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「荒療治」という手もある。

寒いのにはかなり弱い身体を持っているのではあるが、この秋はとりわけ冷えている感がある。これが冷え性のせいなのか加齢のせいなのか、とんと見当がつかない。とにかくあったかくして寝ないと、風邪を引いてしまいそうな予感もある。

いま風邪など引いてしまったりするといろいろと辛い思いもあるだろうから、何とか薬の力を借りたりしてしっかりと平常を保っていく。それでも難しいときは「荒療治」という手もある。まあ最後の最後なので、その先は無くなってしまうが。

最近、セレッソサポーターの話題を聞く機会が多く、その大半が、いわゆる"良いほうじゃないほう"の内容だ。もちろん老若男女、いわれも由縁も無い間柄で集まって形成されているわけだから多少の問題はあるだろう。ギャップもあるだろう。

当然のことながら、当事者の方々が解決していかなければならないことが大事だ。その結果、代償として様々な反応があるやもしれない。いま、特に声での応援ができないなかで、チームの状況が良くないなかで、考えることは山積みだと思う。

人の気持ちなどうつろいやすいものだ。変わっていく、変わってしまうのは、世の常なのだ。「荒療治」をする必要は今のところ無いのだろうが、是非、より良いチームの姿を目指して前に進んで欲しいなとも思う。そのポテンシャルは、ある。

そういや、いよいよ、首と肩が使い物にならなくなってきた。僕のボディには「荒療治」が必要なのだろうか。五十路を超えてさらにガタが来ているこの身体を何とかしてくださる方を探している今日だ。とは言え、まだまだ通院は難しそうだ。

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