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優しさとその先に。

ファシリテーターなるもの、常に学びがそこにある。今日も朝一番からリモートによる勉強会に参加していた。リモート越しはどうしても言葉尻が厳しくなる、または厳しいと感じてしまう。最大限の思いやりと優しさを持つ、を心掛けている。 いろいろなことを行ないながらのセレッソ大阪三昧だった。U-23の会心の勝利を見届けたあと、ひたすらファン感謝デーをYouTubeライブで見ていた。柿谷曜一朗選手の「これをやって本当に良いのだろうか」という葛藤が実に心に残っている。 いま、人の心が、どうも攻撃的になっているような風潮がある。何が怒りの原因なのかを見つけるのも難しい時代だ。そんななかで、あえてこのファン感謝デーというイベントを見れたことに、少しだけホッとした自分がいることも、否めない。 正直なところ、この手のイベントに行けたためしがない(という記憶しかない)。何となく「これは自分には合わないな」と、若い頃は思い込んでいた節もある。年齢を重ねるごとに、こういうものもクラブの大事な要素なのだと分かり始めた。 僕も何とか人に優しくなれてきたような気もするし、まだまだな気もする。コロナ禍も重なりイライラすることも多いだろう。だが、一歩立ち止まって、相手のことを少しだけでも思いやる気持ちを持てたなら、なんだか優しくなれた気になる。 優しさがすべてを解決してくれるわけでは無いだろうけれど、あれば幸せに生きられるかもしれないなと最近は日々感じる。そしてその先にセレッソ大阪が存在している人生ならば、これに勝る幸福など訪れないのかもしれない。僕はそう思う。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

ボイスメモの音。スタジアムの音。

今、ある資格取得に向けて、通信教育を受講している。テキストとDVDという時代を匂わせる手法で学んでいる途中ではあるのだが、記憶力ベースの学習はどうも苦手だ。もちろんまる覚えがすべて正しい方法ではない。知識は使ってナンボだ。 現在どのように勉強の仕方をしているのかというと、テキストに記載されている内容を漏らすことなく読み上げて、その内容をiPhoneのボイスメモで録音している。そして、ワンコの散歩などの際に、このボイスメモをひたすら聴いているのだ。 自分自身の声を聴くのは恥ずかしいことだ。しかしながら、気のせいではあるものの何となく聴き心地が良く感じる。年齢のせいか頭の中に入っていく率は若い頃に比べて落ちている。工夫でなんとか乗り切りたいのだが、どうなることだろう。 このボイスメモを使ってみて感じたのは声の音質や聴き取りやすさだ。あまり利用してこなかったアプリケーションなのだが、こういう使い方の際には非常にシンプルでかつ効果を出せるのだと僕は素直に思った。案外見逃しがちかもしれない。 先日行なったレゴ®︎シリアスプレイ®︎のワークショップ。ICレコーダーを忘れていて、映像と共にGoogle Meetで録音するのみとなった。やはり遠くからでもあったので、満足できる音質は満たせなかった。そのためレポート作成は困難を極める。 音とは重要なファクターだ。応援歌もそう。独りよがりではなく、選手と、スタジアムと、そして試合と調和していくことが必要だ。最近は動画配信にて事前確認が可能なので、しっかりと予習したうえでスタジアムでの応援を楽しめるだろう。 そして、試合を盛り上げる音楽という音。DJが奏でる声という音。サポーターが張り上げるチャントという音。やはりサッカーはリアル観戦が望ましいということを暗に教えてくれているだけではない。音は生きていて、そして、脳に刻まれる。 初戦は無観客、今回は声援の無い2020大阪ダービーマッチになる。この無音での環境を力に変えるのはどちらのクラブかなんて野暮なことは書かない。必ずやダブルを成し遂げてくれるはずだ。そしていつか、音のあるスタジアムへと帰りたい。 話は戻るがボイスメモ。難点もいくつかある。そのひとつが連続再生。3〜4分の音声をいちいち再生しなければならない。誰か上手い使いかたをご存知あればお教えいただければ幸いである。そんなこんなでまた...

ヨーロッパチャンピオンズリーグを見る。

いかなる時代も、世の中は常に変わっていくのだが、僕ら人間はどうしてもその現実を受け入れられない場合があったりする。よく「バイアスがかかっている」なんて言われかたもする。この世は普遍的であり不変的であると勘違いしてしまう。 最近は、昔ほど(年に200試合以上は海外サッカーを録っていたのだ)は見れてはいなかったのだから偉そうには言えない。言えないのだが、今季からヨーロッパチャンピオンズリーグを見ることができなくなるのかな、とか思ったりしていた。 そんななかでヨーロッパチャンピオンズリーグをUEFA.tvで見ている。もちろん実況や解説は聞けないが、試合を見れる喜びを噛み締めている。欧州最高峰の闘いを楽しめるだけでもありがたい。しかも2020〜2021シーズンは無料なのだそうだ。 こんなことを書きたかったのではなかった。バイアスの話だった。やはりこの、凝り固まった考え方や、「この方法しかない」と思ってしまい可能性を否定していってしまう。こうなると柔軟さそのものを失っていき、新たな考えは露と消える。 世の中は変わるもんだ、永遠に続くものなど存在しないのだと考えていれば、出来事に対して都度都度めくじらを立てることも、無くなるのではないかと僕は思ったりする。そんなことを、フットボールを見ながら頭の中で回らす。今日この頃。 今しがた、非常に嬉しいことがテレビを見ていて起こった。バイアスを取り除いて考えに考えて出した答えが、時が経った今、形となって表れたことに本当に感動している。やはり、やっていることは間違えていないんだなとか思ったりしている。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

澪標。身を尽くし。

大阪市の市章、「澪標」が好きだ。航路を示す標識でもあるこのシンプルなシンボルマーク。時折セレッソ大阪サポーターのコレオグラフィにも利用されたりする。源氏物語の第14帖を代表として、古くから日本国内で愛される存在の「澪標」。 大阪市廃止・特別区設置住民投票。いわゆる「大阪都構想」の住民投票が、ダービーマッチ直前のまさに今週末に迫っている。様々なところで多くの議論や対話がされている状況でもある今。セレッソファン、サポーターの視線も注がれていく。 もしこの大阪都構想が実現するとなると、サッカーショップ蹴球堂にも幾ばくかの何かが降り注いでくる。まずは、少なくとも、住所が東住吉区から天王寺区に変わることになるらしい。事務的な手続きがどの程度発生するのかは、まだ不明だ。 それにより、現在登録している様々なサービスなども変更していかなくてはならないのだ。もちろんそれほど多くは無いのだけれど、とは言え手間がかかることには変わらない。考えただけでもあれとこれと・・・と少々多岐に渡りすぎている。 まあ蹴球堂はそれほどでも無いという結論でいいと思う。それ以上に感じているのが、考え方の違いだ。人間だから、いろんな思想があり、いろんな考え方もある。今回の大阪都構想も、賛成、反対、それ以外という選択はひとりひとり自由だ。 そこに「 セレッソ大阪」という象徴が、 僕らのようなファン、サポーターの考えと重なっていく。1993年。「大阪市にプロサッカークラブを作る」と掲げた言葉がリフレインする。このリフレインは賛成反対どちらに向けたものかも分からない。 「澪標」とは「身を尽くし」とも言われることがある。どんな結果が訪れたとしても、僕らのセレッソ大阪への身を尽くした愛は変わらないのだろう。だから、この街の行く末を見届ける必要が僕らにはある。まさに、身を尽くす、自分ごとだ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

「荒療治」という手もある。

寒いのにはかなり弱い身体を持っているのではあるが、この秋はとりわけ冷えている感がある。これが冷え性のせいなのか加齢のせいなのか、とんと見当がつかない。とにかくあったかくして寝ないと、風邪を引いてしまいそうな予感もある。 いま風邪など引いてしまったりするといろいろと辛い思いもあるだろうから、何とか薬の力を借りたりしてしっかりと平常を保っていく。それでも難しいときは「荒療治」という手もある。まあ最後の最後なので、その先は無くなってしまうが。 最近、セレッソサポーターの話題を聞く機会が多く、その大半が、いわゆる"良いほうじゃないほう"の内容だ。もちろん老若男女、いわれも由縁も無い間柄で集まって形成されているわけだから多少の問題はあるだろう。ギャップもあるだろう。 当然のことながら、当事者の方々が解決していかなければならないことが大事だ。その結果、代償として様々な反応があるやもしれない。いま、特に声での応援ができないなかで、チームの状況が良くないなかで、考えることは山積みだと思う。 人の気持ちなどうつろいやすいものだ。変わっていく、変わってしまうのは、世の常なのだ。「荒療治」をする必要は今のところ無いのだろうが、是非、より良いチームの姿を目指して前に進んで欲しいなとも思う。そのポテンシャルは、ある。 そういや、いよいよ、首と肩が使い物にならなくなってきた。僕のボディには「荒療治」が必要なのだろうか。五十路を超えてさらにガタが来ているこの身体を何とかしてくださる方を探している今日だ。とは言え、まだまだ通院は難しそうだ。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

坂を登る。

先週、仙台を訪れた際、わずかばかりの時間があったので瑞鳳寺というお寺に行くことにした。仙台の絶好の気候に騙されて(!)何故か歩こうと思い立ってしまった。2キロの距離はそれほどなのだが、最後の坂道はまったく聞いていなかった。 バスで近くまで行って最後の坂を迎えるのと、そこまでの徒歩で疲れ果てた末の坂とでは、意味が完全に変わってくる。力尽きかけようとするその刹那、お目当ての史跡が見えてきて、ホッとすると同時に、足の力が抜けて座り込んでしまった。 シーズンもそんな険しい旅のようなものだ。いつもいつも最後の最後で急な登り坂が待っている感がある。どこのクラブも同様ではあるが2020年は特に、序盤も中盤も厳しく辛い。もちろんのこと終盤も急勾配を駆け上がっていく感覚でもある。 残り試合が一桁程度になってきて二位争いもますます混迷が深まっているJ1。疲れ果てて座り込んでしまうくらい、最後の最後まで走り続けていってくれると信じている。アップダウンの激しいこのシーズンは12月までまだしばらく続いていく。 だから、まずは、目指すべき場所に向かって、一緒にこの坂を登っていこうではないか。へたり込んでしまったら、共に立ち上がろうではないか。僕らはそうやって三十年近く、この険しい坂を目の前にして、気持ちをひとつにしてきたはずだ。 さて、話は戻るが、この瑞鳳寺には西南戦争に関する史跡がいくつかある。明治維新はこの明治十年の日本最後の内戦で締め括られているとも言われることがある。この、多くの命が犠牲となった戦いに馳せる思い。ここでも多くの坂があった。 いつの時代もこの「坂を登る」という時間と共に生きている。登り切った先には、また新たな坂が待っている。だが、僕らはまたその坂にチャレンジしていく生き物なのだなと、改めて実感している。当然のことながら下り坂もマサカもあるが。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP

第24節 浦和レッズ戦。

もうこれで、正真正銘の最後となるのだろう。三勝三敗三分けというまったくの五分で迎えた、十回目のU-23大阪ダービーマッチ。感情に浸りながらその試合を見ていた。結果的にはこれで良かったのかな、と思ったりする自分も存在している。 それにしても昨日の浦和戦。 今日の「これぞダービー」と感じてしまうくらいの熱い試合を見てしまった以上、 書くことがとても少ないゲームだったなと感じてしまう。二位を目指す情熱を見せたかと思えば次節ではこんな試合になってしまう。 まだまだ真の強さが身に付いているわけではないのは重々承知している。今年の変則的なリーグの恩恵を受けているのも重々承知している僕ら。だからこそ一試合一試合に重みがある。その目の前の試合を大事にできるかどうかにかかっている。 そのなかで非常に印象の薄い試合になってしまうのが非常に口惜しい。次の大阪ダービーマッチでその鬱憤をすべて晴らすことができるだろうか。僕はもちろんテレビ観戦になるのだろうが、今日のU-23のように記憶に残る戦いを見せてほしい。 さて、ゴール裏サポーター(今は集まることはできないけど)の話を色々と聞かせていただいた。書けるような内容では無いのだけれど、この状況において目的をひとつにチームを導けるファクターのひとつがゴール裏のウルトラだと僕は思う。 ウルトラのひとりひとりが真剣にセレッソ大阪と向き合って、応援だけではなく、真のサポートが見えることを願ってやまない。あと、感じたのだが、やはり太鼓は、スタジアムをひとつにするための道具なのだな。そのためだけにあるのだ。 うちの太鼓打ちも多分こういう試合からそんなものを学んだのではないだろうかと推測する。太鼓打ちとは、叩きたいから叩くのではなく、スタジアムを声を拍手をひとつにする覚悟の上に存在する。二十数年の歴史。そんなに甘くはないよね。 NEVER STOP,NEVER GIVE UP