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これからの人生であと何冊の本を読むのだろう。

紹介していただいたので「ことばの認知プロセス」という本を読んでいる。タイトルの通り、認知言語学について書かれている。入門書とは銘打たれているものの、かなり理解に苦しむ箇所がある。真面目に勉強してこなかったツケが今頃回ってきている気がする。それでも読み続けようと思っている。

ジャンルは様々だが年間に100冊は読む目標を立てているのは、この駄ブログではおなじみのフレーズ。今年は少々前に進んでおらずやきもきした毎日を過ごしている。なぜならかなり難しめの本ばかりを読んでいるからに他ならない。文字数もさることながら内容がとてもじゃないがついていけていない。

これからの人生であと何冊の本を読むのだろうか、と、ふと思うときがある。いくら長くてもあとちょっとしか生きられないと思うと、できるだけ「良質な本」か「好きな本」を読みたくなってくる。レビューなどにはあまり流されないタイプではあるが、最近は人の意見を聞くようになったなと感じる。

正直僕の周りでは、本をよく読む方と、ほとんど手にも取らない方の二分化されているような感がある。やはり、本以外にも多くの娯楽が存在し(その筆頭がスマートフォンだが)、人間と本との付き合い方も相当変わってきている。そんな世の中でも常に本は出版され、待ち焦がれた僕らの手元に届く。

専門書で知識を、漫画では心の葛藤を。そして小説によって、頭の中に風景を思い描き、世界中を旅して、ハッピーエンドでもバッドエンドでも自分ごとのように受け入れていく。辛くなったら閉じればいい。嬉しければもっとページを開けばいい。このように多くの本たちと僕は生きていっているのだ。

「FOOTBALL」の「B」。Bookは人生のトモダチだ。これからの短い人生で僕はどれくらいの本たちに出会えるだろう。もしかしたらそれらはF.C.OITOに行けば見つかるかもしれない。本屋という存在はやはり僕をワクワクさせてくれる。行きたいが、その前に読まねばならぬ本が山程積み置かれている。

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