「対話」と「議論」を語る場面が、最近は多くなっている。もちろん僕が目指しているのは老若男女問わず意見を言い合える「対話」というフェーズ。しかしながらこの対話が上手くできない方も意外と多い。だからこそ僕は常に意識している。
ここ数日いろんなセレッソサポーターから連絡があり、非常に嬉しい気持ちで一杯だ。やはり僕らはいつもどこかでつながっていて、セレッソ大阪を中心に回り続けている。サッカーだけがすべてじゃないが、無いと生きていけないのも事実だ。
そのなかには、ベテランもいれば若手もいる。そんな社会の縮図のような状態のサポーターのつながり。この世界を感じたことの無い方には少々分かりづらいのかもしれない。Jリーグが、そして、セレッソ大阪が存在したからこそ巡り会えた縁。
その縁がさらに縁を生んでいく。その姿を側から見ているそれだけで、気持ちが穏やかになっていく気がしている。家族(サポーターは家族だ。だがあくまでも親族という意味で)でも仕事でも趣味でもない、それらを超越した存在であるのだ。
そういった縁のつながりで「対話」が数多く存在する。クラブのこと、応援のこと、アウェイのこと・・・セレッソ大阪におけるすべての事柄において正解も間違いも分からないからこそ、常に仲間同士で意見のぶつかり合いが行なわれていく。
僕は敢えて「アミーゴ」という言葉をよく使っている。なんだか「共同体感覚」とはこのことを言うのではないか、とよく思う。良いことばかりを共有するだけでは、そのような関係は生まれないのだろう。気持ちのつながり、はこれでもいい。
だから仕事場や学校、家庭において少し窮屈になっているなら、一度スタジアムに来てみてはどうだろう。サポーターと一緒に応援してみると、何か気持ちの変化が生まれたりすると思う。その気持ちの先に「アミーゴ」との出会いがあるはず。
そして、今、僕は、より多くのセレッソサポーターと話をしたい。そんな思いが心の中に溢れている。どんな些細なことでも支えになれるのならばとも思っている。セレッソサポーターは昔から対話のなかで育まれてきた。今一度、考えてみたい。
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