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やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。

健康を意識していると言われればその通りかも知れないが、幸か不幸か今年に入って(厳密には昨年末から)アルコール摂取していない。そのせいか、飲み会になると、以前にも増して食う食う食うという流れになってしまっている。とは言え体重の増加は見られないのは実に不思議である。

さて、先日から過去の書き起こしばかりを掲載していた関係もあり、古い記憶や記事を遡る作業を行なうシーンが増えている。こういうとき写真が中心にはなりがちではあるが文章も然り、本当にメチャクチャなことを大量に書いている姿を思い出し赤面してしまっている自分がここにいる。

対談のなかでも話題になっていたゴール裏に行く行かない(とは言えこれは2014年の話なのでそこから既に6年経っている)という件について、今日は持論を少し書いてみたいと思う。全てのサポーターに当てはまるわけではないので、あくまでも僕自身の考え方であるとご容赦いただきたい。

企業人として三十数年、管理職や経営層としても二十年近い期間を過ごした。その中で一番感じるのが「人を育て組織を永続させる」ことだ。組織はひとりのものでもなく仮にスーパースターが存在したとしても、結局はその人物がいなくなると同時にその組織は終焉を迎えることが殊更多い。

若い頃お世話になった上司に「自分がその地位になったときに自分の代わりを見つけることこそ、管理職経営層の仕事」と脳に刷り込まれた。僕も同様に、メンバーには口酸っぱくなるほど語っている。そして、その実現に向けて教育や環境を提供するのが、上の者の責務であると思っている。

僕は常にそんな感覚で生きており、それはサポーターの世界でも全く同様な気がしているのだ。教育は簡単だが、環境の準備は一時的とはいえ自分が場所を失うのとイコールでもある。その時の流れと戦えるのか。自分は更に上を目指せるのか。それ以上に「忘れられる」恐怖に耐えられるか。

僕にはそのこだわりがない(人への関心が薄いように見られるのはそのせいだ)。今のゴール裏のリーダーたちは、僕らが築いたフィロソフィーの上に更に自分たちのスタイルを確立していると僕は見ている。それ以上に何を求めろと言うのだろうか。僕には正直、喜び以外の感情が存在しない。

そう言えば思い出した。「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」。山本五十六連合艦隊司令長官のこの言葉が、かなり胸に刺さる。

いや、自分自身が彼らの上司だと言う気は全くないが、哲学、フィロソフィーという糸を渡して、編んで、解いて、また紡いでもらっていくことで組織というものは永続的に成長する。僕はいつもそう思いながら、ゴール裏の頼もしい姿を傍目に遠くから眺めている。僕らはつながっているのだ。

NEVER STOP,NEVER GIVE UP

※二年前に長岡に行ったことも思い出した。
※ちょうどまた「失敗の本質」を読んでいたところ。

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