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第9節 大分トリニータ戦。

「ストロベリーナイト・サーガ」を二話ほど見た。ぶっちゃけた話「ストロベリーナイト」を見ていなかったせい(おかげ?)で予備知識無しで味わうことができている。良いことも悪いこともだが、過去と今を見比べてしまうのは人間の性だということなのだろうか。

良い時のイメージだけが頭に残り都合の悪いイメージは余所に退けてしまうのも人だ。セレッソ大阪ファンの僕もこの幻影と戦い続けている。ゴールが欠乏しているチームへの想いとその温度差のギャップ。更に「ロティーナのサッカーの浸透は時間がかかる」という言葉。

昨日の大分戦はメンバーを入れ替えて臨んだ。「深さを出す」というロティーナの言葉が体現できたかどうかは分からないが、お互いの持ち味が出て良い試合だったように思う。しかしながらゴールを決めない限りは、如何に無失点で抑えたとしても勝つことはできない。

清武弘嗣選手の悲壮感たっぷりだったインタビューを試合後に見た。人間の性とは実に難しい。上手くいかない時も多々ある。だからこそこの転換期を大事にしたい。大事に大事に育てていきたい。育てた結果の先に過去を乗り越える何かが得られるのかもしれない。

結局のところ、元号が変わる最後の試合もスタジアムで見ることができなかった。令和の時代に僕らのサッカーはどのように変わっていくだろうか。今日NEXTの試合から何かを感じ取れるだろうか。セレッソ大阪と共に生きた平成の時代だったなと改めて心に刻んでおく。

「セレッソ大阪、今ここに・・・」

NEVER STOP,NEVER GIVE UP

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