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衣食住とサポーター。

久しぶりにミッドウィークのゲームが無い。試合を見たい気持ちと、選手たちを休ませてあげたい気持ちが揺れ動く。一週間でどうにかなるものでも無いだろうが疲れを癒しながら週末に向けて臨んでいるものと思う。頑張りに脱帽してしまう。

週末も週末でレディース、ネクスト、トップと三試合の梯子状態になっている。だが、何故か心地よい。身も心もセレッソ大阪と共にあるからだろうか。海外の試合の楽しみ方含めて、ニューノーマルなサッカーとの生活をエンジョイしている。

やはり歳を取ったせいなのだろうか。最近「サポーターとは?」と考えてしまうときが多々ある。どうしてもゴール裏にいる人=サポーターと思われがちだが、「クラブを中心に生活が回っている人」のことをサポーターと呼びたいと僕は思う。

僕の周りには、本当にそのような熱い方々で溢れている。だからこそ四半世紀以上ものあいだ、幸せで充実した日々を過ごせてきたのだろう。もちろん「衣食住」は大事な要素。なので、そのなかにセレッソ大阪が割って入ってくるのかどうか。

いや、違う。「衣食住」そのものがセレッソ大阪なのだ。身に付けるものはピンクとネイビー。セレッソ大阪が大好きなサポーターのお店で美味い飯を食い、場合によってはスタジアムの近辺に住んだり店舗を構えたりと、それがすべてなのだ。

これは、資格とか官位などが与えられるような代物では無い。自然と生活がそうなっていくのだ。そんな生き物がサポーターなのだと僕は思っている。CEREBAKAを始めてからは特に、そんなサポーターの生きかたというものに強く惹かれる。

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