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サッカー小説を書き始める。

少し前の話で恐縮だが珍しくお盆の季節なんてものに休暇を頂いた。まあすることもあまり無いので、某中古本販売の店舗へ行きダラダラと書籍を探しながら歩く。それほどではないけれどストレスが薄くなる感がある。買って満足してしまう。

これが小市民の幸せである。本はやっぱり面白い。前にも書いたことがあるが、映画化されたときのイメージよりも自分自身の想像だけをひたすら膨らませていくことができる。主人公の格好やヒロインの姿。そんな純な妄想を引き立てていく。

それが本の物語の醍醐味だ。最近は書くほうも始めているので(ちゃちゃっと某SNSに投稿中だけど)ちょっとだけ分かってきたが、読ませる文章にはそれなりの理由がある。僕のなど誰も読まないだろうが、そういう気持ちは常に持っている。

その書いている内容というのがサッカーとファンタジーの融合。やはり僕にはこのふたつの要素が必要だ。内容はとても書けない。そして、読んでみると、面白いのと面白くないの二面性を持っている。世の中の目に晒される日が、とても怖い。

この某中古本販売会社からそれほど多くはないものの毎年金券を頂いている。購入の際はありがたく使わせてもらう。ただ、株主優待はあくまでおまけであって、僕は本が好きで、しかも中古本が好きなので、だから長い付き合いなのだと思う。

本好きに悪い人はいない。僕はそんなおとぎ話を信じている。おとぎ話はネバーエンディング・ストーリーだ。死ぬまで読み続けることになるだろうが、隣に積み重なっている本が倒れてきていつか死ぬのではないか?そう思い始めたのだった。

そういやその際にこの本を購入した。何度も読んではいつも誰かにあげたりして家から無くなり、そしてまた買う。で、いつから読もうかと思案中。僕が書いている小説にもやはりサポーターは必須だな。どんな現れ方をするか今から楽しみだ。

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