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「石」を投げ合うのか。「意志」を投げ合うのか。それとも「意思」なのか。

先日、アルゼンチン代表のウェアを着込んで、映画「ディエゴ・マラドーナ 二つの顔」を鑑賞してきた。俗に言う"格好から入るタイプ"では無いのはご存知のとおりだが、なぜだか気持ちのスイッチを入れなければ、と思い立ってしまったのだ。 もちろんのこと映画館のスタッフさんはすぐに気付き、どの映画を見るのか一目瞭然のような面持ちで誘導される。この「見た目」は、人に自分自身の印象を植え付ける、かなり重要なファクターでもある。その頭上に言葉という存在が、ある。 人間が、人として、他者と合意点を見つける旅。言葉とともに人間は何万年も生きてきた(どうもCMぽくなったが)。しかしながら、どこまで行ったとしても飽きもせず、この言葉によって争いは起こり続ける。賢すぎるせいなのか、それとも。 少なくとも批判だけを振りかざしていては引けないところまで行かなければならないし、そうなったところで一向に解決しない可能性もある。例のあの問題にレゴ®︎シリアスプレイ®︎を持ち込みたいと考えたファシリテーターは少なく無いはずだ。 アルベルト・アインシュタインの「 第三次世界大戦ではどうなるか分らないが、第四次世界大戦では、人間は多分、石を持って投げ合うのだろう 」という言葉がなぜかリフレインする。この名言には様々な意味合いが込められており、実に、深い。 戦うための道具が、石しか残っていないほど草木も生えない状況なのか。それとも、言葉の延長線上のメタファーとしての存在なのか(石打の刑というものも世の中にはあるにはある)。すべては言葉の行き着く先にあり、そして人は選択する。 「石」を投げ合うのか。「意志」を投げ合うのか。それとも「意思」なのか。日本語は同じ音でいくつもの解釈が生まれる。実に素敵な言語だと僕は思う。故にこの日本語には数多くの誤解も生まれやすく、また、数多くの責任も伴うことになる。 話は戻るが「ディエゴ・マラドーナ 二つの顔」を見て感じたのは、やはり愛すべきキャラクターなのだということ。光と闇、表と裏。完璧な人間など誰一人としてこの世にはいない。人には誰しも二つの顔がある。だから合意が重要なのだろう。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

マージーサイドな週末。

映画「アウェイデイズ」を見てきた。端的に言うと1970年代後半のフットボールにおけるフーリガンを描いているので、何となく自分たちに重ねてみたりしてしまう(僕はフーリガンではないのだが)。見て欲しいと感じる映画のひとつである。 昨日、勝利での浮かれ気分でそのまま勉強をしていて、すっかりマージーサイドダービーを忘れていた。そんなこんなで今朝見切ったのだが、トフィーズは、王者リヴァプールに対し一歩も引かない戦い(最後は結構なヤバさだった)を見せた。 ドローという結果は少々残念でもあるがまだ始まって間もない今シーズンでもある。死ぬまでに一度は訪れたいと思っているグディソンパークと街の風景が何度もモニタ内に映し出される。美しいフォルムと周りの屋根とのコントラストが良い。 ハメス、アラン、ドゥクレの新加入選手も素晴らしいが、特にドミニク・カルバート=ルーウィンの強さに目が行く。プレミアリーグで開幕から五試合連発。ここからどこまでチームが走り続けることができるかは、正直彼にかかっていると思う。 ところで、話は戻るが、前述の映画「アウェイデイズ」。エヴァートン、リヴァプールと、マージー川を挟んで反対側が舞台なのだ。そんな偶然な週末も時には素敵である。昨年幸か不幸かイギリスに降り立った際に足を伸ばせば良かったかも。 こんな話、サッカーが好きじゃない人にはまったく面白くもない内容。そんな文章になってしまっている。まあ、自己満足の極みのようなブログでもあるのでご容赦いただきたい。また、少しでもサッカーに興味を持っていただけたなら幸いだ。 あ、そう。映画「アウェイデイズ」については改めて書いていきたいと思う。日本でも少なからず様々な問題も発生していたなと今でも思い出される。「若気の至り」で収めてはいけないような内容もあったな。自戒の念も込めて、いつか書く。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

「コブラ会」にハマる。

「コブラ会」にハマっている。インドアサイクルをしながらいつも見ている。1984年の映画「ベスト・キッド」その34年後の話であるこのドラマ。当時の俳優がそのままの役で出演していたり、ところどころで回想シーンが出てきたりしている。 なぜこのドラマに夢中になってしまうのか。それは自分自身の姿とダブらせてしまっているからかもしれない。1984年というと僕は13歳〜14歳くらい。日本で上映されたのは少し後だったように記憶している(TV初放送が1988年だったそうだ)。 まあ、よくはないのだろうけれど、子供の頃は世の中全体がコブラ会のような状況だった(気がする)。良く言えばスパルタ教育。今風だと「パワーハラスメント」と呼ばれるのだろうか。主人公のジョニーが頭を抱える場面がとても理解できる。 当然ではあるが、時代がまったく違うわけで、今と昔では指導のしかたも変わっている。これは何もスポーツに限った話でもなく、仕事においても同様で、今日の若者の考え方や論理が僕のような人間と根本的に違っていると感じるときがある。 そのような葛藤の連続がこの「コブラ会」には散りばめられている。そしてその葛藤に抗うかのような空気感を醸し出していく「コブラ会」。そんな同年代の"あがき"のようなものに、僕はどんどんと惹かれていっているような思いがあるのだ。 もちろん暴力は何の効果も意味も持たないし、暴力で得た信頼関係など肝心なところで木っ端微塵に砕け散る。そんな新時代だからこそ、僕は「コブラ会」に何かを重ね合わせてしまう。やはりどうしようもなく「バッド・アス」に憧れてしまう。 ようやくシーズン2の中盤に差し掛かってきた。ジョニーに共感しっぱなしの状況でもある。ここから先に進むにつれ、更に問題が増えていくものと推測される。それすらも共に楽しんでいくのが僕らの世代。まだまだやれることは、しこたまある。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

1984年のバランス。

もう何年ぶりかだが映画「ベストキッド」を見た。やはり僕的にはジャッキー・チェンではなくノリユキ・パット・モリタだ。1984年公開なので初めて見たのは中学二年か三年。洋楽にハマり洋画にハマりサントラをよく聴いていた時代だった。 この映画。子供の頃にはそれほど意識していなかった(レフトハンドとライトハンドしか耳に残っていなかった)が、かなり素敵な言葉のオンパレードだった。その中のひとつである「バランス」というフレーズに、なぜだか惹かれてしまった。 「心と身体は常にバランスを保っている」というような言葉だったかと思うが、実にシンプルだ。確かに自分自身に置き換えてみても、心が乱れるときには身体に不調をきたし、その逆もある。僕という存在はそのバランスで保たれているのだ。 バランスは本当に大事だ。映画も書籍も。そして会話などもそうだが、どうしても見せようとか聴かせようとかしてしまうあまりにバランスを失う。それにより、言いたいことの本質や実態が非常に見えづらくなってしまう(僕の行動も然り)。 この世はシンプルで、その世界を構成する物事もシンプルである。それらがバランスよく配置されることで美しさが生まれるのだと、僕はこの「ベストキッド」から学んだ気がした。やっぱり若い頃の映画を見直したほうがいいのかもしれない。 続きを見るかどうか悩んではいるが、それとは別にNetflixで「コブラ会」が今週末から始まるようだ。あの戦いから数十年。 配役もあのとき同様でもあるし、 次はどんなことになるのか今から楽しみだ。OB戦などという甘い戦いではないだろう。 そう言えば1984年というキーワード。ジョージ・オーウェルの「1984」が改めて読みたくなって買ってはみたもののまだページを開けていない。この小説も「シンプルな言葉」がバランスよく散りばめられている。まあ受け取り方は様々だけど。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

「特別な夏」の八月一五日。

 今年の夏は「特別な夏」。日本人にとって忘れてはならない今日という日も同じく忘れられない「特別な夏」になるのだろうか。いつもだったら都営新宿線九段下駅に向かい、そこから歩いて数分の場所を訪れているはずだろう。だが今年は叶わない。 この時期になると、あの戦争にまつわる映画を見たくなる。今回選んだ映画は「ローレライ」だった。公開は終戦から60年後の2005年。お恥ずかしい話だが今回初めて見た。内容についてはともかく、戦争というものの儚さを改めて知ることとなった。 広島、長崎に原子爆弾が投下され、そこからの一週間。日本全国が次の候補地となる可能性もあったのだろう。このふたつの都市には何度も訪れている。当時の悲惨な状況を考えただけでも胸が痛くなる思い。この思いは多分、一生消えないのだろう。 毎年正月は初詣にて靖國神社を必ず参拝するが、よく考えればこの終戦の日は、昨年も仕事で行けていなかったのだ。来年こそはこの時期この場所へ訪れることができるような世の中でありたいと思う。そんなことを考えながらこの文章を書いている。 もう何度も見たかもしれない遊就館にも訪れたい。良いか悪いかは当然あるだろうが、日本という国の歴史がここには詰まっている気が僕にはする。戦後75年の節目。あと25年経った世界はあまり想像できないが、時間による風化は決して無いだろう。 さて「ローレライ」という映画。監督は「日本沈没」の樋口真嗣氏。名だたる俳優陣もさておき、カメオで「機動戦士ガンダム」の富野由悠季氏と「新世紀エヴァンゲリオン」の庵野秀明氏も出演されている。内容はともかく、是非見てほしい映画だ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

映画「グリーンブック」で「知る」。

昨日も書いたが6月19日の全面解除が現実味を帯びてはいるものの、それでもまだまだ表に出ていくことが難しいのかもしれない。それはもちろん自分自身の社会的立場の影響力というものがあるのと、それ以上に他の方へ向けた配慮のところが大きい。まだまだ自宅での日々が続いていきそうな予感だ。 お知り合いの方々の映画も公開されたりしているが、このような状況下なのでなかなか映画館へも行けない。そんなこともあり、過去の映画をDVDや配信サービスで見る機会が圧倒的に増えた。その中でアカデミー賞を受賞したのにまだ見ていなかった「 グリーンブック 」をようやく見ることができた。 賛否両論があるのは重々分かってはいるが、僕個人としては非常に意味のある映画だったと思っている。最近は特に、実話に基づいた映画(賛否両論はまさにここ)を中心に見ていたので、実際に起っていた事実を知る機会にもなっている。特にアメリカでの出来事もあり、僕のなかの何かに触れた。 この、差別の問題について多くの出来事があったりして、何とも言えない寂しい気持ちになっている。ニュースを見たとき、以前とある知り合いの方から言われた「理解してほしいんじゃなくて、まずは知ってほしいんです」という言葉を何故か思い出した。何よりも「知る」ことが大事だと僕は思う。 僕自身、多分、何処まで行ったとしても、すべてを理解することはできないような気がしている。決して変な意味ではなく、「知る」ことはできたとしても僕には本質を理解できるだけのバックボーンが無いのも本音のところだ。だからまずは「知る」ことを始めるのが大事なのだと気づいたのだった。 映画とは「知る」本当に素晴らしい媒体である。確かにどちらかに偏ってしまうこともときにはあるのだが、それでも、その内面を知ったうえで自らを選択をしていく、という生き方もできるのだと僕は感じている。これからも、そんな多くの映画と出会って、その映画の内面を知っていくのだろうな。 グリーンブックと言えば最近 このような本 を読んでいる。アマゾンで発注したのだが物が無いとキャンセルをくらい、それならばとヨドバシカメラにお願いしたら「6月の中旬以降です」とつれない返事があったものの無事届いた。かなり重たいのだがメタファーを「知る」良い機会だとも思って、学ぶ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

「演じる」。感動した映画とサポーターとの関連性。

このステイホーム週間は主に仕事と仕事と仕事ときどき映画というかなりダラダラした生活だった。この休みの間に12本の映画を見たのだが、かなり濃い内容でもあったので誰かに話したいところでもある。でも趣味趣向がバレてしまうためにちょっと止めておこうかなと思っている。 それでも少しその趣向をひけらかすとしたら、この間、ショートムービーにもハマっていたのだった。もちろん「 カメラを止めるな!リモート大作戦! 」にもちょっと感動したのもあったが、それ以外にもいくつかの短編英語を見て、非常に感銘を受けた作品があったので紹介したい。 そんな中に「 玉城ティナは夢想する 」というものがあった。10分程度のまるでプロモーションビデオのような短編映画だ。特に何か特別なものを感じたとか、出演者に対しての意識が高かったかという感情があったわけでもないのだが、最後の最後でなぜか感動してしまったのだった。 「演じる」とは実に奥深いのだなと思ってしまった。ときどき映画に関わることもあるのだが、役者さんの感情移入が本当にすごいなと感じてしまう。先日の対談でも感じた「演じる」という言葉。役者などなれるはずもないが、普通に生きている人でも日々「演じる」瞬間が多い。 だからこそ僕は映画に入り込んでしまうのかもしれない。仕事では「演じる」なんてことはありえないのだが、サポーターの前に立つと演じてしまったりするのは、今も昔も変わらないのだろう。どちらにしても、これらの映画がYoutubeでアップされているのは本当にありがたい話だ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

アカデミー賞の言葉。「変化は何かを犠牲にすることだから」。

新型コロナウイルスの予防として手洗いうがいが有効らしい。僕は以前から手洗いうがいを励行するタイプではあったが更にも増して実施するようになった。世間ではこの有効手段の効果なのだろうかインフルエンザ感染者が少ないとのこと。常に意識を高く持っておきたいなと思っている。 そんななかではあるが素人映画好きでもある僕としてはアカデミー賞が非常に気になっていた。御存知の通り順当な受賞ありサプライズと感じる受賞ありと非常に興味深い結果でもあった。もちろん僕の予想が当たるわけがない。作品賞は「パラサイト 半地下の家族」だった。なんか分かる。 受賞者のひとり。主演男優賞を獲得したホアキン・フェニックス氏のインタビューが話題になっていたので読んでみた。内容についてとやかく僕が言うことでもないので触れずにおく。ただひとつだけとても共感してしまった言葉があった。それは「変化は何かを犠牲にすることだから」だ。 世の中がどこまで進歩したとしても最後の最後はやはり人なのだと僕は思っている。人類が持っている「おせっかい」と「思いやり」そして「気遣い」が加わって、人の意識が正しい方向へと進むことができるはずだ。ホアキン・フェニックス氏が語ったこの言葉を、改めて噛み締めてみる。 自分の身に降りかかることばかりを考えてはいられない。もっと広い視野を持つ必要がある。変化を怖がってはいけないのだ、そう考えさせられてしまう。今、身近の若者たちにこの変化を促しつつ僕自身も意識を高く持って共に歩んでいる。だからこそこの素敵な言葉が胸に突き刺さった。 今週は講師やファシリテーターの仕事が待っている。流行り病はともかく体調管理には留意していきたい。日曜日はフリーだ。せっかく東北へ伺うのでセレッソ大阪サポーター意識を高く持って林穂之香選手を見るためJヴィレッジにでも行ってみるかとか考えている。さてどうなるだろうか。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

「まあこんなもんでいいか」が多過ぎる。

東京に戻ってきて呆けていた。どうも脳と身体と胃(特に)を使い過ぎたようだ。それほど睡眠は取らないが、それこそボーッとしている時間がこの週末は多かった。そんな中で本を読み映画を見てサッカーを味わう。ときには人生に休息も必要だ。年齢的にも持たなくなってきているのだ。 セレッソ大阪U-23の試合をYoutube Liveで見た。正しく書くとすればAmazon Fire StickのYoutubeアプリで見ていた。映像遅延らしきものもほぼ無く比較的安定して流れていたように思える。世界中のサッカーはインターネットのなかですべてつながっていくのではないかと思わせてくれる。 それにしても試合結果については非常にいただけない内容だった。ここからトップチーム昇格に向けて戦っていかなければならないのに、なかなか良いプレイを見せられなかった選手が多いなと感じた。前々から伝えているが、ここで終わっていいと思うのならば、この先の未来はなさそうだ。 サッカーの世界だけでなく身近なところ(勿論僕自身含めて)でもこの「ここで終わっていいのか?」が多過ぎる。なんだか短時間で「まあこんなもんでいいか」と自己評価してしまっている感がある。子供の頃の夢を続けられるほうが稀で、一般人は及びもしないということなのだろうか。 確かに社会のしくみの問題や環境も影響有るかもしれない。他人と比べたときの絶対的な差なんてものも、そこに存在しているかもしれない。しかしながら僕は思う。それでもいいやんか。ただひとつ。「ここがゴール」だなんて思わないでいい。そう判断するのは紛れもない、自分自身だ。 物事を終わらせるのも自分。ここから先の人生を組み立てていくのも自分。「まあこんなもんでいいか」は本気の自分への裏切り行為でもある。本当に好きなものならその気持ちが必要なのだろうなと思う。だから例えばサポーターが好きなら、その思いに「まあこんなもんでいいか」は無い。 前述に戻る。背番号が、この大会用になっていたため少々選手を確認するのがとても難しかったが、試合が進むに連れて動きで分かるようになってきた。やっぱり短時間で物事を見定めるのは困難なものもある。じっくりと時間をかけて「まあこんなもんでいいか」をぜひ減らしていきたい。 話は違うが冒頭にも書いた映画のこと。「 ジャックは一体何をした? 」と「 ラスト...

「いつ終わるか」ではなく「どう終わるか」。

いや、クリスマスイブである。この前12月に入ったなとか思ったりしていたがいやはや時間が経つのは人が考えるよりも進みが速い。40代最後の年もあと一週間しかないのが正直信じられない気持ちで一杯ではある。が、これも人生の一幕だと思えば少しは華やかに見えるのかも知れない。 それにしてもこの一年は公私共に激動であった。始まりあるものは必ず終わりを迎えるのが常である。少なくともこの2019年も毎年に漏れず、多くの出会いと別れが存在した。「さよならは別れの言葉じゃなくて再び逢うまでの遠い約束」。誰かの歌がこの薄っぺらな胸に突き刺さりそうだ。 誰もが時間的制約の中で生きている。死を恐れて生きるほど愚かなものはない、とは口が裂けても吐ける言葉では無いが、人間いつかは命尽きるときがやってくる。だからこそ問題点は「いつ死ぬか」ではなく「どう死ぬか」もっと言うと「死ぬまでどう生きるか」に事の本質があるのだろう。 子供の頃に一度だけ死にかけたことがある。詳細は別の場に譲ろうとは思うが、もしそこが最期だったとしたら、その人生を僕は満足に生きていたのだろうかと大人になった今でも時々思い出してしまうのだ。勿論そのときには意識が無いので周りに迷惑ばかりをかけたのだろうけれど。 「スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け」が公開されて5日。小学生低学年だった1977年、両親に連れられて映画館に行った第一作目(今ではエピソード4新たなる希望、なんていう大層なサブタイトルが付いているが)の記憶は、今や僕の頭の中の消しゴムが全てイレースしている。 しかしながら映画の素晴らしさやSFの醍醐味という僕の人格の一部を受け持っているこれらの要素は、いつまでも脳みその中でグルグルとうごめき続けている。続編が出るたびにその要素が多く貯まっていき、ときには外に吐き出しながらこの40余年を生きながらえて来たような気もする。 そんな、僕らの時代を席巻してきた”スペースオペラ”が遂に完結する。人生と同様紆余曲折しながらここまで歩んできたスター・ウォーズシリーズの集大成となる本作。僕はさもルーティーンのごとく、いつもと変わらぬ映画館左寄りの通路側を選んで、この三時間に迫る大作を鑑賞した。 始まりあるものは必ず終わりを迎える。そして次の世代を切り開いていく。評価などどうでもいい。この終焉を迎えるときを...

#大観覧車。映画を大正区で。

こんなことを書くと多少変に受け止められてしまうのかもしれないが、大阪市24区のひとつ「大正区」という場所はどこかミステリアスである。沖縄県人が多く、本州とは陸続きになっておらず、渡し船とたくさんの橋だけが生命線のこの瓢箪のような形の大正区を愛して止まないのだ。 今では面影すら無いのだが、僕が子供だった頃にはこの大正区にも映画館が存在していたのだ。当時はどんな作品が上映されていたかも全く記憶に残ってはいない(戦隊ものとかなのだろうか)。しかしながら弟と二人、何度か両親に連れて行ってもらったのだけは何とか憶えている。 大正区で映画というとマイケル・ダグラスさん、高倉健さん、松田優作さん出演の「ブラック・レイン」をどうしても思い出してしまう。(バスでしか移動が難しい)とても縦に長いこの”島”の奥の奥にあった中山製鋼所で撮影された。この映画の公開が1989年。時が経つのは本当に早い。 先日、その大正区が舞台のひとつでもある日韓合作映画「大観覧車」(「あなたの宇宙は大丈夫ですか」というタイトルもあるらしい)を一週間限定で公開されていたケイズシネマで見た。いくつもの大阪中の街の風景が目に入ってきて、懐かしさと新鮮さが入り混じった鑑賞だった。 実は上映前にケイズに着いたときベク・ジェホ監督がいらっしゃったのだが、まあ今じゃなくても良いかと思って声をかけずにいた。アミーゴからも映画の感想を監督に伝えてほしいと言われていたので見たあとに・・・と考えていたら、取材があるとのことで帰ってしまったのだった。 まあ、いいか。111分という結構長い映画を見終わったあと僕は、ひとつの想いに至った。「大正区に映画館があるのだろうか」そう思ってしまったのだった。子供の頃のように大正区で映画を見たい。今度大正区に戻る機会があるのだが、それまでに少し調べてみようかと考えている。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第29節 北海道コンサドーレ札幌戦。最後の最後まで大事。

そう言えば先日の台風による遅延で代替出来なかったJALに代えて乗ったロイヤルブルネイ航空。当然のことながらヒースロー↔バンダル・スリ・ブガワンに日本語字幕のある映画が無いのだろうな・・・と思ったら、何故だかひとつだけ存在したのだった。その名も「 ヌヌ子の聖戦 」。 内容は、原宿を愛する双子コーデの女子が紆余曲折しながら成長していくという物語。おぉう。兎に角見てみる。・・・結構面白い。僕としてはどっちかといえば三好里奈よりも田原葵やなーとか考えながら見ていたら、隣のブルネイ人(多分)の女子も見始めていたのが驚きだった。 何故葵は上手くいかないのかと考えたとき日本語には便利な言葉がある。「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」。サッカーでも他のスポーツでも、負けたときの理由は何かしら説明がつく。だが「どうしてこの試合に勝利できたのか」とても理解に苦しむ瞬間がある。 さて肝心の北海道コンサドーレ札幌戦である(どっかの話ではないが名前が長いとは思わない)。相手はルヴァンカップファイナルへ進んだ勢いそのままに来るのかと思ったが、怪我人などもあり、試合自体がうちの展開にもなった。そんな中で、エースの最高の一撃が勢いをつけた。 少なくともこの試合に限っては勝ちに不思議は無かった。途轍もないゴラッソに目を向けがちだが、それ以上に柿谷曜一朗選手のフル出場が全てを物語っている。彼が本調子(まだまだ僅かだが)に帰ってくることで、勝ちは確信に近づくのだと思う。それくらいの存在でもあるのだ。 残り五試合。首位とは勝ち点差7。ACLを勝ち取るためにも6をひっくり返さなければならない。29試合を戦ってきての失点22は勿論驚異的だが、ここからは更なる守備と得点が必要になってくる。柿谷曜一朗選手の全ての能力が発揮されるとき、偶然ではなく必然が僕らの前に広がる。 「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」。最後の最後まで諦めずに戦い続けることが、上位クラブに圧力をかけるはずだ。話を戻すが隣のブルネイ人女子。10分程度で映画を諦めて深い眠りに入ってしまった。ラストに良いシーンあるのに。やはり最後の最後まで大事。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

人はそれぞれ。映画も人それぞれ。

三十代の頃、とある偉い方に「お前は絶対に偉くなれない。俺が見るからに○○のほうが断然上に行くはず」と言われたことがあった。僕の性格から答えは分かると思うが、その御方に返した言葉が「人の見る目はそれぞれですからねえ」。当然(なのか?)のことながら激昂された。 言葉に悪意は無いが、確かに神経を逆なでした。「精進します!」とか「どこが駄目でしょうか・・・」とかの返事を期待していたのかもしれない。どうも僕の言葉は人とは違うとよく言われる(特に意識はしていないのだけれど)し、行動もそうだ。”変な人認定”はここからくる。 ただ僕はこうも思う。考え方は人それぞれだ。発する言葉もそれに従うのだ。そう考えると、言いたいことが言える環境はそれはそれでありだが、考え方が多様性を含む場合の言葉に対しての批評が、この世の中多いことがとても気になる。先日見た映画も評価もまさにそれに近い。 各所でかなりの批判を受けている映画も多いが、意外とすんなり受け入れることができたりする場合もある。映画なんてそんなもん(変な意味ではなく)だと思うし、2時間という枠のなかで全ての人を満足させることなど出来やしないだろう。ましてやもっと短くなるとなおさらだ。 素人ながらに思う。良い映画とそうじゃない映画の違いとは一体何なのだろう。関係者と知り合うこともあるし見る機会も多いのだが、未だに映画の何も分かっていない(その道の皆様申し訳ございません)。でもそれで良いんじゃないかと思い始めている自分もここに存在している。 好きなものは好きで、合わないものは合わないのだ。それで良いのではないか。映画だけじゃなくどんなものでも自分に素直になるのが一番だと思う。ちなみに僕はこの映画、無しの部類ではなかった。人はそれぞれ。人の思いはそれぞれ。考え方も人それぞれ。それでいいではないか。 そう言えば先日とある団体にお誘いをいただいた。そこでの役割が「映画担当理事」(なんのこっちゃ)。それほど多くの映画を見ているわけでもないがそんな印象がついているのだろうか。「映画担当理事」がどれほどのものかは不明だが、自分なりの考え方を貫ければと考えている。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

#マトリックス から見るシンギュラリティ前夜。

いつも意識していることがいくつかある。近い未来も中途半端な今後も長期的な将来もそこには含まれている。その中でもシンギュラリティ(技術的特異点)という言葉に非常に惹かれる。2045年、AI(Artificial Intelligence)いわゆる人工知能が人間の知性を超える概念でもある。 それほど多くのデータがあるわけではないが、お粗末ながら僕自身も人間の働き方のジャンルにおいて様々な研究をしてきた。その結果、人はコンピュータが導き出すおよそ求める答えに近いであろうサジェストという産物は、人と人の関係性にまで影響力を及ぼしていると感じる。 映画「マトリックス」が20周年という迎える節目の今年。各地でMX4D上映されることを知って震えた。同調してくれる方も多いと思うが、初めてこの映画を見たときの何とも言えない衝撃を今でも憶えている。まさに僕自身も子供のころから常々考えていた未来にほぼほぼ近い。 見れるのは僅か二週間。僕は居ても立っても居られず初日に観に行ってきた。当時と映像は同じではあるが、動く座席と特殊効果によって更に感情が高ぶる。MX4Dという”マシン”から提供された136分の極上体験。僕自身、生活だけでなく娯楽においても機械に頼ってしまっている。 もうどこまでがAIの指示に付き従っているのか、それとも自分の意思を貫けているのかが分からなくなってきているこの時代。もはやそれを見極めることが出来ないくらい人間社会は多様性に満ち溢れてしまったのだろうか。データに頼る「選択と集中」。見極められない「偉い人達」。 それでも僕は「リローデット」「レボリューションズ」と続くマトリックスシリーズを多くの人に観てもらいたいと思っている。当然三部作となると大いに好みが分かれる(この映画もそのひとつ)のではあるが、物語の背景や事情も含めて理解すると、より味わえるのではと思う。 こんな話ばっかりしているので既に”変な人認定”されているのは仕方がないとは思うが、僕らは既に「マトリックス」というカプセルの中で踊らされているだけなのかもしれない。兎に角まだまだ時間は存在する。人間という生物学的生命体がこの先どんな選択をするか楽しみだ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

「両雄並び立たず」。

「両雄並び立たず」とはいつの時代にも現れるが本当にそうなのかと疑問も湧き上がる。先日レオナルド・ディカプリオとブラッド・ピットが初共演した「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」を観に行ってきたが、改めて「両雄は並び立つ」ことを認識したのだった。 「両雄並び立たず」とは中国の史記にまつわる言葉のようだが、僕の中のイメージでは横山光輝先生の漫画「三国志」の中での曹操孟徳と劉備玄徳の関係性で出てきた一節のイメージがかなり大きい。「英雄は二人いらない、ただひとりで良い」という感じだったような気がする。 サッカー界でもしばしば「共存できるか」だとかいう言葉で語られるケースは多い。少し毛色は違うし何となくぼやっと感ではあるが、僕はどうしても二人のロベルトを思い出してしまう。二番手に甘んじることを敢えて拒否する姿勢などが物議を醸しだしていた1994年のアメリカ。 セレッソ大阪ではどうだろう。噛み合わないだろうなと思いきや意外とマッチした黄善洪さんと西澤明訓さん。年齢差のおかげなのかも知れないが、この二人が本当にとんでもないファンタジーを見せてくれていた。クラブ64ゴールという数字とともにあの年の良き思い出でもある。 東京国立博物館で行なわれている「特別展三国志」がもうすぐ終了してしまうのだ。近々で何とか行きたいと思っているが仕事とのトレードオフはどうなるのだろうか。両雄並び立ったどころか国家三分の計という三人の英雄を生み出したその歴史を堪能したい。何とか頑張りたい。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

「私は、そもそも人間というものに向いてないのですよ」。

誰かが誰かを応援するには勿論のことながら理由が存在する。例えば病気がちだった子供の頃に勇気を貰ったとか、近所でも評判の”ちゃんと挨拶できる子”だったとか。応援する側にもされる側にもそれぞれの論理があり、それが実に美しく調和されているところに僕は惹かれる。 若い頃から「アイドル」という生物学的行動体に惚れてしまう体質でもあった。大手を振って世界の中心で叫べるほどではないが、聖子ちゃん明菜ちゃん、おニャン子クラブに始まり今日に至る過程の中にも、ある意味特別でれっきとした僕なりのこだわりが散りばめられている。 最近ではご当地アイドルと銘打って日本全国(いや世界中か)にアイドルグループが存在し、いつでもどこでもアイドルと触れ合える機会を持つことが可能になっている。オジサンとなった今でも彼女たちの情熱に感化され応援し続けている方が僕の周りにもことさら多いのだ。 3年前の5月。アミーゴの某監督からの要請で参加した「 ロリさつ 」という作品により知った秋葉原女優アイドル・プロジェクト『 ピカ☆マイ 』。今年7月に解散したものの、ことあるごとに応援し続けてきた。その流れで映画「 星を捨てて 」を見るために池袋シネマ・ロサを訪れた。 内容そのものはアイドルものでありSFっぽいところあり涙あり感動あり。僕はただの映画好きなので細かい話はするつもりは毛頭無いが、ひとつだけ言えることとすれば特定のワンフレーズにとてつもない共感を得る結果となったのだ。映画の中の女子高生から教わったのだ。 「私は、そもそも人間というものに向いてないのですよ」 ポスターやフライヤーでは何遍もこの言葉を見てきたにも関わらず、映画の冒頭でこの台詞を聴いた瞬間、僕は何もかもを見透かされたような気持ちになってしまった。この思いを誰かに知ってほしいわけでは無いのだが、多分何も感じない人には到底想像もつかないのだろう。 老いも若きもなく映画に心動かされることは少なくない。どんな映画であろうとそのワンカットワンカットから発せられる極上の言葉が溢れ出してくる。「私は、そもそも人間というものに向いてないのですよ」もしこの言葉に惹かれたのなら、是非池袋に足を運んでみてほしい。 アイドルだからとか若い子たちはちょっと・・・ではなく、是非、素の彼女たちを見てほしいと切に願う。僕は何の影響力も持たないが彼...

始まり、終わり、また再生する。

先週セレッソ大阪から福満隆貴選手と秋山大地選手が期限付き移籍した。我がチームにとって共に重要なプレイヤーでもありかけがえのない選手でもあるが、これは終わりを意味するのではなく再生への序曲でもある。次に戻ってくるときは何回りも大きくなっていてほしい。 全ては始まりそして終わる。ひとつの例外を有することもなく。僕の人生もこの世界もどこかの誰かも、始まり、終わり、また再生する。そんなことの繰り返しでこの世の中は循環している。だからこそ楽しい。だからこそ悲しい。だからこそ「生きている」と実感できる。 そんなふうに生きているある日。(某映画監督の勧誘による)ひょんないきさつにより「ロリさつ」という映画に出させていただいたことで「秋葉原女優アイドル・プロジェクト『ピカ☆マイ』(ピカマイ)」と「ロリさつ」の主演女優であるリーダー菅原彩香さんと出会った。 そのピカマイが7年間の活動に終止符を打ち遂に解散(全員が卒業)することとなり、その最終公演を見るために秋葉原へ向かった。ピカマイの舞台は5月に新宿村LIVEで行なわれた「えんとつ街のプペル」以来(このエンディングでリアルに解散発表を聞くことになったわけだが)。 会場には実に入りきれないほどのファンが最後の姿を見るために集まっていた。盛り上がりすぎてイベント自体は2時間押しとなり、14時に始まってから実に6時間が過ぎた頃に監督と僕は秋葉原をあとにした。最後に菅原さんとも話すことができて本当にありがたいと思っている。 僕は深く応援するわけでもなく菅原さんがいたからこそピカマイの最後を見届けようと思った。そんなにわかファンであっても、この7年間、菅原さんが多くの出来事と共に走ってきたのは想像に難くない。最後の最後に吐き出す言葉にはその心境がすべて含まれていると感じた。 そんな重荷が、見るからに細い双肩にのしかかっていたのだなと思うとリーダーという役割がとても辛く厳しいものだと気づく。彼女を通じて僕はそれを学んでいたのだった。この先も芸能活動を続けるのだと話していた姿は少々疲れ気味だった。まずはしっかり休養が肝要だ。 多くのアミーゴがアイドルを応援する気持ち。それがこの数年で少しだけ分かってきたような気がしている。星の数ほどアイドルや女優さんがいるなかで彼女たちを応援する理由がそこに確かにあった。たまたま僕...

第19節 名古屋グランパス戦。

「劇場版 ファイナルファンタジーXIV 光のお父さん」という映画を見た。結論から言うと本当に面白かった。ファイナルファンタジー自体はそれほどプレイしたことが無かったのだが、遊んでみたいと素直に感じた。やはりコミュニケーションはどんな場面でも必要である。 ここ最近のセレッソ大阪の試合を見ていて非常に感じるのがこのコミュニケーション。選手同士よく聴きよく話をしているのを目にする。少し課題が見えたら聴く話す。問題が大きくなる前に聴く話すができていることが、今のチームの好調さを物語っているように思える。 三点を取ったことよりも失点ゼロのほうが非常に嬉しいのは僕だけでは無いと思うが、何もこれはディフェンダー陣の力だけではなく、ブルーノ・メンデス選手、奥野博亮選手の二人を含む前線から始まる守備。最後の最後まで走り続ける姿は見ていて本当に気持ちが良い。 それもすべてコミュニケーションの賜物であると感じる。当然ここから上手くいかないことも増えていくとは思うし疲労が蓄積し怪我人が出るのだろうが、チーム全体のコミュニケーションで乗り切れるものと信じる。順位はともかくこのサッカーをひたすら見続けていたい。 最近はソーシャルネットワークやチャットというツールのおかげで人とつながるのが簡単になった分だけ、聴く話すという、よりリアルなコミュニケーションがより重要な感もある。この映画とセレッソ大阪からそんな警鐘を鳴らされている気がした。僕自身への戒めとして。 ※ところで。 ※8月3日はセレッソハシゴします。 ※皆様お会いできれば幸いです。 ※写真撮影可能です(笑)。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP ※引き続きNEVER STOP,NEVER GIVE UP Tシャツもよろしくお願いします。

ふたつの言葉。

レゴ®シリアスプレイ®ワークショップを今日入れてあと3日後に開催する。気持ちの高ぶりを抑えながら昨晩もドキュメントを作っていた。それでも高揚するので何となく映画を流しながら仕事をすることにした。その垂れ流していた映画は「マトリックス」である。 僕はこの映画が非常に好きだ。若かりし頃には「現実に起こりうるのかもしれない」と本気で思いながら見ていたのだが、今この時代で改めて、人とAIの関係性などを考えさせられる素晴らしい作品だと感じている。この映画の名言にも実は着目していていたのだった。 それはレゴ®シリアスプレイ®の中でも活かされている言葉であると僕は思っている。ひとつは「Don't think you are,know you are.(速く動こうと考えるな、速いと知れ)」。頭の中で考えてから作るより人間の手が更に素晴らしい結果をもたらしてくれることもあるのだと知る。 そして「Free your mind.(心を解き放て)」。まさにこれがレゴ®シリアスプレイ®の真髄かもしれない。しがらみや価値の相違や固定観念。そんなものから開放されて自由な発言の場を提供する。そのお手伝いを僕のような認定ファシリテーターが正しく導いていくのだ。 今週水曜日、渋谷区の片隅で、ふたつの言葉と作っていくワークショップ。レゴ®シリアスプレイ®を思いっきり楽しんでもらい、学んでもらい、解き放ってもらい、何かを持って帰ってもらおうと僕は考えている。準備の方は徐々に完了に近づいている。当日が待ち遠しい。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

「無音」の心地よさ。

様々な音色に囲まれている日常を飛び出して、音から離れた世界に行ってみたいと時々思ってしまう。誰とも会わず誰とも交わらず静かで穏やかな状況をゆったりと過ごす。ただしそれがずっと続いてもいけない。雑踏の中のオアシスというか、時折やってくるのが良い。 少し前ではあるが映画「さよならくちびる」を見た。女性デュオ「ハルレオ」を主人公とした音楽映画ではあるが、途中途中でやってくる「無音」の心地よさに震えたのだった。人は音無しでは生きていけない。だが人は音と距離を取りたい生き物でもあると改めて知った。 この世は音が溢れすぎている。そんな音に敏感になりすぎている。気持ちを整理する時間すら準備できない時代をしぶとく生き延びるのに必死になるが故、自分すら聴きたくもない音を発してしまうこともある。「さよならくちびる」を見た僕の頭の中を感情が渦巻く。 騒がしい街並みを抜け、僕は思い立って髪の毛を切りに床屋へ行く。静かな空間で髪にハサミが入る音だけが聴こえ・・・いや、ざわついている。スタッフさんの声、声、声。それも良い。「音」と「無音」のハーモニー。このバランス感覚がやっぱり良いものなのだ。 さて「さよならくちびる」である。周りの方々同様に本当に素晴らしい映画だと感じたが、やはりイバ的見どころは小松菜奈さん一択であると叫びたいのだ。どこまでいっても彼女を応援し続けるのだと僕は改めて心に誓ったのだった。これだけは「無音」でいられない。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP