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時間は「無くなる」ものではなく「生み出す」もの。

昨今の新型コロナウイルスの関係などで仕事にもかなりの変化が訪れている。少々不謹慎を承知でだ。これを機に、できること、できないこと、やれること、やれないこと、やりたいこと、やりたくないことを整理したいと考えている。外部環境や内部環境といった阻害要因も無くはないのだが。

僕のスタンスはあくまで20-80ルールだ。80%の力で抱えているすべての仕事をやりきったうえで、20%(まあ月金で働くとしたら一日)を「新しいことを生み出す時間」に費やしたいと常々思っている。その20%でどんなことを見つけられるのかを想像するだけでゾクゾクしてきてしまうのだ。

職業柄、多くのアイデアを耳にしたりする。その大半は既に結論が決まっていて(そしてそれは作られた数字でまさに捕らぬ狸の皮算用だ)逆算というシナリオを辿っているケースに明け暮れる。際限なく見てきたせいか、ゼロイチを生み出すお手伝いをしたいという思いが大きくなっている。

ところがいつも聴かされるフレーズに「時間が無い」がある。僕は、時間はアイデア同様に「無くなる」ものではなく「生み出す」ものだと思っている。短期的に時間が少ないのは仕方がないとしても、中長期的に20-80を作り出す努力ができれば、と可能性を見出す行動を取るべきなのだろう。

今この時代。何が成功するのかなど誰にも分からない。例えばアップルがiPhoneを誕生させたとき(このデバイスが生まれてまだ十数年しか経っていないのはまさに奇跡だ)オーディエンスの声に多く存在したのが「タッチパネルなど流行るわけがない」という先入観からくる感情の声だった。

人は誰しも一日24時間というキャパシティを与えられている。しかも死ぬまで。この長い時空を自分のものにするか、自分のものにしたいと思うかによってすべては変わったりするのだと僕は考える。そう考えるだけで、案外、学ばないといけないことは一体何なのかに気づけたりするものだ。

例えば、一日を15分単位に区切ってみるだけで、96ものターンを自分で好きに組めるようになる。もちろん自分の力だけではどうにもならない場合も存在する。悩んでも仕方ない。その時間でさえも15分単位で仮に区切ってみたら、果たしてどんなことが起こるのだろうか。試してみて欲しい。

さて、昨日の話の続きではないが人には特性がある。「現状を維持する」、「今の姿を少し変える」、「現状を全く違うものに置き換える」。誰がどのフェーズなのか、それは本人以外は分からないものなのか、それとも、きっかけさえあれば理解することができたりするものなのだろうか。

そういう僕も20-80を実践できていないいわゆる見習いだ。死ぬまであとどれほど学んでいけるのかは自分自身も到底分からない。だからこそ、答えがないからこそ、考える時間がとても楽しい。決まりきった未来なら、はっきり言って無くてよい。だから今日も僕は頓珍漢な受け答えをする。

NEVER STOP,NEVER GIVE UP

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