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10月, 2020の投稿を表示しています

優しさとその先に。

ファシリテーターなるもの、常に学びがそこにある。今日も朝一番からリモートによる勉強会に参加していた。リモート越しはどうしても言葉尻が厳しくなる、または厳しいと感じてしまう。最大限の思いやりと優しさを持つ、を心掛けている。 いろいろなことを行ないながらのセレッソ大阪三昧だった。U-23の会心の勝利を見届けたあと、ひたすらファン感謝デーをYouTubeライブで見ていた。柿谷曜一朗選手の「これをやって本当に良いのだろうか」という葛藤が実に心に残っている。 いま、人の心が、どうも攻撃的になっているような風潮がある。何が怒りの原因なのかを見つけるのも難しい時代だ。そんななかで、あえてこのファン感謝デーというイベントを見れたことに、少しだけホッとした自分がいることも、否めない。 正直なところ、この手のイベントに行けたためしがない(という記憶しかない)。何となく「これは自分には合わないな」と、若い頃は思い込んでいた節もある。年齢を重ねるごとに、こういうものもクラブの大事な要素なのだと分かり始めた。 僕も何とか人に優しくなれてきたような気もするし、まだまだな気もする。コロナ禍も重なりイライラすることも多いだろう。だが、一歩立ち止まって、相手のことを少しだけでも思いやる気持ちを持てたなら、なんだか優しくなれた気になる。 優しさがすべてを解決してくれるわけでは無いだろうけれど、あれば幸せに生きられるかもしれないなと最近は日々感じる。そしてその先にセレッソ大阪が存在している人生ならば、これに勝る幸福など訪れないのかもしれない。僕はそう思う。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

ボイスメモの音。スタジアムの音。

今、ある資格取得に向けて、通信教育を受講している。テキストとDVDという時代を匂わせる手法で学んでいる途中ではあるのだが、記憶力ベースの学習はどうも苦手だ。もちろんまる覚えがすべて正しい方法ではない。知識は使ってナンボだ。 現在どのように勉強の仕方をしているのかというと、テキストに記載されている内容を漏らすことなく読み上げて、その内容をiPhoneのボイスメモで録音している。そして、ワンコの散歩などの際に、このボイスメモをひたすら聴いているのだ。 自分自身の声を聴くのは恥ずかしいことだ。しかしながら、気のせいではあるものの何となく聴き心地が良く感じる。年齢のせいか頭の中に入っていく率は若い頃に比べて落ちている。工夫でなんとか乗り切りたいのだが、どうなることだろう。 このボイスメモを使ってみて感じたのは声の音質や聴き取りやすさだ。あまり利用してこなかったアプリケーションなのだが、こういう使い方の際には非常にシンプルでかつ効果を出せるのだと僕は素直に思った。案外見逃しがちかもしれない。 先日行なったレゴ®︎シリアスプレイ®︎のワークショップ。ICレコーダーを忘れていて、映像と共にGoogle Meetで録音するのみとなった。やはり遠くからでもあったので、満足できる音質は満たせなかった。そのためレポート作成は困難を極める。 音とは重要なファクターだ。応援歌もそう。独りよがりではなく、選手と、スタジアムと、そして試合と調和していくことが必要だ。最近は動画配信にて事前確認が可能なので、しっかりと予習したうえでスタジアムでの応援を楽しめるだろう。 そして、試合を盛り上げる音楽という音。DJが奏でる声という音。サポーターが張り上げるチャントという音。やはりサッカーはリアル観戦が望ましいということを暗に教えてくれているだけではない。音は生きていて、そして、脳に刻まれる。 初戦は無観客、今回は声援の無い2020大阪ダービーマッチになる。この無音での環境を力に変えるのはどちらのクラブかなんて野暮なことは書かない。必ずやダブルを成し遂げてくれるはずだ。そしていつか、音のあるスタジアムへと帰りたい。 話は戻るがボイスメモ。難点もいくつかある。そのひとつが連続再生。3〜4分の音声をいちいち再生しなければならない。誰か上手い使いかたをご存知あればお教えいただければ幸いである。そんなこんなでまた

ヨーロッパチャンピオンズリーグを見る。

いかなる時代も、世の中は常に変わっていくのだが、僕ら人間はどうしてもその現実を受け入れられない場合があったりする。よく「バイアスがかかっている」なんて言われかたもする。この世は普遍的であり不変的であると勘違いしてしまう。 最近は、昔ほど(年に200試合以上は海外サッカーを録っていたのだ)は見れてはいなかったのだから偉そうには言えない。言えないのだが、今季からヨーロッパチャンピオンズリーグを見ることができなくなるのかな、とか思ったりしていた。 そんななかでヨーロッパチャンピオンズリーグをUEFA.tvで見ている。もちろん実況や解説は聞けないが、試合を見れる喜びを噛み締めている。欧州最高峰の闘いを楽しめるだけでもありがたい。しかも2020〜2021シーズンは無料なのだそうだ。 こんなことを書きたかったのではなかった。バイアスの話だった。やはりこの、凝り固まった考え方や、「この方法しかない」と思ってしまい可能性を否定していってしまう。こうなると柔軟さそのものを失っていき、新たな考えは露と消える。 世の中は変わるもんだ、永遠に続くものなど存在しないのだと考えていれば、出来事に対して都度都度めくじらを立てることも、無くなるのではないかと僕は思ったりする。そんなことを、フットボールを見ながら頭の中で回らす。今日この頃。 今しがた、非常に嬉しいことがテレビを見ていて起こった。バイアスを取り除いて考えに考えて出した答えが、時が経った今、形となって表れたことに本当に感動している。やはり、やっていることは間違えていないんだなとか思ったりしている。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

澪標。身を尽くし。

大阪市の市章、「澪標」が好きだ。航路を示す標識でもあるこのシンプルなシンボルマーク。時折セレッソ大阪サポーターのコレオグラフィにも利用されたりする。源氏物語の第14帖を代表として、古くから日本国内で愛される存在の「澪標」。 大阪市廃止・特別区設置住民投票。いわゆる「大阪都構想」の住民投票が、ダービーマッチ直前のまさに今週末に迫っている。様々なところで多くの議論や対話がされている状況でもある今。セレッソファン、サポーターの視線も注がれていく。 もしこの大阪都構想が実現するとなると、サッカーショップ蹴球堂にも幾ばくかの何かが降り注いでくる。まずは、少なくとも、住所が東住吉区から天王寺区に変わることになるらしい。事務的な手続きがどの程度発生するのかは、まだ不明だ。 それにより、現在登録している様々なサービスなども変更していかなくてはならないのだ。もちろんそれほど多くは無いのだけれど、とは言え手間がかかることには変わらない。考えただけでもあれとこれと・・・と少々多岐に渡りすぎている。 まあ蹴球堂はそれほどでも無いという結論でいいと思う。それ以上に感じているのが、考え方の違いだ。人間だから、いろんな思想があり、いろんな考え方もある。今回の大阪都構想も、賛成、反対、それ以外という選択はひとりひとり自由だ。 そこに「 セレッソ大阪」という象徴が、 僕らのようなファン、サポーターの考えと重なっていく。1993年。「大阪市にプロサッカークラブを作る」と掲げた言葉がリフレインする。このリフレインは賛成反対どちらに向けたものかも分からない。 「澪標」とは「身を尽くし」とも言われることがある。どんな結果が訪れたとしても、僕らのセレッソ大阪への身を尽くした愛は変わらないのだろう。だから、この街の行く末を見届ける必要が僕らにはある。まさに、身を尽くす、自分ごとだ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

「荒療治」という手もある。

寒いのにはかなり弱い身体を持っているのではあるが、この秋はとりわけ冷えている感がある。これが冷え性のせいなのか加齢のせいなのか、とんと見当がつかない。とにかくあったかくして寝ないと、風邪を引いてしまいそうな予感もある。 いま風邪など引いてしまったりするといろいろと辛い思いもあるだろうから、何とか薬の力を借りたりしてしっかりと平常を保っていく。それでも難しいときは「荒療治」という手もある。まあ最後の最後なので、その先は無くなってしまうが。 最近、セレッソサポーターの話題を聞く機会が多く、その大半が、いわゆる"良いほうじゃないほう"の内容だ。もちろん老若男女、いわれも由縁も無い間柄で集まって形成されているわけだから多少の問題はあるだろう。ギャップもあるだろう。 当然のことながら、当事者の方々が解決していかなければならないことが大事だ。その結果、代償として様々な反応があるやもしれない。いま、特に声での応援ができないなかで、チームの状況が良くないなかで、考えることは山積みだと思う。 人の気持ちなどうつろいやすいものだ。変わっていく、変わってしまうのは、世の常なのだ。「荒療治」をする必要は今のところ無いのだろうが、是非、より良いチームの姿を目指して前に進んで欲しいなとも思う。そのポテンシャルは、ある。 そういや、いよいよ、首と肩が使い物にならなくなってきた。僕のボディには「荒療治」が必要なのだろうか。五十路を超えてさらにガタが来ているこの身体を何とかしてくださる方を探している今日だ。とは言え、まだまだ通院は難しそうだ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

坂を登る。

先週、仙台を訪れた際、わずかばかりの時間があったので瑞鳳寺というお寺に行くことにした。仙台の絶好の気候に騙されて(!)何故か歩こうと思い立ってしまった。2キロの距離はそれほどなのだが、最後の坂道はまったく聞いていなかった。 バスで近くまで行って最後の坂を迎えるのと、そこまでの徒歩で疲れ果てた末の坂とでは、意味が完全に変わってくる。力尽きかけようとするその刹那、お目当ての史跡が見えてきて、ホッとすると同時に、足の力が抜けて座り込んでしまった。 シーズンもそんな険しい旅のようなものだ。いつもいつも最後の最後で急な登り坂が待っている感がある。どこのクラブも同様ではあるが2020年は特に、序盤も中盤も厳しく辛い。もちろんのこと終盤も急勾配を駆け上がっていく感覚でもある。 残り試合が一桁程度になってきて二位争いもますます混迷が深まっているJ1。疲れ果てて座り込んでしまうくらい、最後の最後まで走り続けていってくれると信じている。アップダウンの激しいこのシーズンは12月までまだしばらく続いていく。 だから、まずは、目指すべき場所に向かって、一緒にこの坂を登っていこうではないか。へたり込んでしまったら、共に立ち上がろうではないか。僕らはそうやって三十年近く、この険しい坂を目の前にして、気持ちをひとつにしてきたはずだ。 さて、話は戻るが、この瑞鳳寺には西南戦争に関する史跡がいくつかある。明治維新はこの明治十年の日本最後の内戦で締め括られているとも言われることがある。この、多くの命が犠牲となった戦いに馳せる思い。ここでも多くの坂があった。 いつの時代もこの「坂を登る」という時間と共に生きている。登り切った先には、また新たな坂が待っている。だが、僕らはまたその坂にチャレンジしていく生き物なのだなと、改めて実感している。当然のことながら下り坂もマサカもあるが。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第24節 浦和レッズ戦。

もうこれで、正真正銘の最後となるのだろう。三勝三敗三分けというまったくの五分で迎えた、十回目のU-23大阪ダービーマッチ。感情に浸りながらその試合を見ていた。結果的にはこれで良かったのかな、と思ったりする自分も存在している。 それにしても昨日の浦和戦。 今日の「これぞダービー」と感じてしまうくらいの熱い試合を見てしまった以上、 書くことがとても少ないゲームだったなと感じてしまう。二位を目指す情熱を見せたかと思えば次節ではこんな試合になってしまう。 まだまだ真の強さが身に付いているわけではないのは重々承知している。今年の変則的なリーグの恩恵を受けているのも重々承知している僕ら。だからこそ一試合一試合に重みがある。その目の前の試合を大事にできるかどうかにかかっている。 そのなかで非常に印象の薄い試合になってしまうのが非常に口惜しい。次の大阪ダービーマッチでその鬱憤をすべて晴らすことができるだろうか。僕はもちろんテレビ観戦になるのだろうが、今日のU-23のように記憶に残る戦いを見せてほしい。 さて、ゴール裏サポーター(今は集まることはできないけど)の話を色々と聞かせていただいた。書けるような内容では無いのだけれど、この状況において目的をひとつにチームを導けるファクターのひとつがゴール裏のウルトラだと僕は思う。 ウルトラのひとりひとりが真剣にセレッソ大阪と向き合って、応援だけではなく、真のサポートが見えることを願ってやまない。あと、感じたのだが、やはり太鼓は、スタジアムをひとつにするための道具なのだな。そのためだけにあるのだ。 うちの太鼓打ちも多分こういう試合からそんなものを学んだのではないだろうかと推測する。太鼓打ちとは、叩きたいから叩くのではなく、スタジアムを声を拍手をひとつにする覚悟の上に存在する。二十数年の歴史。そんなに甘くはないよね。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

「フロー」と「シナジー」。

今日の浦和戦については改めて書きたいと思うが、ひと言だけとすれば勝てないまでも負けない試合だったように思える。どうも体力よりも気力の面で後手に回っていた感も正直あった。天皇杯、その先のアジアの舞台は一筋縄ではいかない。 体力よりも気力のほうが上回っている感覚。そんなものを感じてしまう瞬間が年に何度かある。モチベーションを高く保つこと、そして自分自身の持つレベル感。その相乗効果「シナジー」。まさにチクセントミハイの「フロー」のようだ。 仙台では、本当に久々なくらい「フロー」な状態で四時間半のレゴ®︎シリアスプレイ®︎ワークショップだった。リアルな環境なので新型コロナには充分に気をつけながらファシリテーターを務めてきたのだが、それらを上回る充実感が半端ない。 今回、チームのストラテジー(戦略)を描いていくワークショップに近かった。そんななかで、参加者の方々のモチベーションがスキルビルディングから本番に向かうにつれて高まっているのが手に取るように分かった。まさに「フロー」だ。 そんな参加者に触発されて僕自身のテンションも自然と上がっていく。どんどんと作品が増えていき、どんどんと言葉が生まれていく。どんどんと作品たちがコネクションされていき、進むべき方向性のタネが植えられる。そして育ち始める。 新しい方向性を見つけたいと真剣に考える組織、モヤモヤした思いを表現したいと思う参加者。そこに極上の情熱を持ったファシリテーターが加わることで、極上のステージが成り立っていく。そんな一端を感じられたワークショップだった。 だから僕は、気力の低下というものに対して、早くレゴ®シリアスプレイ®のワークショップを行なってみたいと思っている。レゴブロックによる「フロー」を体験することで見えるものは思いのほか多い。僕は「シナジー」を生んでいきたい。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

杜の都へと向かう。

仙台に向かっている。先日書いたとおりレゴ®︎シリアスプレイ®︎のワークショップ。久々すぎるくらいのリアル環境なのだ。もう、今となっては何がリアルで何がリアルでないのか分からなくなっているが、それでもこのリアルの良さを追求したい。 かなり毎月のように新幹線に乗っていた感覚なので、非常に新鮮さもある(そう言えば七月に大阪に行ったのを思い出す)。答えの無い、答えに近い何かを導き出すための旅は、いつのときにも心が引き締まる。このピリピリ感が実に心地良い。 GO TOの関係なのだろうか、かなりの乗車率に思える。旅はやはり、人の心をくすぐる。出会い、一期一会かもしれないが、心が大きくなるという観点だけでなく、違う場所に住む者同士が時間を共有するというところに、僕は惹かれてしまう。 アウェイも同じだ。もちろん既に30年近くリーグが存在し、何度も訪れたスタジアムだってあるだろう。だが、行くたびに新しい何かを感じられるのもアウェイの良さでもある。だからこそJリーグサポーターは、選手を追いかけどこまでも行く。 仙台でも、また新たなる出会いが見つかるのであろう。そうやって人は強くなっていく。支えたり支えあったりして僕らは生きている。そんな旅になることを思いつつ、今日のワークショップのストーリーを見直す。落ちそうになりながらも。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

鼻の異常を乗り越えて。

寒くなったり暖かくなったりしている関係だろうか、花粉の痒さとはまた違った形で、鼻が異常を訴えている。だが、三月に打ってもらった注射のおかげだろうか、秋の恒例行事は比較的楽に過ごせている。医療とは素晴らしいと感じる瞬間だ。 そうは言いながら、やはり、病院が苦手なのは子供のころからまったく変わらない。だがそれは、お医者さんが怖いという感情からなのではなく、まさに「病院に行くのが苦手」という言いかたのほうが、この場では正しいのではないかと思う。 それでも、何度も(実のところ、幼少期や少年期は病弱だった)お世話になっているわけでもあるのだ。だからこそ医療関係の皆さまにはいつのときも感謝の思いしかない。そんな気持ちが頭の中と心の中を駆け巡るという感情が、常にある。 今、とある事情があり、少し医療関連の勉強をしている。まったくのお門違いも甚だしい状況のなかであがいてもがいている五十歳。集中力が保たれているのも注射のおかげだと思う。正直、足を向けて寝られないな、とか本気で思ってしまう。 今日たまたまKING KAZU三浦知良選手の話題になった。何となくだが、アラフィフを迎えて、そして超えてからのボディケアが大事なのだなと感じてしまった。カズ選手がサッカーのプロフェッショナルなら、僕は、別の形のプロを見せていく。 健康に留意しながら、常に何かを学び続けなければならないのだなと肝に銘じる。兎に角、前に進むしかないと改めて決意を固める。さあ、明日は杜の都でレゴ®︎シリアスプレイ®︎のワークショップが待っている。鼻がもってくれればいいのだが。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

「CIA」。

当然ながら物事は始まりと終わりがある。それは「終わりの始まり」かもしれないし、逆に「始まりの終わり」なのかもしれない。如何なる場面においても同様で、常に意識ていかなければならない事項。今、この部分が希薄になりかけている。 もちろん、すべての状況、すべての世代においてそうだと言い切れるものでも無い。ただ、少しずつ、そう感じられることが多くなっている気もしている。今回はそんな微妙なニュアンスを中心に僕に訪れている気もするのが率直な感想である。 さて、それを情報セキュリティ的観点で見たらどうなるのか。情報セキュリティには大きく分けて三つの要素があり、それを「CIA」という。機密性(Confidentiality)完全性(Integrity)可用性(Availability)の頭文字を取っているわけだ。 この、どこかの国の機関のような言葉になっているCIA。情報セキュリティのなかでバランスよく配置されていることが良しとされている。しかしながら偏りというものは必ず存在する。だからこそ定期的に確認しPDCAを回すことで精度を保つ。 機密性に偏ると、不必要な安全策などに走ってしまう。例えば、あるアプリケーションは256桁のパスワードがデフォルトだったとする。そうなればほぼパスワードを破られる心配は無いが、とてもじゃないが管理しきれないと言い出すだろう。 さらには、完全性を担保していくことも重要だ。すべての環境、すべてのデータを一言一句違わずにバックアップする。入力された内容が改竄されていないことをどのようにして証明するのか。その設備はどの程度必要となってくるのだろうか。 最後に可用性である。この要素については某クラウドサービスも数時間から数十時間停止を余儀なくされる時代だ。後付け後付けのサービスなどではもう障害がどのポイントで発生しているのか、見分けることすら困難を極めるのかもしれない。 そんななかでも僕らは可用性を重視しがちだ。もちろん課金されたサービスを利用するわけで、使えない時間があればあるほどユーザーサイドの不満は増えていく。なので、最近では、機密性と完全性を保ちつつ、動き続けることに重点を置く。 しかしこれはあくまでも「情報」という観点であって、生身の人間となるとそうはいかない。CIAと同じようにただ可用性に寄せていくだけでは駄目なのだと思っている。そんなことを思いなが

組織の信用と信頼と。

僕のような吹けば飛ぶような存在も人間。そしてプロサッカー選手のような華やかな方々も同じ人間だ。その人間が社会で生活する様は皆同じで、人間を人間たらしめるという点では一般人も偉い方も、もちろんサッカー選手であっても同様だ。 Jリーグが絡んだ残念なニュースを見るとどうしても他人事に感じられなくなるのが僕らサポーターでもある。試合ではお互いの威信をかけて戦うのだが、終了のホイッスルが鳴ると敵味方関係なく、サッカーが好きな「アミーゴ」になるからだ。 もう一度書いておく。僕らは人間だ。サッカー選手である前に、また、サポーターである前に、ひとりの人間なのだ。生を受けて、命尽き果てるまで、僕らは人間であることを意識して生きていかなければならない。それが、課せられた宿命だ。 しかしながら、どうしても、ひとりではどうしようもないこともこの世の中には多い。だからこそこの世には組織というものが存在して、仲間同士で高め合う。道に迷ったら手を差し伸べ、道に逸れたなら軌道を戻す努力を行なう。それが組織。 そこには信頼というものがある。人間など非常に曖昧な生き物だ。なので、信用ではなく信頼なのだ。信用は一方通行だが、信頼は相互の関係が無ければ成立しないと僕は考えている。そういう意味で、人間と組織は信頼関係を持つ必要がある。 信頼とは、築くときにはものすごく困難だが、崩れるのはまさに一瞬の出来事だ。だから信頼している信頼されていることに誇りを持つ。その信頼を互いにアップデートしていく。それこそが人間を人間たらしめる行動なのではないのだろうか。 特に何かができるわけでは無いのだが、某クラブにレゴ®︎シリアスプレイ®︎を提案しているのも僕なりの理由がそこにはある。人間は強い。強く見える。そして人間は弱い。どうしようもないくらい人間は弱い。僕自身、それをよく分かっている。 その人間の弱さを支えるために組織というものは存在するのだ。お節介と言われるかもしれない。薄っぺらいと言われるかもしれない。こういう人間がいるのだと、少しでも届いてくれれば。だから、今ここに「止まらない、諦めない」を贈る。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

WEリーグと「育成のセレッソ」の関係。

「育成のセレッソ」と言われ続けてきた。もちろん初めからそうだったわけでもなく、この長い期間を経てたどり着いたと言っても過言では無い。当然のことながら選手たちも人間。常に、我がクラブだけでプレイしていくだけが人生ではない。 僕らには「アカデミー史上最高の選手」などという派手な称号も必要ではなく、セレッソ大阪のDNAを持って、世界へ、そして他のクラブでプレイし続けてくれることが幸せでもある。現にそんな選手たちでサッカー界が満たされているのだ。 様々なところで話しているのだが、ハナサカクラブの前身の件で当時のクラブスタッフの方と話ししていたのがたしか2004年から2005年くらい。その前からも多くの場面でアカデミーをサポートする体制が整っていたのがセレッソサポーター。 その後、日本代表選手の育成や、なでしこリーグ参入という大きな目的を持ち、セレッソ大阪堺レディースがスタートした。この桜なでしこも、多くのサポーターに支えられて、日本のトップリーグで互角に戦えるほどの力を持つことができた。 10月17日。日本女子プロサッカーリーグ、通称WEリーグで参入を発表されたなかに、セレッソ大阪堺レディースの名前は存在しなかった。どういう経緯かなどは知るよしもないが、何となくデジャビュを感じてしまうのは僕だけではないだろう。 様々な書き物を見ていたら、青田買いの真っ只中に位置しているような感もなくはない。長年見続けてきた方のことを思うと何とも言えない気持ちになる。より高みを目指していく選手がいるはずだし、そうなるための育成でもあったとはいえ。 この先がどうなるかは僕ごときに分かるはずもない。しかしながらこれからも彼女たちの成長を見届けていくのだろう。色々な面で時間もかかることは間違いないが、素晴らしいこのチームの良さが前面に表れるような状況に期待をしている。 そんななかで、今日からトレーニングキャンプに入ったなでしこジャパン(候補)に、四名もの桜なでしこのメンバーが参加している。まずは素直に喜んでいる。存分にその存在感と才能を遺憾無く発揮して、これからの未来を支えて欲しい。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

マージーサイドな週末。

映画「アウェイデイズ」を見てきた。端的に言うと1970年代後半のフットボールにおけるフーリガンを描いているので、何となく自分たちに重ねてみたりしてしまう(僕はフーリガンではないのだが)。見て欲しいと感じる映画のひとつである。 昨日、勝利での浮かれ気分でそのまま勉強をしていて、すっかりマージーサイドダービーを忘れていた。そんなこんなで今朝見切ったのだが、トフィーズは、王者リヴァプールに対し一歩も引かない戦い(最後は結構なヤバさだった)を見せた。 ドローという結果は少々残念でもあるがまだ始まって間もない今シーズンでもある。死ぬまでに一度は訪れたいと思っているグディソンパークと街の風景が何度もモニタ内に映し出される。美しいフォルムと周りの屋根とのコントラストが良い。 ハメス、アラン、ドゥクレの新加入選手も素晴らしいが、特にドミニク・カルバート=ルーウィンの強さに目が行く。プレミアリーグで開幕から五試合連発。ここからどこまでチームが走り続けることができるかは、正直彼にかかっていると思う。 ところで、話は戻るが、前述の映画「アウェイデイズ」。エヴァートン、リヴァプールと、マージー川を挟んで反対側が舞台なのだ。そんな偶然な週末も時には素敵である。昨年幸か不幸かイギリスに降り立った際に足を伸ばせば良かったかも。 こんな話、サッカーが好きじゃない人にはまったく面白くもない内容。そんな文章になってしまっている。まあ、自己満足の極みのようなブログでもあるのでご容赦いただきたい。また、少しでもサッカーに興味を持っていただけたなら幸いだ。 あ、そう。映画「アウェイデイズ」については改めて書いていきたいと思う。日本でも少なからず様々な問題も発生していたなと今でも思い出される。「若気の至り」で収めてはいけないような内容もあったな。自戒の念も込めて、いつか書く。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第23節 横浜F・マリノス戦。

何事も「相性」というものがある。仕事もプライベートも何もかも、この「相性」に左右されるところがあったりもする。そして難儀なのは、この「相性」は生き物であり、良くなったり悪くなったりしていく。そんな性格をもっていたりする。 セレッソ大阪との「相性」。これは、スタッフも選手もファン、サポーターにもある。今の戦術に合う合わないもある。そして、サポーター同士の「相性」というものもあるだろう。もちろん、目の前に立つ、対戦相手との「相性」も存在する。 今日、横浜に四得点で勝利した。このカード、実は長年に渡って負けていないのだという。何だかそんな思いは全く無い。逆に良い思い出は少ない感もあったりする。古くて恐縮なのだが1994年の天皇杯準決勝から続いていて、好試合が多い。 この試合からなのだろうか。アウェイチームのサポーターもスタジアムに入場できるようになっていた。やはり、こうでなければ盛り上がらないと思う。雰囲気も上がった感がある。雨は少し邪魔だったが、ちょっとずつ、らしさが戻ってきた。 それにしても四得点すべてが質の高い素晴らしいゴールだった(相手の18番のゴールも)。特に怪我から帰ってきた豊川雄太選手の2ゴールは垂涎ものだった。僕はループよりも二点目の、キーパーをこかしてからの逆、が大好物でもあるのだ。 決して「相性」が良いとは言わないが、右サイド(相手の左サイド)は今季の二試合を見る限りでははっきりと言えてしまうかもしれない。しかしこれも「生き物」だ。ある日突然変わってしまうはず。なので、今日は良かった、と思っておく。 試合後に水沼宏太選手と扇原貴宏選手がセレッソゴール裏のサポーターに挨拶に来ていた。こういうシーンがとても心に来る。この二人は、いつかまた一緒にセレッソ大阪を強くしたいと思える選手だ。やっぱりJリーグという環境は素晴らしい。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

欲というもの。

久しぶりにジャージのセットアップを三セットも買ってしまった。アディダーの僕ではあったのだが、年齢が上がるにつれてアディダスへのこだわりが少なくなっていき、今ではマルチブランドも問題なくなってしまっている。どうしたものか。 ジャージが普段着である僕としては、ショップで買うのと同時にメルカリなども活用したりしている。新品そしてビンテージものの中古も探したりする。あまり物欲があるほうではないのだが、ジャージを探すときだけは、獣の目になっている。 この「欲」という生き物。欲を待ち続けることでモチベーションが上がる場合もある。もちろん、「強欲」という言葉もあるので持ち過ぎるのも良くないのだと思う。その点、そのようなこだわりが比較的少ない僕は勝ち組と呼べるのだろうか。 逆に、欲が少な過ぎる若者もいたりする。「もっとやってみればいいのに」と感じてしまうシーンが多々ある。臆病ということでは決して無いのだろうが、なかなか一歩が前に出せていない。今日もそんな方にいろいろとアドバイスをしてみた。 そのすべてを欲というキーワードだけで片付けていいかどうかではあるが、若さゆえの思い切りも時には重要だ。セレッソ大阪の若手も、もっと欲を持って前面に出ていって欲しいなと思う。今日も二種登録のニュースが来た。非常に楽しみだ。 そう言えば敗れたものの、NEXTの前節福島戦での小河詩朋選手のゴラッソにかなり感動した。次へのステップとしての欲をしっかりと見た気がしたのだ。トップへの階段と言うと失礼にあたるが、未来に向けての一歩一歩を着実に進んで欲しい。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP これは食欲の塊という

セレッソサポーターは昔から対話のなかで育まれてきた。

「対話」と「議論」を語る場面が、最近は多くなっている。もちろん僕が目指しているのは老若男女問わず意見を言い合える「対話」というフェーズ。しかしながらこの対話が上手くできない方も意外と多い。だからこそ僕は常に意識している。 ここ数日いろんなセレッソサポーターから連絡があり、非常に嬉しい気持ちで一杯だ。やはり僕らはいつもどこかでつながっていて、セレッソ大阪を中心に回り続けている。サッカーだけがすべてじゃないが、無いと生きていけないのも事実だ。 そのなかには、ベテランもいれば若手もいる。そんな社会の縮図のような状態のサポーターのつながり。この世界を感じたことの無い方には少々分かりづらいのかもしれない。Jリーグが、そして、セレッソ大阪が存在したからこそ巡り会えた縁。 その縁がさらに縁を生んでいく。その姿を側から見ているそれだけで、気持ちが穏やかになっていく気がしている。家族(サポーターは家族だ。だがあくまでも親族という意味で)でも仕事でも趣味でもない、それらを超越した存在であるのだ。 そういった縁のつながりで「対話」が数多く存在する。クラブのこと、応援のこと、アウェイのこと・・・セレッソ大阪におけるすべての事柄において正解も間違いも分からないからこそ、常に仲間同士で意見のぶつかり合いが行なわれていく。 僕は敢えて「アミーゴ」という言葉をよく使っている。なんだか「共同体感覚」とはこのことを言うのではないか、とよく思う。良いことばかりを共有するだけでは、そのような関係は生まれないのだろう。気持ちのつながり、はこれでもいい。 だから仕事場や学校、家庭において少し窮屈になっているなら、一度スタジアムに来てみてはどうだろう。サポーターと一緒に応援してみると、何か気持ちの変化が生まれたりすると思う。その気持ちの先に「アミーゴ」との出会いがあるはず。 そして、今、僕は、より多くのセレッソサポーターと話をしたい。そんな思いが心の中に溢れている。どんな些細なことでも支えになれるのならばとも思っている。セレッソサポーターは昔から対話のなかで育まれてきた。今一度、考えてみたい。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第22節 湘南ベルマーレ戦。

勝つときは不思議な勝利があり、負けるときには必ず理由があるのが世の常ではある。何度も書いてはいるのだが、Jリーグには上も下もなく、順位などはただ並んでいるだけだ。奢ることなく、逆にリスペクトし過ぎない。「普段通り」が良い。 全体的に我がクラブの"良さ"を消され続けた90分間であった。なかなか流れに乗れないところも多かった。その流れのなかで聴こえてくる応援の声と、スタジアムをぐるっと囲んでいる多くの横断幕に支えられているのだろうな、と強く感じた。 こういう、どうしても上手くいかない試合の勝敗を分けるのが、ピッチを包み込む雰囲気と、勝利への飽くなき執着心なのだと僕は思う。もちろんひとつひとつのプレイに対して言いたいことも多いとは思うが、だからこそ、必要になってくる。 怪我人も多くなっているなかで、サポーターがどれだけピッチ上での"12番目の選手"になれるかどうか。厳しい試合になればなるほど大事だ。やるべきことを「普段通り」にやれたならば、それほど悲観的に考えることばかりでも無いのだろう。 上位は軒並み勝ち点を伸ばしている。だが今やらないといけないのは、チームが一体となった今日のような魂のこもった試合。勝ち点はあとからついてくる。僕はそんな気がしている。だからクラブのサポーターでいることに誇りを持っている。 試合終了後のDAZNの映像を見ている。ファンそしてサポーターの方々の幸せそうな顔を見て、本当に素敵だなと感じた。「普段通り」のスタジアムの光景には程遠いが、それでも僕らにはJリーグがある。勝っても負けても不思議と幸福なのだ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

史観。

セレッソ大阪の過去の試合を思い出そうとして、いろんな情報が入り混じってしまうケースが多々ある。ゴールを決めたのは誰だったか、あのとき退場になったのは?これだけ見てきても誤った歴史観を持つことも多い。人の記憶など不確かだ。 先日、あるアミーゴと歴史の話になり熱く語ってしまった。どうしても幕末の話になると止まらなくなってしまう。この時代の話題では「新政府」と「幕府」に分かれてしまう。だが人物的に見た場合、どちらにも素晴らしい方がいらっしゃる。 ご存知の通り、子供の頃から坂本龍馬が好きだった。このどちらにも当てはまらなかった。脱藩浪人という響き。組織の枠にとらわれず自由奔放に生きる姿。非業の最期を含めて憧れていたが、それがいつからなのかも、ほとんど覚えていない。 歳を取り、様々な文献に目を向けてきた結果、多くの疑問や謎が溢れ出してきた。情報操作されているとまでは言わないが、実はそういった見方をするように流されていたのかもしれない。現に、教科書から名前が消えるなんていう話題もある。 ようやくこの流れの中で自分自身の史観も固まってきたような気がする。たかだか150年前の歴史ではあるのだが非常に難解だ。だからこそロマンがあり、そして人の気持ちを掻き立てさせる。こんな文章を書いていたら、一生終わらないだろう。 だからこそ、ずっとおざなりになっていた「幕末を語る会」をそろそろ進めていきたいと思っている。仲間が集まらないこと必至ではあるのだが、たったひとりでも考えていこうと思う。やはり第一回目は「坂本龍馬暗殺の犯人は誰か?」かな。 「龍馬裁判」という映画がある。いろいろと考えさせられるし、加治将一先生(監督)の小説が好きなので、それだけでもありがたい。自分の考えと合っているかと言われると疑問符以外出ないのだが、様々あっていいのが人それぞれの史観だ。 話は戻るがセレッソ大阪の歴史を振り返る時間があれば、遠い昔の映像など見てみたいなと思う。ゴールシーンとかだけでなく、歴史の影に埋もれそうな一面なども拝見できればなお嬉しい。クラブが何か考えてくれないかと、少々祈ってみる。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP もう3年も前なのか・・・

最新のGoogleカレンダーは程よく無駄を削る。

寒暖差アレルギーなのだろうか。かなりのくしゃみっぷりで辛い週末だった。それ以上に辛い思いがふたつもあってなんとなく中和されている感もある。歳を取れば取るほど何らかの違和感に悩まされる。この世界には希望も、それ以外もある。 そんな世の中での暮らしをほんの少しでも良くしていこうと日々努力しているが、なかなか上手くはいかない。だからこそ、時間の流れだけでも自分の味方にしようと、 様々なツール、アプリケーションを駆使しながら 工夫していく毎日なのだ。 無駄にしている、いや正確に言うと無駄にしていることに気づけていないのが実情だ。例えばだが資料を検索する時間は一日20分と言われている。年間で80時間も費やしていることになる。時間をどのように活かしていくのかにかかっている。 紙よりはましにはなったが、データを検索するのもコツを知っているのと知らないのとでは天と地ほどの差だ。ITの力を活用することこそが、これからの時代を生き延びれるのではないかと思えてしまう。だが、すべての方が、そうはいかない。 業界にいる身として、Googleカレンダーの利用を奨めたいと思う。最近このGoogleカレンダーのモバイルアプリがアップデートされてより便利になったのだ。これでスケジュール、ToDoリスト、リマインダーをすべてを網羅できるようになった。 これにより僕は、Gmailで受信したメールをToDo化して登録することでGoogleカレンダーに追加する。日時を設定して気づきと適切な実施を促す。リマインダーは作業というよりも、準備に気づきを与える。これにより早め早めの行動が可能だ。 どのように日時を決めていくのか。ここで「7つの習慣」が役に立つ。この駄ブログでも再三書いてきた「重要性」と「緊急性」。このふたつの要素を意識して、時間を設定していく。同時に自分自身の学びとして「ゴール」機能も積極的に使う。 今までバラバラの確認が必要だったわけで、ぶつ切りで細々と無駄にしていたこの部分での時間短縮は本当に素敵なことだ。これで生活のすべてをGoogleカレンダーで賄える。この日が来ただけでも自分がアップグレードされた気持ちになった。 コツコツと無駄を削ってみたら、なんと自己研鑽に利用できる時間が増えていった。「時間ナイナイ運動」とはもうおさらばだ。最近はトラブルも多いGoogle(Gmailが止まるので少々辛

「今」、思ったことを書いてみたが、まとまっていない。

ここ五試合で一勝四敗。失点も二桁にのぼっているわけだ。「何かを考えないといけない」とクラブが監督が思ってないわけがなかろう。僕らはクラブを信じて未来を歩む以外ないのだが、言いたいことも言えないこんな世の中なのもpoisonだ。 スタッフや選手と比べたら「 クラブの歴史」という観点で見れば僕らサポーターのほうに 利があるのだろう。だが、今この瞬間を戦うのはあくまでも彼ら。その彼らを信じられないのであれば、ここにいる理由は一体何なのだろうか、となる。 考えてみたらこういう負け方など、この二十数年間には数え切れないくらいあった。慣れっ子になるのは癪なのであまり書きたくはないが、たかが一試合の話でもある。敗戦の無いシーズンなどあり得るわけもなく、常に勝負とはそういうもの。 とは言え、この一戦にすべてを賭けているファンやサポーターもいるにはいる。そんな場面を何度も見て、共に泣いて笑って僕らは生きてきた。そういうものが歴史であって「長いから」「短いから」だけが点のように重なってきたのでは無い。 僕らは常に点ではなく一本の線でつながっている。その線のところどころに「今」が存在しているのだ。過去も大事。未来も大事。「今」も大事。その線が結ばったり絡まったりした先でふと振り返ると、刹那の連続が歴史として紡がれている。 僕はいつもそんな場面を回顧しながらセレッソ大阪と付き合っている気がする。人間の一生は長そうで短い。セレッソ大阪の歴史の中で考えれば、シンクロする時間などほんのわずかだ。だからこそその一瞬にすべてをかけるのが僕らの使命だ。 僕は思う。今、改めてセレッソ大阪サポーターとしての立ち位置を考えるべきだ、と。何度も何度もこんなことを書いていく。そして伝わるべき人に伝わること。考えてほしい人に届くこと。切に願いながら書き続けるのだ。多分、死ぬまで。 分かってくれる人、分かってくれない人。いるだろう。当然ながらゴール裏にいる身内にも理解できない人は存在するはずだ。それでも、やれることをやっていくだけ。この横断幕は常に僕の胸の中で張られ続けているのだ。多分、死ぬまで。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第21節 名古屋グランパス戦。

今、また、とある勉強を始めている。まずはテキストを読み込むところからスタートした。今後のためにも手に入れておきたい知識でもあるし、必ずや次のステージで活かせるはずだ。先日も書いたが、道具は武器は使ってこそ価値があるのだ。 東京は大雨が続いている。さらには気温がかなり低く、家から出るのも億劫になる。とは言え家の中は中で極寒。ちょっと風邪を引いてしまいそうな予感。とにかく今日は14時のキックオフでもあったので早めに気持ちを切り替えることにした。 それにしても何かを「学び」という行動は人間としての責務であるのかもしれない。数値で表せなかったとしても、少なくとも去年よりも今年は成長しており、来年になれば今年とは違ったものを見せていくことになる。それが人間なのだろう。 仕事においてはそれが顕著だ。それが垣間見れずに去年と同じことができただけでは、もう評価に値しなくなる場合もある。30年以上にわたり働いてきて、加えて20年近く人を見る立場にいる身としては、この割合がとてつもなく大きいのだ。 サッカー界においても同様だと僕は常に思っている。もちろんチームとして上手くいかないケースもあるにはある。結果は水物でもあるわけで、そこがすべてでも無い。だが、すべての関わる人が昨年とは違った姿を見せてくれない場合がある。 この敗戦のショックがデカすぎる。「勝敗は兵家の常」とは言え、痛みがしばらく残る。あの場面でボール奪取されたことは非常に残念だが、それ以上にシュート数4コーナーキック1では話にならない。むしろ僕的には敗因はこっちだと感じる。 このショックを払拭する出来事もあまりないのだが、先日嬉しい連絡をもらったことを思い出しながら次へ行こうと思う。昨日より今日。今日より明日。セレッソ大阪と僕らの旅はいつまでも続いていく。だから今日のことも「学び」でいい。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

久々の日本代表戦を見て。

やりたいことが先にあって、そのあとにやりかたや道具がついてくる。すべてはニーズが語りかけてくる言葉に耳を傾ける。やりかたや道具はあくまでも"手段"であって"目的"ではない。やりたいことの実現。そのための方法を考えるのが仕事。 久々の日本代表戦をテレビを見ている。史上初の「オール海外組」というなかで我らの「帝王」南野拓実選手が10番を背負っているのが感慨深い。ここから2022年のカタールワールドカップに向けて国内組を加えたサバイバルも始まっていく。 カメルーン代表と言えば僕的にはロジェ・ミラーさんだ。思い出したかのように調べてみたらもう68歳なのか。1994年アメリカワールドカップのときに既に42歳だったなとか、何度も引退しているのにワールドカップの度に代表に戻ってきたり。 2010年の南アフリカワールドカップの初戦でも対戦した。1-0と勝利したのも懐かしい。アフリカらしい身体能力を全面にした戦いかたに加えて、かなり戦術的にも充実している。そんなカメルーン代表との試合。非常に厳しい展開だなとも思う。 それ以上に厳しいと感じるのが実況と現地リポートの連携だ。言葉がかぶる。テレビとは別にZoomとかつないで、顔の表情や仕草などをお互いで見合っていたほうが、コミュニケーション取れるかなとも思う(既に設置済みならばスミマセン)。 多分、ITってそういうものなのだと思う。Zoomにしても何にしてもあくまでも"手段"だ。ニーズに合えば道具として使えばいい。どうしても仕事柄そんなことばかり考えてしまう。つらつらと書いていたら、帝王は途中交代となってしまった。 話は戻るが、ロジェ・ミラーさんのワールドカップ最年長得点記録(42歳と39日)が破られる日は来たりするだろうか。若年層化する昨今では非常に厳しいと思うが、チャレンジする選手が出てきたら面白いなとか思ったりする。キングかな。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

時間と、距離の壁。そして、風。

猫も杓子もオンライン。リアルなときには起こらなかったようなミーティングの嵐でもある。それはそれでありがたい。ちょっとずつオンラインに慣れてきての半年だったように思える。これから先も同様の流れになるのか否か。実に楽しみだ。 ツールは様々ある。自分に合ったものを使うことができる。そういったものが普通だと思える世の中になったということだろうか。距離の壁はあっという間になくなったが、逆に、携帯電話のときと同様だが、時間を奪われている感も否めない。 そうだ。先日幼なじみのシンガーソングライター「臥龍」のライブもオンラインで見た。リアルで味わう感触とまた違う肌触り。すべてがすべて片方に寄るなんてことはないからこそ、双方にメリットを見つけていくことこそが最善なのだろう。 Jリーグのリモートマッチ。そもそも毎節がリモートマッチだった僕としては、まったく違和感がない。二十代のころのリアル観戦づくしから歳を重ねるごとに足が離れた。だから、人よりもスタジアムで見ることへ貪欲なほうだとも感じている。 試合だけでは無い。あちらこちらから聞こえてくる声。弾むボールの音。吹いてくる風がそんな彼らを連れてくる。耳を傾けているだけでワクワク感が止まらなくなる。スタジアムとはそういう場所。だから何度でも、いつまでも、いたくなる。 リモートの良いところとリアルの良いところを上手く活かせるのが「人間」でもある。ライブハウスで見る臥龍もChromebook越しに見る臥龍も、価値はまったくと言っていいほど変わらない。時間と距離の壁は、一体どこまで進んでいくのか。 風がそのうち、試合やイベントそのものだけでなく、多くの音をリモートでも連れてきてくれるだろう。そのときにまた僕らは新しい楽しみかたを見つけるはずだ。時間と距離。もうそろそろ、どこでもドアかタケコプターかを選択する時代だ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

クラブ愛。あればこそ。

身近にも新型コロナウイルスに感染した方が増えてきた。幸いにも僕はまだのよう(鈍感なだけかもしれないが)なのではあるが、このウィズコロナな世の中では「いかに感染しないか」よりも「いかに感染させないか」が重要になりそうだ。 とは言いながらも例のマスクの件があったりと、人の思考というものは実に様々だ。花の粉の関係で年がら年中手放せない(注射のおかげでかなりマシになった)僕にとっては必需品だが、マスクが思いのほか苦しい方もいるとは聞いている。 サポーターもそうだ。先日ある方からサポーターグループについて聞かれたことを思い出した。Jリーグのクラブにはいくつものサポーターグループがあって、仲が良いクラブもあれば、なかなか相容れないクラブもある。僕もいくつか経験した。 それぞれサッカー、クラブ、サポーターとしての立ち位置にこだわりがあり、こだわりが無ければもちろんのこと淘汰されていくのがサポーターグループだと僕は思っている。そんな話を滔々としてしまい、なんだか申し訳なく思ったりする。 そして、思いの違いを越えられるケースと越えられないケースも存在するだろう。いくら話し合ったところで鍵と錠のようにガシッとハマってくれればいいのだが、そんな場面ばかりでもない。人と人が何かを行なうのはそれほど簡単では無い。 そのためにはお互いへのリスペクトの思いと、思いを深める対話の時間が必要だ。昔はそれを嫌というほど思い知らされたが、現代ではどのように対話の場を設けているのかとても興味がある。同じクラブを愛している同士。通じるものもある。 ウィズコロナの考え方と一緒だ。相手がどう考えるかよりも、自分がどう考えるか。答えは自分の中にあってそれをどう表現するかだ。「いかに感染させないか」同様に、相手を慮ることができるか。人間関係とは結局そこに行き着いてしまう。 それは、綺麗な横断幕じゃなくとも、チャントが格好良いとか悪いとかでなくとも、永遠に続いていく。伝道師でもないのだが、例えればそれが愛だ。スタジアムに集い、好きなクラブを応援し続ける。そこにいる仲間とともに生きていくのだ。 そしてクラブへの愛があれば、そんなものは必ず成し遂げられるだろう。そのために何より先にクラブ愛を磨こう。そのクラブ愛を伝えるしくみを作ろう。その向こう側に見えてくるものがあるはずだ。自戒の念も込めつつ偉そうに書いておく。 NEV

デンマークとつながる、なう。

レゴの街、デンマークのビルンで行なわれているCommunity Meetingに参加している。もちろんオンラインでありそしてZoomでのコネクション。デンマークと日本の時差は七時間。日本だけが対象ではないので、世界の時間で同時進行している。 世界中には数多くの認定ファシリテーターがいつも新しいメソッドを考えながらスキルアップしている。それに加えて今年は新型コロナウイルスの影響もある。ワークショップをなかなか開けない思いと、そしてリモートに切り替えていく思い。 そんなデンマークに想いを馳せながらプレゼンテーションを聴いている。英語が分からなかって?そんなわけはない。雰囲気だ。雰囲気で掴み取るしか無いのだ。いつもそんな感じで、海外のイベントに出席して、多くを自分のものにしている。 前回にも感じたが皆さんレゴ®︎シリアスプレイ®︎の力を信じている(当たり前か)。日本でワークショップを行なう際に「手の力を信じましょう」と話す。だがどうしても理論が先走り、手がどんな力を見せるのかと悩んでいる姿を見たりする。 素直になればいい。僕はそう思ってしまう。まずは手に力があるか無いかに関わらず、僕らは何かを作ることができて、そして仲間にシェアする。素直に対話する。作品のことだけ話をする。それだけのことのように思えるが、難しいだろうか。 それにしても丸二日オンラインイベントを聴いていると心が折れそうになる。時折作品を作りながら気持ちをつなぎとめているのも本音だ。昨日も書いたが、やはりリアルは良い。さまざまな思いを胸に秘めて、あと数時間を頑張っていくのだ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

リアルなコミュニティという。

サッカーショップ蹴球堂が復活して四ヶ月と少しという神無月。スタジアムの観客も二万人くらいまで入場できるようになり、F.C.OITOとともにお客様が来てくださることが多くなっている。本当にありがたい話でもあり嬉しい気持ちが増える。 2006年からスタートしたこの旅だが、多くの方と一緒に走ってきて、今ここにいる。ファンやサポーターだけでなく、大阪のサッカー文化に変化を促そうとひたすら前に進んできた。結論は、サッカーだけではなく、多くの文化と交わることだ。 それは「FOOTBALL」に含まれる八つのフィロソフィーとしてのキーワードだけでなく、長居スタジアムで育った僕らの生き方そのものに関わってきていることかもしれない。常に人と人が交わり、喜怒哀楽のなかで生きてきた僕らだからこそ。 デジタル全盛期のなかで融合しながらリアルなコミュニティを追い求めていく。どのように絡まり合いながら僕らの文化への道筋になっていくのかを考えると、本当にワクワクが止まらなくなってしまう。夢のような話。だから面白いのだろう。 久々にGoogleマップやビジネスサイト、動画などを整理する機会があった。わずか四ヶ月、OITOを考えてもまだ五ヶ月なのだがもうずっとそこに存在しているかのようないでたちでもあった。僕らはここに来ることを運命付けられていたのか? お好み焼きCHANTが、サッカーショップ蹴球堂がそうだったように、このJR鶴ヶ丘駅から歩いて数分の場所には、リアルなコミュニティという文化が根付きつつある。長い短いは無いのだけれど、是非サポーターの歴史で盛り上がりたいものだ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

無いものねだり。

無いものねだりは良くないと思っていつも生きている。そして他人を妬んではいけないとよく親から言われたものだ。もちろんあったらあったで便利に生きられるのだろうが、僕みたいな一般人は、欲しいものがほいほいと買えるわけでもない。 目の前にあるのは紛れもない現実だ。そして自分自身だ。「もし」や「たら」や「れば」がそこにある問題を変えることはかなり難しい。だが、それが、未来を変えられないかというとそれは違うと僕は確信している。未来までは奪えないのだ。 しかしながら、どうしても僕らは人と比べてしまう。持っている特性や歩んできた過去や、今ある現状を横並びで考えてしまう。最近は運動会のかけっこでも順位をつけないなんて話を聞いたりするが、どんな事柄にも一番があって二番がある。 一番と二番の差は何なのだろう。「ヒト」「モノ」「カネ」「ジカン」という概念で見てみたとしたら、一体何がその分かれ目なのだろうか。二番ならまだいい。その、もっと離れた状態だとしたならば、僕らはどう考えそしてどう動くだろう。 だから僕らはアイデアで勝負する。しくみで勝負する。足し算じゃなく掛け算で勝負する。そんなことを毎日考えている。当然ながら圧倒的な力はないのかもしれない。だが「○○が無いからできない」と考える必要は僕らには無いのだと思う。 材料で負けているのならば作り方で勝てばいい。一本なら折れてしまうのならば三本の矢を準備すればいい。それがスタンスならばそのスタンスを正しく伝えて理解してもらえばいい。無い袖は振れないのだ。なら築きあげればいいじゃないか。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP ※階段を降りるのが苦手な犬

第20節 川崎フロンターレ戦。

一年間のシーズンでは力の使い方が重要になる。ましてや今年は新型コロナウイルスの影響もあって、その場面がいつ出てくるかまったく予想ができない。かなりの過密日程で気持ちの維持が相当難しい戦いを、各クラブはひたすら続けていく。 そのなかで大事な試合がいくつかある。個人的な思いでもあるが少なくとも数試合は毎年必ず存在する。今年で言うと僕は第5節の広島戦そして前節の仙台戦のような、勝ち負けにならなかったゲームの次の試合がものすごく大事だと思っている。 それこそ、過去の試合を挙げだしたらキリが無くなるのだが、その大事な試合の戦い方がその先の未来を作っていくのだと常々感じている。大半のケースでは気持ちを全面に打ち出して戦う姿勢を見せてくれる。そうで無い試合もなかにはある。 今戦わなくていつ戦うのだろうか。この先のことを計算せずに、ありったけの力で戦ったならどうなっただろうか。そんな言葉ばかりが頭をよぎりっぱなしの90分間もあったりする。今日の試合がどうだったのか、どういう位置付けかは不問だ。 何年か経って「あの大事な試合を」と呼んでもらえるだろうか。30年近くクラブと付き合っていていつも思うのはそんなことだ。少なくとも僕にはこの試合の「大事さ」という空気が感じられなかった。諦めの気持ちなどがなければいいのだが。 残り13試合で勝ち点差14。これをどう捉えるかだろうが、優勝しようがしまいが、大事な試合の定義をこの先は考えていく必要があるなと思う。仕事でもサッカーでもそうだが、あるべき姿、向かうべき未来をどのように描くか。少し楽しみだ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

シックスポイントゲーム。

最近何故かよくトイレの夢を見る。果たして何かの予兆なのかと思ったりするのだが、正直なところまったくもって分からない。子供の頃からやることなすことおかしいと言われてきたが、この歳になってもあまり変わっていないのが実情だ。 まあそれはいいとして、昨年同様だったら今頃はデンマークに行く準備をしていただろう。「行きは良い良い帰りは怖い」だったわけだが、フィンランド、デンマーク、イギリス、ブルネイと、かなり満足する旅でもあったと思い出している。 今年は新型コロナウイルスの関係もあり、来週のレゴ®︎シリアスプレイ®︎のイベントはオンライン参加となった。モニタ越しで味わう文化は、やや見劣りするかもしれないが、こんなときだからこそ世界とつながっていけることに感謝している。 これまで毎年のように海外に足を運んでいた僕だが、どうも今年はゼロで終わりそうな予感が満々だ。行きたいところはたくさんあるしタスクにも入れてはいるのだがかなり難しい状況。それでも望みは捨てずに今年を生きていきたいと思う。 その前に明日の川崎フロンターレ戦だ。もちろん厳しい試合になることに変わりはないが、ここで今年のJリーグの灯を消していいのか。もしかするとここ最近のトイレの夢が、何かこの試合に影響しそうな気もしている。理由は分からないが。 「行きは良い良い帰りは怖い」。考えてみたらまだまだ残り試合も大量にある。世の中は本当に何が起こるかわからない。このシックスポイントゲームを制したほうがこの先の旅路を快適にすることができる。それは当然のことながらうちだ。 運命のキックオフは15時。試合の前後にF.C.OITOおよびサッカーショップ蹴球堂へ是非ともお越しいただきたい。2000年以降の度重なるホーム川崎戦での悔しい気持ち。今年は雪辱を果たす。とは言えまだまだ差はある。チャレンジの気持ちで。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP こういうグッズを作りたい

あの時代のお笑い。

録画していた「お笑いの日」。ようやく八時間という長丁場を見切った。やはり関西人、大阪人にはお笑いというものがエネルギーとなり得るのだなと感じると共に、この先のお笑い界がどうなっていくのだろうかと思ってしまったりしている。 オープニングのダウンタウン。若かりし映像を見ていて、なんだか高校生の頃を思い出し笑いをしてしまった。ちょうど「4時ですよーだ」が全盛期だった。先日アミーゴのフェイスブックでメンバメイコボルスミ11を見ていたので、なおさらか。 当時、同級生が番組に出演した。そのシーンがふと頭に蘇ってきた。たしか、教室に備え付けられていた壁掛け扇風機を持って二丁目劇場の舞台に上がったのだ。なんてことをするのか、と思ってしまったが、面白ければ何でも良かった時代だ。 あの時代という緩い空気感がなせる技だろうか。今なら相当言われるような出来事もかなりあったような気がする。決して許されているわけではないのだが、なんとなく大目に見てくれている方々がとても多かったのだろうなと感じる節もある。 新喜劇と同様に漫才という大阪人のお笑いのバイブルが僕らにはあった。あのまったりとした感覚から教わったことは実に多い。僕はベシャリが下手なのだがそれでも人前で語ることができるのは、あの頃のお笑いのおかげと言っていいだろう。 なにも、今の環境が違うとは思わない。だが、いつもあの時代とのギャップを考えてしまう。そう言えばこの番組でシャンプーハットの漫才を久々に見た。こいちゃんとてつじのあの掛け合いを見て、なんだかほんわかしたのは言うまでもない。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP