、このような状況だからこそ、様々な情報を交換していきたいとも思っている。サッカーもそうだが生活もそうだ。ひとりでじっとしていても勿体ないなとも感じているので、この機会に多くの方ともオンでの会話を楽しみたい。「人間力」を磨いていくのだ。

NEVER STOP,NEVER GIVE UP

日常は変わっていくが人のつながりは変わらない。

ついに緊急事態宣言が発出された。僕的に影響が大きい対象地域は、OITOやサッカーショップ蹴球堂のある地元の大阪府と、いま住居のある首都、東京都全域に対してだ。まさにこれ以上の感染拡大を起こさない、重大局面を脱する措置がどれほどの効果を出すのかが焦点になってくる。

自宅の近所の飲食店の灯りが付いているところとそうでないところがまばらだ。明日からもどのような状態になるのかまったく想像がつかない。幸いにも自分自身はまだ症状などもないが、いつ発症し、誰かに影響を与えてしまうのかも分からない不安に更に拍車をかけていくかのよう。
宴会のときはいつも使わせてもらっていた中華料理店。テイクアウトもあるので今日久々に買いに行ってみた。オーナーさんと話した(ソーシャルディスタンスを保ちながら)がかなり大変だと言っていた。平常に戻ったらまた来るね、とお互い笑っていたが、心中を察すると胸が痛む。
日常が変わっていく。そんななかでも変わらないのが、人と人の関係性だろうなと改めて感じる。「すべての悩みは人間関係」だとアルフレッド・アドラー先生が語っているが、まさにこういう状況だからこそ人とのつながりを大事にしたい。僕はそんなことを酢豚を食べながら感じた。

昨日書いていたセレッソファンとの対談。やっぱり進めようかと思っている。今は対面は難しいとは思うが、ZoomやHangouts Meetなどを利用してでも、まずは少しずつでも動き始めたい。とはいえ対談ともなるといろいろ誰かに手伝ってもらいたいのもある。ちょっと先は長そうだな。

NEVER STOP,NEVER GIVE UP
※こいつだけは変わらず楽しそうだ

FOOTBALL CONNECTIONでつながる縁。CHANTと蹴球堂。

ついに緊急事態宣言が発されるのだろうか。東京、埼玉、千葉、神奈川、大阪、兵庫、福岡が対象になっているとのニュースを見た。期間は一ヶ月程度だろうか。ちょうどFC OITOのオープン予定日も含まれている。なかなか難しい選択になると思うが、粛々と準備は続けていきたいと思う。

今回、このコミュニティスペースがお好み焼き鉄板焼きCHANTとサッカーショップ蹴球堂でのコラボレーションから生まれたのは、多くの方も既に知るところだろう。改めて考えてみるとCHANTと蹴球堂は至るところでジョイントしてきた。その延長線上が今だと思うと感慨深いものもある。

元々は共に、コミュニケーションやイベントの場を提供してきた。そのなかでCHANTは飲食として、蹴球堂はアパレルを中心にその環境を育ててきたのだ。そしてこれからそのなかに新たに様々な文化が加わってくる。本然り、映画然り、音楽然り。まさにセレッソライフに彩りが加わる。

セレッソライフとは一体何なのだろうかとふと考え込んでしまうときがある。創成期のセレッソファンでも既に20年強の歳を重ねている。ある方も言っていた。今、クラブが存在しているのは、当時の方々がいたことも一助になっている。それをすべてのファンが認識すべきであるのだと。

海外のクラブを見ていると、オールドファンへのリスペクトの気持ちを非常に大きく感じる。日本の、Jリーグのなかでは、それが序列のなかでしか起こっていない気もしている。称賛されるべき方々はもっと多いのだが、僕の努力が足りなすぎて、それが伝わっていかないのも事実なのだ。

FC OITOにおける様々な仕事をしているなかで、構想として以前考えていた「FOOTBALL CONNECTION」という仕掛けを行なっていたのをふと思い出した。様々なフットボールのつながりを大事にしようとする取り組み。様々なサポーターをリスペクトしようとする取り組みだったと思う。

同じような気持ちになれるかどうかではあるが、やっぱり僕はすべてのセレッソファンを尊敬し、讃え、そして共に生きていくと誓いたいと思っている。そのFOOTBALL CONNECTIONの第一回目のインタビューが何を隠そう「お好み焼き鉄板焼きCHANT」だった。縁とはこんなもんである。

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※ということで、セレッソファン対談なんてものも始…

記録というものは無いよりはあったほうが良い。

別に今までと時間の流れが変わったわけでもないのだが、なぜだか本の進みが良い。ウダウダせずに手に取っている。やはり環境によって生活や趣味は影響されやすいことを如実に表している。この間(まあ早く終わってほしい)にどれだけ読破できるだろうか。ちょっとした楽しみだ。

この本。どうしても単行本サイズが僕は苦手だ。それほど手が小さくはないのだが居心地が良くないのだろうか手元から落ちそうになる。そういう理由もあり大半が新書か文庫本という流れになるので、小説などはしばらく待たないといけなくなる(どうしても読みたいものは、買う)。

この文庫本サイズは実に僕の手のひらににフィットする。手帳もそうだ。どうしても無印良品の文庫本ノートを買ってしまう。ご存知の通りひたすら書いたり(最近はiPadに下書き落書きしたうえで文庫本ノートに転記する)貼ったりする僕なので、段々と手帳が溜まっていってしまう。

時間があったので久しぶりに手帳を見直してみた。文庫本サイズの手帳で書き始めたのが2008年。東京に来て2年目だった。中身を見てみるとあるわあるわ。馬鹿げたことを書いていたり、どうでもいい新聞の切り抜きを貼っていたり。思い出に浸るつもりは毛頭ないが、とても懐かしい。

そこから現在まで辿っていくと、「ああこんなこと考えていたのか」とか「これは今でも面白いな」というアイデアもあった。記録というものは無いよりはあったほうが良いなととても感じると共に、そんな記録から役立つものが現れたりするのが非常に心地よい。大事なことだと思う。

以前とある書類の保持期限が過ぎたので処分しても良いかと訪ねたところ「記念に持っておいても良いと思う」と諭されたのを思い出した。もちろん場所や必要性とのトレードオフは重要だが、新たな発見につながる可能性も持っている。なので僕の部屋が片付くことは当分ないだろう。

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「終わりの見えない不安」。今やるべき蜂起。

すっかり忘れていた。2007年から東京に来て14年目に入る。また、墨田区から中野区へ越してちょうど一年。早いのか遅いのかもうそんなことすら思わなくなってしまった。身も心も東京の人になったわけではないが、住めば都という言葉もあるとおり、なかなか良い街だなと感じている。

とはいえ今、東京はかなりの状況に陥っている。人が多い分、感染の速度も速い。幸いにも身の回りに感染者がいないが油断はできない。このウイルスは約二週間後に発症するので、今自分がどうなっているのかすら見分けもつかない。なんだか非常に重苦しい空気が蔓延しているようだ。
考えてみれば仕事をしていても重苦しさのせいで手が止まってしまう。今までは途中途中でサッカーが見れたから良かったのだが、ストレスフルを脱する楽しみたちが手のひらからこぼれてしまっている。だが僕にはもうひとつの解消方法が残っていた。それが「幕末」というジャンル。

終わりの見えない状況はこの幕末期にも漂っていた。人々の心うちも不安でいっぱいになっていく。明治維新の原動力がこの「終わりの見えない不安」という要素だけでは決して無いのだが、人間はどうしても「先行き」にかなりのウェイトを置いてしまう生き物だ。今、この時代も同様だ。

大阪には幕末の史跡がそれほどない。それでもそこここに動乱期の爪痕が残っている。大阪城、天保山、四天王寺。鳥羽伏見の戦い後は主戦場が関東などに移っていく。終わりの見えない不安という点で見れば、少し遡るが「大塩平八郎の乱」か。いつの時代も見えてくるのは「政治と困窮」。

新政府が樹立して明治に入っていくわけだが、まずは「終わりの見えない不安」の払拭に力を入れたせいかかなり逼迫した状態になった。だが、その後に見せた日本の底力は、終わりが見えて少しずつでも未来に光が当たったからだ、と僕は思う。今、その光を、僕らは見せられるだろうか。

やはり歴史は面白い。幕末期案件にも関わらず「大塩平八郎の乱」が出てきたりする。天保の大飢饉を見て武装蜂起しかないという思い行動した大塩平八郎先生。これが正しいかはまったく分からないが、コロナウイルスに対して今やるべき蜂起が「家から出ない」ことであるのは、分かる。

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ドメインとGoogleアカウントがあれば。

当然というか、何というかこの週末も外出自粛要請が東京都民に出ている。お家にこもってやれることをやる、それだけ。確かに溜まっているものも多いがひとまずOITOのブログなどのWeb周りをなんとかしようと思う。ショップができていく過程での実況中継なども実に乙なものである。

このブログもそうなのだが僕の好みのベースはGoogle Bloggerだ。そのメンテナスが必要なのだ。サービスのライフサイクルが速いのでRSSリーダーやInboxのようになんの前触れもなく終わってしまう危険性がある(米国らしさの)Google。だが、やはり安定して稼働するのが非常に良い。

Bloggerの良さはやはりGoogleとの親和性だ。Googleアナリティクスなど含め、これからもっと連携を深めていきたいと思っている。こんなご時世だからこそだが、OITOの連絡網もGoogleを結構使い込んできている。どっぷり浸かってはいけないのがクラウドサービスの常なのではあるが。

もちろん、自分自身の環境も整備していかねばならない。今こんなサイトを簡単だが立ち上げるテストをしている。このページ実はGoogleサイトというサービスを利用している。当然ながらGoogleアカウントの範疇だ。ドメインとGoogleアカウントがあれば大概のことはできてしまうのだ。

厳しい状況だが、まだ緊急事態宣言は発令されていない。どんなレベルで判断すればいいのか、僕は頭が悪いので分からない。歴史的に見て既に国難のように思える。在宅勤務やテレワークだけでなくプライベートでも家に押し込められている今、ITの世界でも貢献していきたいと思っている。

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ペニャロール戦のフラッグで初心に返ってみる。

4月、という気持ちはほとんどない。なんだか慌ただしい毎日(と言ってもこの二日)を過ごしている。OITOも蹴球堂も準備がまだまだな上、期待とは裏腹に少々不安も先立ってきている。Jリーグのスタートも、先日の発表より更に遅れるのだろう。それでも手を動かしていないと落ち着かない。
以前から、体温を測り、血圧を測り、体重を測ってきた。更には食べたものなども登録している。そのおかげというとおこがましいが、測ることへの抵抗感もなく、ただひたすら測り続けている毎日が苦痛ではない。少しの変化も見逃さず、記録していくのは本当に大変だがやり続けていく。
ほぼ自粛を行なっている僕でも感染のリスクが皆無だとは絶対に言えない。自分が感染するよりも「うつしたくない」という思いのほうが大きい。注射により花粉は防げているが、常にマスクは付けるようにしている。「自分が良ければいい」ではこの状況は一生変わらないような気がする。
ついに、というか、我らがセレッソ大阪の選手にも新型コロナウイルスの感染者が出てしまった。当然のことながらクラブは活動休止になっている。今、誰しもが被害者になり加害者になり得る。僕自身もコロナ疲れが目に見えてきているが、若い方々にいたってはもっと感じているのだろう。
首都ロックダウンの可能性も現実味を帯びてきた。この前見たテレビでは「感染率よりも死亡率が重要」とも話しがされていた。起こる経済損失の大きさが影響しているのだろう。首都封鎖が起こってもこのまま自粛ムードが続いても、先の見えない状況自体が最も心折れそうになってしまう。
セレッソ大阪は最短でも11日から練習再開だ。まずは全員で感染の脅威を乗り越えていければと思っている。ひとりひとりの自覚。それがもっと重要になってくる(いや既にそうなっている)だろう。クラブのスタートとなったこのフラッグを貼っとく。まずは、しっかりと初心に返ってみたい。
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OITOと蹴球堂と「FOOTBALL」と。

各所で案内をしている関係でこのブログ読者もご存知の方が多いのではないだろうか。以前から書いてきた「新たな取り組み」をようやく形として公開できることになった。まだまだできているところできていないところ様々ある。しかしながらこの日を迎えられたのは、素直に嬉しい。

「Family」
家族はもちろん汗と涙を共に流したセレッソファミリーとの絆。そんな絆という糸と糸が集まるスペースがある。

「Osaka」
大阪の街に誇りを持つ僕らが見ていたいのは魂の叫びだ。大阪のクラブを応援する大阪の街のシンボルを目指す。

「OITO(8)」
僕らにとって大事な背番号である8。スペースに命名したこの思い。その思いがやがて無限∞へとつながっていく。

「Theater」
夢と希望の長居スタジアムと桜スタジアム。正にSweet Homeとも言えるこのふたつの劇場が間近に見える場所。

「Book」
学びの文化、学びの面白さ。そしてその学んだものごとを誰かのために活かす喜びを提供できる本との出会いが。

「Art」
芸術はいつの時にも不変であり普遍でもある。僕らの街が醸し出す美しさと調和の世界が目の前に広がっていく。

「Live」
声援や応援の美しい音色。窓を開ければいつのときもCHANTが聴こえる環境。音と映像に囲まれた熱気が溢れる。

「Life」
僕らは今ここに生きている。僕らは今ここから生きていく。人生は実に素晴らしい。We will always be here, ever…

これから僕らは多くの「文化」と触れ合っていきたいと考えている。こんな時期だからこそ少しでも僕らは元気を出していく。OITOと蹴球堂とその先にある「FOOTBALL」。光を探す準備をまずは4月30日から始める。そして”あの”5月27日へと向かっていく。4月1日はそんな一日になった。

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