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第32節 川崎フロンターレ戦。

暑いのか寒いのかわからないこの11月という季節。嫌いじゃない。嫌いじゃないが服装に困る。そんな基本的な仕事の格好はTシャツ、ジャージかジャケット、そしてデニム。先日もとある大学を訪れたのだが、そんなときでも最近はあまりスタイルを変えていない。

スーツを着る機会がめっきり減ったので、ときおりスラックスを履くときには胴回りに緊張感が走る。そうならないためにも定期的に足を通しておく必要があるなと感じる。日常とはそんなことの繰り返しなのではないだろうか。「人生は連続する刹那」だと言える。

Jリーグと関わって25年、悲喜交交、様々なシーンを体感してきている。たまたま昨年は運良く二度も素晴らしい経験をしたが、良いことだけが起こるわけでもない。そんな瞬間瞬間をどう生きるのか。サポーター生というものは、実に「連続する刹那」なのだと思う。

結果はご存知の通り、聖地長居で川崎の優勝を見ることになった。しかしながらその「連続する刹那」に一寸の釘を打ち込んだ。選手たちの気持ちかもしれないし僕らサポーターの持っている何かかもしれないが、この試合に勝つことの意味を強く知ることができた。

翌日、既にJ3優勝とJ2昇格を決めていたFC琉球に、6−0と勝利したU−23。川崎戦の想いがそのまま伝わった試合だった。一日一日は「瞬間」でしかないのだがこのように毎日を積み重ねることで物語になっていくと実感する。その輪にいられるのが殊更幸せなのだ。

NEVER STOP,NEVER GIVE UP

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