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神輿は担がない。

唐突だが、この時期になると神輿が動き回る現象が首都東京という街に出没してくる。大阪にはだんじり祭りなども存在しているのだが、僕の生まれ故郷である大正区で自分自身が神輿を担いだ記憶は全然無いし、そもそも神輿自体を感じたことはほぼ皆無だ。この違いはなんだ。

半年前まで11年間住んでいた墨田区でも、5年に1度は大祭と銘打ってはいるものの毎年のように途方も無い数の神輿がマンション前を威風堂々と闊歩していたことを思い出す。声と太鼓(!)などが織り交ぜられ音楽を奏でながら、次から次へと多くの方々が過ぎ去っていくさま。

ここ中野区でも同様の状況である。老若男女問わず揃いのハッピで身を固め神輿と共に歩く姿を横目で見ながら、僕はスキマ時間を利用して髪の毛を切りに行くことにした。いつもならしばらく待つことが義務付けられているのだが、意外と空いている。これは少しツイているな。

「毎年、当日になるとこうです。先週は凄かったんですけどね」ハサミを入れながらスタッフのお姉さんが声をかけてくれた。祭りという存在は当然のことながら街の経済にも影響するのだろう。そんな会話をふたつみっつしていたら、あっという間にさっぱりする時間は終了した。

人が集まる場所が僕はあまり好きではないこの性格。こんなだからいつまで経っても街に馴染めないのは自分でも分かっている。神輿を見るたびにそんなことを考えさせられるのだ。「一度担いでみてはどうですか」お姉さんに叱咤激励を受ける。うん、それは無いでしょうと一言。

やはり、神輿も人も担ぎ担がれるのは好きじゃない。そんな状況は言うほど気持ちの良いものではないのだが、かと言って放っておかれるとそれはそれで寂しい気持ちになる(笑)。何という曖昧で貧弱な感情なのだと自分自身を見越して笑けてしまうが、それもそれでなんか、良い。

※誰が上手く言えと。

※引き続きサッカーショップ蹴球堂ではチャリティー販売を実施しています。どうぞよろしくお願いします。

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