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「普段は身軽に、そして時々、思い出の印に。」を見て感じたこと。

何を隠そう僕は現金払いというものが大の苦手なのである。どうも子供の頃から”緊張しい”な性分でもあるので、現金払いしかも後ろに列ができたりしたら大変。焦ってしまって大きいお金を出す始末。お釣りはポケットに突っ込んで足早に立ち去ることも殊の外多い。

そんな苦いエピソードもあるせいで、基本的にはクレジットカード、おサイフケータイやQR決済という代物を使い分け、できる限り現金を使わないようにしている。ひとつはお釣りが出ないこと。もうひとつ(特にスマホ)は操作が単純明快であること。実にありがたい。

それでも幾許かの現金は常に持ち歩いており、現金が必要な場合はいつでも出せるような準備はしている。これは大人の礼儀とでもいうか肝っ玉の小さな僕の性格上なのか。もしクレジットカードが使えなかったら・・・もしおサイフケータイの機械が壊れていたら・・・。

もうひとつ大事なこととして急遽どうしても現金が必要となる場合を想定している。いや突然では無かったとしてもその場で必要になるケースはいくらでもある。眼の前のにあるものだけでなかったとしても、動産としての現金が信用や信頼をつなぐ印になるのだろう。

だから常に現金の出入りを含めて管理をしておく。僕はマネーフォワードを利用しているが管理の方法は人それぞれ。ただどんなアプリケーションや管理手法を利用したしても持っておくマインドは同じだと感じる。現金もクレジットカードも人と人の絆に成り得るのだと。

クレジットカード会社のテレビコマーシャルを見た。ある俳優さんが語ったひとことが非常に重くのしかかり、少し考える機会をもらえた気がした。「普段は身軽に、そして時々、思い出の印に。」現金のあり方が変わってきた今日、ひとつ何か分かったような気がした。

NEVER STOP,NEVER GIVE UP

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