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失敗を継続して得られるもの。

スポーツには勝ち負けが存在する。サッカーの場合。その試合に勝てば3点、引き分ければ1点、負けたらもちろん入らない。シーズン通してこの勝ち点が少なければ残念ながら降格の憂き目に会う。当然だがより上のリーグで戦い続けることが、サポーターにとってのモチベーションになる。

セレッソ大阪はそんな憂き目に三度出会った。2001年、2006年そして2014年だ。降格した試合のほぼすべてが大敗とも呼べる。なかなかうちみたいな毎回こんな気分にさせてくれるクラブも珍しい。とは言えこの3つのシーズンでサポーターが戦えていたかというと、そこも多少疑問符が付く。

少なくとも2001年は課題の多い一年だった。前年ファーストステージの優勝争いがあたかも自分たちの実力のように受け止めてしまい、すっかりとセカンドステージのことを忘れたままシーズンに入ってしまっていた。その結果、8連敗を喫し、降格の日まで5勝しかできなかったのだった。

2000年のセカンドステージから2001年にかけては、ゴール裏と屋根下の関係などを含め、この先どのように進んでいくべきなのかというセレッソ大阪サポーターにとって様々考える時間だったような気がする。試行錯誤を繰り返しながら、僕らサポーターはこの不安定な時期を戦っていた。

人数も非常に少なかった。そのなかで僕らのスタジアムをどのように盛り上げていくのか。たとえかませ犬だったとしても常に走り続けるしか無かったわけだ。試合はなかなか勝てなかったし僕らも失敗を重ねてはいたが、少しずつ分かってきたこともあった。やはり大事なのは継続だ。

人はどうしても成功したいとか成長すると考えるときには、どうしても一足飛びに考えてしまいがちだ。しかしながら紆余曲折しながら歩んできた道のおかげでふたつのタイトルを取れたと考えることもできる。そういう意味からして長い目で見たら、全部が「正解」なのだろうとも思う。

ゴール裏を埋めるまでサポーターが増えている今。さほど新たな動きを必要とされているわけでもない。良くも悪くも今のままのパフォーマンスで満たされているようにも見て取れる。だが「20年も経っているのだからあの頃と比べてはいけない」と言ってしまって本当に良いのだろうか。

何事も1を100にするよりゼロイチが難しい。何も無いところから創りあげる。今の彼らには是非とも経験してほしいなと思っている。そして失敗してその失敗を続けて得られるものは、必ず将来の自分に役立っていく。「話を聴かせてほしい」とよく言われる。声をかけてくれたら幸いだ。

NEVER STOP,NEVER GIVE UP

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