前回に引き続いて、講演会「サポーター・アイデンティティ~We will always be here,ever~」の書き起こしをここに記していく。全てのJリーグのファン、サポーターがこんなことを考えているわけではないだろうが、大半が生活の一部(全部の方もいるかも)として深く根付いている。
さて後半は、セレッソ大阪との関係や、今の自分を形成する上で非常に重要な出来事が多く存在した時期の話でもある。ドキュメントは一応作成はしたのだが、ほぼ原稿なしに話していたのでかなり適当感が溢れているのはご容赦いただきたい。気持ちが伝わってくれたらと切に願う。
(全て当時書き起こしていただいたママ)
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
●(合間に)
だいぶ端折ってしまっているので、 あとで聞いてくれても、
メッセージを送ってくれても大丈夫です。
―サポーター人生を考えよう
~応援を通じて、サッカーを通じて、つながりの社会、この社会を広げていきたい~
Jリーグができて22年目、
たかだか20年ぐらいで人生を語るのは難しいが、
みなさんの参考になればと思います。
サポーター人生とはなにか?
今年で44歳になります。
サポーター、ファンとのつながりが、 自分の人生の中での影響力が大きいです。
ここにいるメンバーでも10代~高齢まで幅広くて、老若男女様々ですね。
お年を召した方に怒られることもあります。
会社では立場があるので中々怒られませんが、 スタジアムではよく怒られます。
この会を企画してくれた人も含め、 若い子たちが成長していく様子に、 純粋なサッカーの見方を学ぶこともあります。
C6(※サポーターユニット)もずっと応援してくれています。
セレッソサポーターだけではなく、人生についても階段を登ってきました。
今でも子供扱いされることが多いです。
鬼武さんの奥さんに40歳超えた今でも「お菓子食べ」と言われます。
20歳ごろのイメージのままで、子供のように見られています。
小学校低学年のころにこういう社会経験をできるのは影響が大きいと思います。
サッカー以外の因果関係のない大人と、
応援を通じてつながって、そこで怒られたり褒められたりします。
それによって社会の仕組みを学ぶ。
村や町が衰退する中で、
応援を通じて、サッカーを通じて、つながりの社会、
この社会を広げていきたいですね。
―蹴球堂誕生秘話
~長居にサッカー文化と交わって、やっていけるお店を作ろうと思いました。~
2000年5月27日の試合から数年経って
声をだして選手に届ければサポーターと思っていたが、
応援をする=サポーターという認識は正しいのかと、
大人になって思うようになりました。
セレッソと、選手と、サポーター同士、 街と、
どうつながるのかを考えるようになりました。
アイデアや、やりたいことが増えてきました。
そして、いろんなできごとがありました。
2003~2005年頃には、仕事で近い将来東京で勤務する必要が出てきました。
東京に行ったらおそらく帰ってこられない。
セレッソ大阪と自分と大阪との間に印を残して、東京に行きたいと思いました。
東京でもセレッソに役立つにはどうすればいいのか、
セレッソ大阪への還元のしかたを考えていました。
蹴球堂ができたのは2006年です。
枡田さんにすごく相談しました。
自分は出来がいい(?)ので出世して、収入も増えました。
セレッソに投資ができる。
セレッソユースの育成がいいのではと思っていました。
きっかけは1998年頃の藤井さんが社長の時代、
バイエルンミュンヘンと業務提携していたこと。
(余談)
藤井さん(元社長)から昨日、
「明日行けない。残念です。」と連絡があった。
北海道日本ハムのキャンプがあるらしいです。
当時バイエルンミュンヘンのケルンさんがセレッソに来ていて
食事をする機会がありました。
ユースの監督の足達さん(現AC長野パルセイロのスポーツディレクター)から
「ユースをもっと見に来て欲しい。」と言われました。
(余談)
自分はアディダスが好き。
「ミズノ着ないとは何事だ」と足達さんに怒られたこともあります。
ユースをもっと強くしたいと思っていました。
そのためにお金を使う、スポンサー制度がありました。
基本は、企業が年間50万円ぐらいを出してセレッソの底上げをするものです。
最初は、蹴球堂をオープンさせる気はなくて、
毎年50万円を出すつもりでいました。
しかし、宮本さんから
「この制度はうまくいかない。やめておいたほうがいい。ユースを支援する組織を作る。」と言われました。
それでユースではなく他のことにお金を使うことにしました。
そして、ハナサカクラブができてユースが進化しました。
では、お金をどう使うか。
元々あったお店が応援することはあったが、続く店、続かない店がありました。
そこで、長居にサッカー文化と交わって、やっていけるお店を作ろうと思いました。
ちなみに「蹴球堂」の名は意図があったわけではないです。
横文字のお店が多く、嫌だったので漢字の名前にしました。
2006.5.27に蹴球堂オープン。
今年で8年。
みなさんにお越しいただき、スタッフ一同喜んでおります。
―サポーター生とは
~自分はどうありたいかを考えると、もう一歩踏み出せるようになります~
若いころはどうしたらいいか考えていませんでした。
30過ぎてセレッソとどう歩んでいくかを考えだして、手帳などにアイデアを書いていました。
それを行動に移していったことが、 自分のサポーター生につながっています。
とは言え、横槍も多かった。
スタジアムマスターの方と東京で2人で飲むことが多いですが、よく「クラブに入れ」と言われるが、正直その気は全くないです。
サポーターとしてどう支えていくかしか考えていません。
自分はセレッソのオーナーになりたいです。
無理かもしれないがサポーター人生の夢の1つ。
みなさんもセレッソとどう歩んでいくかを書き出すといいと思います。
夢でもよくて、実現可能性はどっちでもいいです。
自分はどうありたいかを考えるともう一歩踏み出せるようになります。
たぶんオーナーにはなれないでしょう。
しかし夢をもってやっていきたい。
―気負わず継続して楽しむ
~サポーターは、選手と一緒に戦って、勝った負けたを感じ、
いろんなものを背負うことが多いです。
でも、楽しんでやることが一番だと、最近は感じます~
楽しむことが一番だと思います。
サポーターは選手と一緒に戦って、勝った負けたを感じ、いろんなものを背負うことが多いです。
しかし気負いすぎず、継続してやっていきたいです。
自分はいい加減で典型的なB型。やることは早いけど継続しない。
あとは誰かがやってくれると思っています。
しかし、応援しているときは背負わなければいけないと思っています。
ゴールを取らせるための応援などをやろうとします。
でも、楽しんでやることが一番だと、最近は感じます。
今、セレッソは調子が良くて強いです。 応援も盛り上がっていますね。
年間2試合ぐらいしか生で見られませんが、 帰ってくると応援がものすごいと感じます。
楽しんでやっていってもらいたいと思います。
リーダーは背負わないといけないという感覚があり、
応援をどうするかが仕事だとか、試合をどうするかとかを考えてしまいがちです。
個人的な意見で失礼かもしれませんが、
リーダーは「応援を一体化すること」がやるべきことではなくて、
「試合と応援を一体化すること」がやるべきことだと思います。
やり方は僕もわからないが、
常々追い求めていくべきことだと思います。
今は年間120試合ぐらい試合を見ます。
ヨーロッパのサポーターは応援をほとんどしていません。
声を出したから応援なのかどうか、文化の違いもありますね。
しかし、試合の盛り上がりのかけ方はちゃんとしています。
そういう部分をリーダーは考えているのだなと分かります。
試合とサポーターが一体化する応援、そんなリーダー像がいいと思いますね。
●長居第二問題 ~リーダーの難しさについて~
1994年JFLで優勝し、1995年Jリーグ1年目 、
1994年はメインで応援していましたが、
1995年からはどこで応援するのかが問題になっていました。
最初のポジションはバックスタンド左端になりました。
メインスタンドから降りたらゴール裏にいけるイメージがあったので、決めている人たちと揉めました。
当時はゴール裏に太鼓持ち込み禁止となり、持ち込もうとすると警備員に止められる状況でした。
どこでどうやって応援するのか話し合いがありました。
自分は短気で、(そのせいで)納得いかないと席を外してしまいます。
その時残ったメンバーに向かって言われたことが、
「お前らのリーダー出ていったぞ。お前らどうすんねん。」
そう言わせてしまったことに対して、 リーダーって難しいと感じました。
自分はリーダーだとは思っていませんでした。
今も忘れられない言葉です。
―背負わない
~一人ひとりが戦えばいいんです。
全員がサッカーを好きでありつづけること、 それが素晴らしいチームを作ります~
応援をリードする人は必要です。
試合の流れに合わせて応援をどうするかをリードすること。
しかし、背負う必要は全くないです。 一人ひとりが戦えばいいんです。
全員がサッカーを好きでありつづけること、 それが素晴らしいチームを作ります。
その中でリーダーが応援をリードして、 試合と一体化することが大切です。
応援をできる楽しみが、 サポーター人生であれば、死ぬまで応援を続けられると思います。
―最後に
~次の40~50年をつくっていくために、
今日集まってくださった人や、サポーター、クラブ、選手、市民一体となって、
アイデンティティを広めていく。 僕らの存在意義をつくっていければいいな、
という想いがあります~
盛りだくさんの話をしてしまったので、わかりづらかったかもしれません。
20年ファンをしていたらいろんな思い入れがあります。
今はSNS、ブログなど表現できるようになりました。
人との繋がりも多いです。
この先もサポーターは20年30年続いていく。
100年続けていくことは難しい。 100年後に自分はいません。
自分が務めている会社は創業90年だがこれは中々大変なことです。
自分の家族だけではなく、サポーターとのつながり。
今年はセレッソ20年で、21年の次は30年。次は40年。
きっとサポーターのアイデンティティは残っていく。
記録にも記憶にも残ります。
大半のサポーターは記録には残らないが記憶には残ります。
きっとこの場にいることも記憶に残ります。
それが次のセレッソアイデンティティにつながります。
みんなで楽しんでセレッソを味わっていきたいですね。
次の40~50年をつくっていくために、
今日集まってくださった人や、サポーター、クラブ、選手、市民一体となって、
サポーター・アイデンティティを広めていく。
僕らの存在意義をつくっていければいいな、という想いがあります。
自分は文を作るのが好きです。
いい英語が見つかったのでそれを紹介します。
発音はヘタですが、
「We will always be here,ever.」
僕らはいつでもここにいる、ずっと。
セレッソアイデンティティを広めていきたいです。
これで話を終わります。
長きに渡りありがとうございました。
SNSのフォローもお願いします。
質疑応答へ続く。
NEVER STOP,NEVER GIVE UP
さて後半は、セレッソ大阪との関係や、今の自分を形成する上で非常に重要な出来事が多く存在した時期の話でもある。ドキュメントは一応作成はしたのだが、ほぼ原稿なしに話していたのでかなり適当感が溢れているのはご容赦いただきたい。気持ちが伝わってくれたらと切に願う。
(全て当時書き起こしていただいたママ)
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
●(合間に)
だいぶ端折ってしまっているので、 あとで聞いてくれても、
メッセージを送ってくれても大丈夫です。
―サポーター人生を考えよう
~応援を通じて、サッカーを通じて、つながりの社会、この社会を広げていきたい~
Jリーグができて22年目、
たかだか20年ぐらいで人生を語るのは難しいが、
みなさんの参考になればと思います。
サポーター人生とはなにか?
今年で44歳になります。
サポーター、ファンとのつながりが、 自分の人生の中での影響力が大きいです。
ここにいるメンバーでも10代~高齢まで幅広くて、老若男女様々ですね。
お年を召した方に怒られることもあります。
会社では立場があるので中々怒られませんが、 スタジアムではよく怒られます。
この会を企画してくれた人も含め、 若い子たちが成長していく様子に、 純粋なサッカーの見方を学ぶこともあります。
C6(※サポーターユニット)もずっと応援してくれています。
セレッソサポーターだけではなく、人生についても階段を登ってきました。
今でも子供扱いされることが多いです。
鬼武さんの奥さんに40歳超えた今でも「お菓子食べ」と言われます。
20歳ごろのイメージのままで、子供のように見られています。
小学校低学年のころにこういう社会経験をできるのは影響が大きいと思います。
サッカー以外の因果関係のない大人と、
応援を通じてつながって、そこで怒られたり褒められたりします。
それによって社会の仕組みを学ぶ。
村や町が衰退する中で、
応援を通じて、サッカーを通じて、つながりの社会、
この社会を広げていきたいですね。
―蹴球堂誕生秘話
~長居にサッカー文化と交わって、やっていけるお店を作ろうと思いました。~
2000年5月27日の試合から数年経って
声をだして選手に届ければサポーターと思っていたが、
応援をする=サポーターという認識は正しいのかと、
大人になって思うようになりました。
セレッソと、選手と、サポーター同士、 街と、
どうつながるのかを考えるようになりました。
アイデアや、やりたいことが増えてきました。
そして、いろんなできごとがありました。
2003~2005年頃には、仕事で近い将来東京で勤務する必要が出てきました。
東京に行ったらおそらく帰ってこられない。
セレッソ大阪と自分と大阪との間に印を残して、東京に行きたいと思いました。
東京でもセレッソに役立つにはどうすればいいのか、
セレッソ大阪への還元のしかたを考えていました。
蹴球堂ができたのは2006年です。
枡田さんにすごく相談しました。
自分は出来がいい(?)ので出世して、収入も増えました。
セレッソに投資ができる。
セレッソユースの育成がいいのではと思っていました。
きっかけは1998年頃の藤井さんが社長の時代、
バイエルンミュンヘンと業務提携していたこと。
(余談)
藤井さん(元社長)から昨日、
「明日行けない。残念です。」と連絡があった。
北海道日本ハムのキャンプがあるらしいです。
当時バイエルンミュンヘンのケルンさんがセレッソに来ていて
食事をする機会がありました。
ユースの監督の足達さん(現AC長野パルセイロのスポーツディレクター)から
「ユースをもっと見に来て欲しい。」と言われました。
(余談)
自分はアディダスが好き。
「ミズノ着ないとは何事だ」と足達さんに怒られたこともあります。
ユースをもっと強くしたいと思っていました。
そのためにお金を使う、スポンサー制度がありました。
基本は、企業が年間50万円ぐらいを出してセレッソの底上げをするものです。
最初は、蹴球堂をオープンさせる気はなくて、
毎年50万円を出すつもりでいました。
しかし、宮本さんから
「この制度はうまくいかない。やめておいたほうがいい。ユースを支援する組織を作る。」と言われました。
それでユースではなく他のことにお金を使うことにしました。
そして、ハナサカクラブができてユースが進化しました。
では、お金をどう使うか。
元々あったお店が応援することはあったが、続く店、続かない店がありました。
そこで、長居にサッカー文化と交わって、やっていけるお店を作ろうと思いました。
ちなみに「蹴球堂」の名は意図があったわけではないです。
横文字のお店が多く、嫌だったので漢字の名前にしました。
2006.5.27に蹴球堂オープン。
今年で8年。
みなさんにお越しいただき、スタッフ一同喜んでおります。
―サポーター生とは
~自分はどうありたいかを考えると、もう一歩踏み出せるようになります~
若いころはどうしたらいいか考えていませんでした。
30過ぎてセレッソとどう歩んでいくかを考えだして、手帳などにアイデアを書いていました。
それを行動に移していったことが、 自分のサポーター生につながっています。
とは言え、横槍も多かった。
スタジアムマスターの方と東京で2人で飲むことが多いですが、よく「クラブに入れ」と言われるが、正直その気は全くないです。
サポーターとしてどう支えていくかしか考えていません。
自分はセレッソのオーナーになりたいです。
無理かもしれないがサポーター人生の夢の1つ。
みなさんもセレッソとどう歩んでいくかを書き出すといいと思います。
夢でもよくて、実現可能性はどっちでもいいです。
自分はどうありたいかを考えるともう一歩踏み出せるようになります。
たぶんオーナーにはなれないでしょう。
しかし夢をもってやっていきたい。
―気負わず継続して楽しむ
~サポーターは、選手と一緒に戦って、勝った負けたを感じ、
いろんなものを背負うことが多いです。
でも、楽しんでやることが一番だと、最近は感じます~
楽しむことが一番だと思います。
サポーターは選手と一緒に戦って、勝った負けたを感じ、いろんなものを背負うことが多いです。
しかし気負いすぎず、継続してやっていきたいです。
自分はいい加減で典型的なB型。やることは早いけど継続しない。
あとは誰かがやってくれると思っています。
しかし、応援しているときは背負わなければいけないと思っています。
ゴールを取らせるための応援などをやろうとします。
でも、楽しんでやることが一番だと、最近は感じます。
今、セレッソは調子が良くて強いです。 応援も盛り上がっていますね。
年間2試合ぐらいしか生で見られませんが、 帰ってくると応援がものすごいと感じます。
楽しんでやっていってもらいたいと思います。
リーダーは背負わないといけないという感覚があり、
応援をどうするかが仕事だとか、試合をどうするかとかを考えてしまいがちです。
個人的な意見で失礼かもしれませんが、
リーダーは「応援を一体化すること」がやるべきことではなくて、
「試合と応援を一体化すること」がやるべきことだと思います。
やり方は僕もわからないが、
常々追い求めていくべきことだと思います。
今は年間120試合ぐらい試合を見ます。
ヨーロッパのサポーターは応援をほとんどしていません。
声を出したから応援なのかどうか、文化の違いもありますね。
しかし、試合の盛り上がりのかけ方はちゃんとしています。
そういう部分をリーダーは考えているのだなと分かります。
試合とサポーターが一体化する応援、そんなリーダー像がいいと思いますね。
●長居第二問題 ~リーダーの難しさについて~
1994年JFLで優勝し、1995年Jリーグ1年目 、
1994年はメインで応援していましたが、
1995年からはどこで応援するのかが問題になっていました。
最初のポジションはバックスタンド左端になりました。
メインスタンドから降りたらゴール裏にいけるイメージがあったので、決めている人たちと揉めました。
当時はゴール裏に太鼓持ち込み禁止となり、持ち込もうとすると警備員に止められる状況でした。
どこでどうやって応援するのか話し合いがありました。
自分は短気で、(そのせいで)納得いかないと席を外してしまいます。
その時残ったメンバーに向かって言われたことが、
「お前らのリーダー出ていったぞ。お前らどうすんねん。」
そう言わせてしまったことに対して、 リーダーって難しいと感じました。
自分はリーダーだとは思っていませんでした。
今も忘れられない言葉です。
―背負わない
~一人ひとりが戦えばいいんです。
全員がサッカーを好きでありつづけること、 それが素晴らしいチームを作ります~
応援をリードする人は必要です。
試合の流れに合わせて応援をどうするかをリードすること。
しかし、背負う必要は全くないです。 一人ひとりが戦えばいいんです。
全員がサッカーを好きでありつづけること、 それが素晴らしいチームを作ります。
その中でリーダーが応援をリードして、 試合と一体化することが大切です。
応援をできる楽しみが、 サポーター人生であれば、死ぬまで応援を続けられると思います。
―最後に
~次の40~50年をつくっていくために、
今日集まってくださった人や、サポーター、クラブ、選手、市民一体となって、
アイデンティティを広めていく。 僕らの存在意義をつくっていければいいな、
という想いがあります~
盛りだくさんの話をしてしまったので、わかりづらかったかもしれません。
20年ファンをしていたらいろんな思い入れがあります。
今はSNS、ブログなど表現できるようになりました。
人との繋がりも多いです。
この先もサポーターは20年30年続いていく。
100年続けていくことは難しい。 100年後に自分はいません。
自分が務めている会社は創業90年だがこれは中々大変なことです。
自分の家族だけではなく、サポーターとのつながり。
今年はセレッソ20年で、21年の次は30年。次は40年。
きっとサポーターのアイデンティティは残っていく。
記録にも記憶にも残ります。
大半のサポーターは記録には残らないが記憶には残ります。
きっとこの場にいることも記憶に残ります。
それが次のセレッソアイデンティティにつながります。
みんなで楽しんでセレッソを味わっていきたいですね。
次の40~50年をつくっていくために、
今日集まってくださった人や、サポーター、クラブ、選手、市民一体となって、
サポーター・アイデンティティを広めていく。
僕らの存在意義をつくっていければいいな、という想いがあります。
自分は文を作るのが好きです。
いい英語が見つかったのでそれを紹介します。
発音はヘタですが、
「We will always be here,ever.」
僕らはいつでもここにいる、ずっと。
セレッソアイデンティティを広めていきたいです。
これで話を終わります。
長きに渡りありがとうございました。
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質疑応答へ続く。
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