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変わらなければ変わらない。

連日の熱戦に身体が持たなくなる戌年男が考えるワールドカップロシア大会。ひと言で表すとするならば「変」。前回のブラジルでも感じたが、今回は更に既存の勢力図が変わっていこうとしている。そんな感覚を楽しんでいる自分がいるのも事実。

想像ではあるのだが、多分、力の差を補うメソッドが徐々にそしてある意味急激に確立してきたのだろう。フォーメーション、戦術、そして選手の持つポテンシャルの活かし方など、強敵と戦う際の展開含め、いろいろな選択肢が相当増えているか。

その時、監督の力が必要になると僕は思っている。速い遅い広い狭いというものだけでなく、監督の考えや采配ひとつで変わる可能性はことのほか大きい。一年で僅かな時間しか与えられない代表監督の手腕というものに、なぜだか共感してしまう。

勿論その国のサッカーに対する文化や情熱といったものに大きく影響されると思う。お国柄や選手の基質、ファンやサポーターの目などもその国のサッカーを大きく変えてしまうバロメーターではある。代表監督はそんなプレッシャーとも戦っている。

そんな中での四年に一度のワールドカップ。弱者が強者に勝つ、だけではない何かが宿っている大会。今や既に「ジャイアントキリング」などという言葉すらも形骸化してきたようなイベントになっていることを、見ていてものすごく感じているのだ。

先日のこの投稿(レゴシリアスプレイとその効果。)のとおり、二十代前半の若者たちに集まってもらってレゴシリアスプレイのファシリテーターを務めさせてもらった。その際のワークのひとつ「自分が社長になったら」で少々面白い発見をした。

若さというものは時に無謀で時に頼りなく時に儚いものだと、綺麗な言葉で飾るとこんな感じかもしれないが、実に考えていることが自分自身のその頃と比べても相当変わってきている気がした。理想と現実、持っている価値観などは興味深かった。

人の特性、と言ってしまえばそれまでだが、世界人口70億人中のわずか11人でもその違いが如実に表れカタチとなる。そんなことを考えながらファシリテーションしていた。そしてこの尊敬すべき若者たちと共に強敵と戦うことをイメージしながら。

戦略は正しいか。彼らをどのように育て、力を見定め、適正な配置をどう組むか。相手とのバランスはどうか。それに併せて戦術はどう考えるべきか。プロセスと結果をどう分析するか。そしてアウトカム、フィードバックループはどう回すか、だ。

年功の序列という悪しき文化も若い彼らなら変えていける。自分自身もその場に居続けられるかどうか。更に成長(飲み会の多さとか身体の大きさではなく人間的な意味で)していかなければ「ジャイアントキリング」が起こる羽目になるのだろう。

ワールドカップに出場しているチームと比較するのはどうかとは思うが、考えるべきことはそんなに変わってはいないのだと僕は思う。監督、コーチ、部長やマネージャーはそのために存在しているのだと実感する。だからこの職業は面白いのだ。

そんな若者たちが既存勢力に変わって組織を成長させるリーダーになる日も遠くは無いだろう。その時「そこにいた」人たちがどう変わるか。昨日のブラジル-コスタリカ。あのロスタイムのセレソンのあのプレーにその「変」を見た気がしたのだ。

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