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神戸の街が教えてくれている。

新幹線に乗り九州から広島、そして大阪へと向かう窓に「新神戸駅」が見える。日本にとっては、震災から25年という長い時間が経った今でも決して忘れてはならない。1月17日、今日。そんな日に、新幹線とはいえ神戸の街を通っていくことの意味を深く考える。あの日のことは頭から離れない。

僕は当時24歳で長居スタジアムの近くのJR鶴ケ丘駅前にひとりで住んでいたこともあり、被害はそれほどではなかったと記憶している。しかしながら大阪市営地下鉄など交通網はストップしたり、携帯電話が今ほど普及していなかったため電話ボックスに列ができていた風景が蘇ってくるのだ。

テレビでドキュメントを見る。そこで改めてではあるのだが25年も経ったのだということを実感する。震災後に何度も神戸の街に足を運んで各地を見て廻って、復興のスピードに真に感動した反面、今でも建物がない土地があるのだとアミーゴのレポートなどを見て、正直心を痛めてしまう。

僕を乗せた新幹線はしばらく新神戸駅で停車したのちに、目的地である新大阪駅に向けて動き出したのだった。しばらくのあいだ僕は目を閉じる。ひとりの思いはとても小さいのかも知れない。いつまでもこの震災を忘れずに生きていくことが、今、僕らでもできる小さな活動なのだと感じた。

今年の元旦、ヴィッセル神戸の天皇杯優勝や、震災直後のオリックス・ブルーウェーブの優勝から、「人は人に勇気を伝えていける」ことを僕らに発信し続けてくれている気がする。全国廻って勇気を伝える僕の仕事もまさしく同様なのだぞ、と神戸の街がそっと教えてくれているようだった。

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