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第27節 大阪ダービーマッチ。

ダービーとはなにか。というテーマは、サポーターにとっての永遠の問いだ。ただ単に3ポイントを奪い合う(ときには一点ずつ分けあうのだが)だけの、そこらへんの試合とは違う。これはクラブが生まれた28年前からまったく変わっていない。 また逆の意味でダービーとは、その街のバロメータにもなり得る。サポーターのモチベーションやテンションによって、試合の質はかなり変わってくる。そんな生活を、人生の半分以上の期間で意識しながら生きていると思うだけで身震いする。 ましてやとんでもないかたちでの監督人事が行なわれた直後でもあり、サポーターの葛藤が手にとるように分かる展開が繰り広げられ、その渦のなかで、いくつかの番組で話をさせてもらった。そこでも明確なことはただひとつだけなのである。 さて、その本題のダービーは、小菊さんによってどういった色にチームが染まっているのか(たった二日で染めきれたのかは想像に任せる)を確認する試合でもあった。ダービーをそんな品定めのような言いかたになってしまい申し訳なかった。 そんななかで、戦う姿勢を存分に見せてくれたチームに心が躍った。話の中でも、どこまで原点回帰するのか、という部分に興味があったが、この四年間という濃密な時間がグッと凝縮されているのではないかと思い、それでいいや、と感じた。 ダービーの重みと、重苦しい空気を払拭する気持ちとのギャップはそれほどなかった。もちろん相手があってのことなので、一概に比較することをしてはいけないのだろうけれど、監督を変えるとは多分こういうことなのだなと改めて思った。 勘違いをされたくはないが、チームの空気を変えるのと、クラブのコンセプトを変えるのは、似て非なる。いや、まったくもって意味が違う。だから僕らは、覚えておかなければならない。クラブのコンセプトは何も変わっていないと推測する。 だが、まずは小菊さんの元で輝きを取り戻した選手たちが多かったことを喜ぼう。大阪ダービーという勝ち点3以上のありがたみを感じよう。その歓喜も今日を過ぎれば、明日からまた過酷なダービーマッチの旅路が続くのだ。まずは熟睡からだ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

誕生日を過ぎて、思う。

先週、誕生日を迎えた。もう、祝う歳でもないのではあるものの多くの方からのお声をいただき、さらに精進しなければと強く感じている。歳を取れば取るほど、心と身体のバランスを意識していかねばならないことを強く感じながらの毎日だ。 この、心と身体のバランスのひとつに、セレッソ大阪というパラメータがある。サッカーには勝ち負けが存在し、それは時の運でもあるのだが、ゲームのひとつひとつに一喜一憂してしまう。どちらに振れても、心と身体への影響力が半端無い。 さて我らがセレッソ大阪にとってのJリーグ。この道のりはなかなか勝ちにたどり着けていない。ストレスが溜まり、心身のバランスへ負担をかける日々でもある。しかも、シーズンが終盤へ近づくにつれて、あっちこっちへと転移してしまう。 これは愛のせいだ。愛、という名詞と、愛する、という動詞を人は持っていると7つの習慣では書かれていた。愛は瞬間瞬間の表現であり、逆に愛するという行為は時間の概念である。文字どおり愛し続けるという連続する刹那なのでもあるのだ。 我がセレッソ大阪はこの、愛する、という連続体のなかで息をしている生き物のようである。そしてその血や肉は、ファンやサポーターの思いによって構成されているのだ。クラブとはそういうものであって、それ以上でも、それ以下でもない。 今日、ワクチンの二回目を接種してきた。僕の心身すべてが満たされるわけではないのだろうが、まずはひと安心している。先日のハッピーバースデーソングとこのファイザー製の液体が、心と身体のなかを駆け巡っている。まずはそれでいい。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

絶対やれる。

オリロスとはこのことで、コロナ禍の休日の過ごしかたを忘れてしまっている。そういう意味でもスポーツというものは人の心を揺さぶる力があるな、と感じる一方、悪意の対象にもなりうる。どこまで行っても、すべては人のやることである。 言葉はとても重厚だが捉えかたひとつで変化してしまう。受ける側にとってそれは批判にもなり中傷にもなり、逆に励ましにもなる。たとえそれが発信者側の意図しないかたちで受け取られたとしても、ひとつひとつの言葉には責任が存在する。 さて、当のセレッソ大阪である。無失点試合を喜んでいる場合かそうでないかは、捉えかたにもよるだろうが、全体的なチグハグさは素人目に見ても歴然だと感じる。昨年の今頃は安心して見ていられたが、実にもどかしい日々を過ごしている。 「絶対残留」など身に付けたくないのだが、このまま進むと想定の範囲として受け止める必要性が出てくるのが実情。ファン、サポーターがスタジアムでどのような状況かは窺い知れないものの、多くの言葉で埋め尽くされたのは間違いない。 そんななかでもいくつかの光明が見つかったのは嬉しい。選手もサポーターも、いま必要なのは若い力かもしれない。隣の芝は青く見えるが、客観的見方、逆説的な話をするならば、それだけ若い方々にチャンスが訪れているということなのだ。 そんなことを仙台戦を見て感じてしまった。だからこそ若い彼らの奮起に期待するとともに、この逆境を何とか自らの手で乗り越えてみせてほしいと思うのだ。君たちなら「絶対やれる」はず。だからこそ僕らおっさんは君たちを見続けている。 今日のアビスパ福岡戦。かなり大変ななかでのプレイを強いられると思う。僕らの道のりにはいつも試練が待ち受ける。だがそれがなんだというのか。乗り越えられる選手たちだと信じているし、そして、必ずやってくれる選手たちなのでもある。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

次の一足、最後の一足。

日本国民にとって様々な思いが集まった東京オリンピックがいよいよ最終日を迎えている。想定できた事柄、想像を超える出来事など、言葉や文章だけでは表現できないようなシーンの連続。これが「スポーツの力」なんだろうなと感じている。 そんななか、一番の楽しみであったサッカー競技では、男女ともに非常に厳しい現実を突きつけられたように感じている。母国での今回のオリンピックでの無観客のスタンドを見て、ファン、サポーターの重要さや必要性などを強く考えていた。 三位決定戦は結局、仕事の関係でリアルに見ることができなかった。結果は知っていたものの録画した映像を翌朝視聴した。日本の夏、中二日の強行日程と、限界に近い選手達。次の一足、最後の一足が出てこない姿をひたすら目で追っていた。 僕らファン、サポーターが代わってやれるはずもない。彼らの身体的な疲労を回復させることはほぼ不可能だ。だが、僕らには声があり、クラップがあり、何より彼らを心の底から支えようとする「スピリット」「マインド」が備えられている。 僕らは、それらの武器をなかなか活かせない、もどかしい日々を過ごしている。 セレッソ大阪サポーターだけを見ていても、 毎週木曜のウダ夜に話をしていてそう感じてしまう。いま、日本全国のファン、サポーターの気持ちも同様なのだろう。 コロナ禍となって以来、もうかれこれ、一年半以上は大阪に戻っていない。自分自身もそうだが、もとより、東京に住む者としての、自分の周りの方々への配慮の気持ちが非常に大きい。時間の経過とともにそれが限界に近づいているのも事実。 東京パラリンピックが8月24日から始まる。ここでも無観客競技が行なわれるなかで、僕らファン、サポーターの「声」と「クラップ」が選手に届きにくい。次の一足、最後の一足を、選手個人に託さなければならないのが、本当に寂しいのだ。 僕のその限界を乗り越えさせてくれるのも、アミーゴの「声」や「クラップ」。だから僕は今もここに生きている。僕らはスポーツを愛し、そしてスポーツから多くを学ぶ。ウィズコロナでのオリンピックを開催した国、日本。もう少しの時間。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

時代が変わっても。

今頃かよ、と言われつつも「ストーリーとしての競争戦略」を初読み(というかaudiobookなので初聞きなのか)している。常々感じていることのオンパレードだったので、素直に入ってくる気がする。やはり時代が変わっても良いものは良い。 最近、歴史を語るシーンが、公私ともに多くなってきている。やはりもうそういうお年頃なのだろうと腹を括ってもいる。親子いやそれ以上の年齢差のなかで伝えていくのはとても難しいわけなのだが、今では、それも楽しんでいる自分がいる。 オリンピックを見ていてもセレッソサポーターを見ていても、そう思う機会が著しく増えているのは、この若い世代が、僕の思考の範囲や領域を簡単に上回ってくるからなのだ、と考えるようにしている。僕はすでに「予備役」なのかもしれない。 先日は二週間ぶりのウダウダだった。一週休みだけなのに勝手が行かず、なんだかぎこちない感じになってしまい申し訳ない。23回続けてきた習慣の力をものすごく思い出してしまって、迷惑ではあったが「7つの習慣」を若者に薦めてしまった。 繰り返して恐縮だ。この「ストーリーとしての競争戦略」は2010年初版。「7つの習慣」に至っては1996年日本語出版。温故知新、と丸めることだけがすべてでは無いが、時代が変わっても受け入れられるのは「良い物」。自分もそうありたい。 そう言えば昨日、運転免許証の更新で東京都庁にあるセンターに行った際、ようやく東京オリンピックと触れ合うことができた。一回目のワクチンも先程打ったので、色々前に進み始めてもいる。しかしながら八月の大阪は無くなった。残念だ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

良くも悪くもサッカー三昧なのだけれど。

緊急事態宣言下での東京オリンピックが開幕する(実際には既に競技は始まっているのだが)。そのうえ前代未聞な出来事の連続で、もう、どうすればいいのか思考の限界を超えている気もする。気持ちだけはしっかりと保っておきたいものだ。 以前にも書いていたが、女子サッカーのチケットを何枚か持っていた。ことがすべて順調に進んでいたならば、この日曜日にはスタジアムで試合を見ていたのだろうが、類に漏れず、ウェブサイト上では「無効」の文字が煌々と光り続けていた。 男子サッカーの吉田選手も話していたが、ファンやサポーターは選手の最後の一足を手助けする力を持っている。だから無観客という選択が、本当に試合を難しくしているのはJリーグで織り込み済みである。そんななかで僕らはどう向き合うか。 セレッソ大阪、なでしこジャパン、そしてU-24日本代表と、我がクラブにゆかりある選手たちで溢れているこの期間(スタジアムDJもぜひ加えておきたい)。もうこうなったからには、良くも悪くも逆手にとって、サッカーを味わっていきたい。 今週、例のウダウダ(僕のTwitterを見て)は一週お休みさせていただいた。次の木曜日にはものすごい情報量で多くの方と話ができると思うと、この時代を上手く楽しんでいるのだとも言える。コロナ禍で多分、仲間との絆も深まっているのだ。 だからこの緊急事態宣言下の東京オリンピックもポジティブを捉えたい。世界で初めての経験を伝えるためにも、より多くのアクションを意識していきたいと実に感じる。この、良くも悪くもサッカー三昧ななかで、手に入れられるものがある。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP ※プロトタイプ作ってみた。ちょっと薄いな。 ※もうちっと何か出来ないか、考えてみようと思う。

ビジョンと結果の両立。

やはりと言うか何と言うか、東京オリンピックは一都三県で無観客開催とあいなった。女子サッカー数試合ではあったが、チケットを保持していた身としては、「見たかった」と思うと同時に、やはり「厳しいな」と現実的な見方も必要である。 多くの思惑が入り混じっていて混乱しているが、政治の話はここではしないでおこう。言いたいことは ただひとつだけ。 プレイヤーの皆さんが「スポーツの素晴らしさ」を体現し、そして、その姿を自宅で見られることに、常に幸せを感じたい。 そんななかで我らのセレッソ大阪が挑んでいたアジアでの戦いは、傑志とのグループ最終戦をスコアレスで引き分け、しばしの小休止となった。中二日の連戦、そして高気温のピッチは選手たちにとって想像以上に非常に厳しい環境だったろう。 しかしながら、ターンオーバーという言葉だけではまかないきれないほど、多くの経験ができたのではないか。そんな思いをライブで四試合、見逃し配信二試合というモニター越しの映像から感じた。「負け無し」なんてものよりも価値がある。 気持ち良い週末のさなかに、唐突に、森島社長の動画が配信された。いや、唐突などではなく、例のアンケート提出がトリガーとなって、この流れになったのかもしれない。内容については、評価はともかく、良くも悪くもと、双方受け取れる。 サッカークラブもひとつの組織だ。そこには戦略があり戦術がある。そしてこれらにはマネジメントとリーダーシップが存在する。マネジメントとはものごとを「正しく行なうこと」であり、リーダーシップは「正しいことをすること」でもある。 今、特に必要なのは長期的なビジョンと短期的な結果の両立。どちらも大事だが、どちらも求め過ぎてもいけない。そういう思いがここしばらく続いている。ACLでのアカデミー出身選手と、先週日曜日に見たなでしこリーグで、更に確信した。 とにかく今は、リアルにサッカーを見たい。その思いが日に日に増えている。もう何度目だかの緊急事態宣言が改めて始まる東京ではまだまだ難しいところではあるが、長期的なビジョンと短期的な結果を、荒れ荒れの肌で感じていきたいのだ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP