選手として戦う先を模索している本田圭佑選手のアグレッシブな行動活動を見ていて、この方は本当にブレないなといつも感心している。このメンタル。一体どこから来るのだろうか。身近なアミーゴの中にも同様の方がいたりして、いつもタイムラインから勇気をもらっている日々だ。
僕が在籍している業界ではキーワードとして「やらされ感」なんてものが意外と頻繁に出てくる。感情、しがらみ、上下関係、固定観念、既成事実、立場の違いなど様々な要因によってその質が上下左右にブレたりする。先日も話をしていてそんなことを感じてしまった。悲しいけれど。
果たして、この「やらされ感」という感情は一体何でどんなところから湧き上がってくるのだろうか。自分のやりたいこととそのギャップから来てしまうのだろうか。そのギャップというものが違った感情を抱かせるのだろうか。それとも考えすら無いために発生してしまうのだろうか。
果たして、この「やらされ感」という感情は一体何でどんなところから湧き上がってくるのだろうか。自分のやりたいこととそのギャップから来てしまうのだろうか。そのギャップというものが違った感情を抱かせるのだろうか。それとも考えすら無いために発生してしまうのだろうか。
プライベートではできる(僕がそう思っているだけかも)のに仕事になった途端に「やらされ感」が勝ってしまうのは何故だろう。能力はあるのに残念な人を僕も結構見てきたのだが、こうなってくるとどんどん仕事が楽しくなくなってしまうのではないかと僕は懸念する日々でもある。
ではなんで自分ごとにできないのか、という疑問がすぐに浮かんでしまう。大きな原因のひとつに「好き」とか「愛する」とかいう心が足りないのだろうと強く感じる。こう書くとまたおかしな人と判定されるが、実にそう思ってしまうのだ。そもそもの原理原則がブレているのだろう。
仕事は事務なのかもしれないが、仕事をする自分や仕事によって生まれてくる成果物は常に「心」を持っている。そう考えれば、面白くない仕事(だと思っている)だからこそ自分の力で心で面白い仕事に変えていけるはずだ。多分、それくらいの簡単でシンプルなことなのではないか。
枠の中であっても枠にはまらない生き方や働き方は必ずできるはずだ。だいたい枠なんていう考え方自体が、今の時代においては古いのだとも感じる。つまり、人にはそれだけのパワーが既に存在しており、そして、バイアスが取り除かれたときのパワーの凄さを信じていいってことだ。
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