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サッカーができる幸せ、サッカーを見れる幸せ。存在の意義を考える。

東京に来て以来、毎年8月15日になると靖国神社に向かうようにしている。あの戦争について知っていること知らないことがまだまだ存在しているのだが、今年は知覧に行ったこともあり、より強い気持ちを持っている自分がここにいる。決して忘れてはいけないと。

以前、ブログでも書いたのだが、最近あの戦争について様々な書物や映画をよく見るようにしている。元来幕末期や明治維新が好きで主だっていたのだが、日露戦争から昭和初期にかけての歴史や文化、終戦に至るまでの道程や他国との関係性など非常に意味深い。

73年前の8月6日9日にふたつの街を襲った悲劇。頭の中から消えることはないが、残念ながら意識して思い浮かべるなどできていない気がしている。そんな終戦記念日まであと数日となった昨日。サンフレッチェ広島とV・ファーレン長崎の試合が広島で行なわれた。

この試合をアミーゴが「ピース・ダービー」と呼んでいた。呼び名がどうこうというわけではないのだが、この試合がこの時期に行なわれることの意義についてだけは改めて考えさせられる。原爆ドームと平和祈念像の前に立ったときのあの感覚をふいに思い出す。

僕が40年余りをともに過ごしてきた戦後の七十余年。こんな悲惨な戦争が二度と起こることのない平和な世界で行なわれるサッカー。多くの先輩方のおかげで今、このようにサッカーを人生の一部にして生きていくのが可能となったことを感謝しきれないほどだ。

せめて、毎年この期間だけでも”平和な世界でサッカーを”を考えることができれば、歴史は忘却の彼方に向かわない。サッカーができる幸せ、サッカーを見れる幸せ。戦争を知らない僕らがサッカーを通じて知る存在の意義を、噛み締めながら一日一日を大事に。

NEVER STOP,NEVER GIVE UP

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