人には、触れられたくない痛みが、ひとつくらいはあるものだ。僕が歴史を好きになるきっかけの小説に、そこに触れたら命のやり取りになる、的なニュアンスの文章があったのをふと思い出す。その小説のタイトルがいまいち思い出せないが。
清水エスパルスとのゲームを「前カノ今カノ」対決で括るのはどうかとは思うが、お互いの監督があまり触れてほしくない部分なのだろうなと思いながら見ていた。サッカーだけに限らず戦術は生き物であり、選手が変われば戦いかたも変わる。
試合はそれこそ、プロの方やセミプロの分析官に任せたい。そこでClubhouseでも少し話題にはしたのだが、太鼓について。セレッソファンの太鼓も聴こえなくはなかったが、スタジアムでもモニタ越しでも、サンバの音色がかなり響いていた。
僕は常々、無駄な太鼓ほど不必要なものは無い思っている。無くても充分に応援をまとめることは可能だ。しかしながらこのコロナ禍では満足な声も出せず、クラップもなかなか合わせる機会が難しい。だから今は太鼓の力を借りる必要がある。
そういう意味では、各クラブの太鼓の方々の苦悩がよく分かる。スタンドで立って応援することもままならない状況で、太鼓の力だけで拍手を統一化させていくのはとても難しいのだろうなと感じる。コールリーダーと太鼓打ちの関係も、然り。
新型コロナウイルスは生活を一変させ、働きかたを一変させ、そして、応援スタイルまでも変えてしまった。セレッソファン、サポーターが一体となって、コールリードのありかた、太鼓がある意味などを議論・対話していくべきだと感じた。
NEVER STOP,NEVER GIVE UP
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