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ガラケー人生。

コロナ明けの六月になったら行なおうとしていることのひとつに、携帯電話回線の変更というものがある。多分20年以上持っているであろうauのガラケー回線(CDMAって言うんでしたっけ?)。電話専用機と化しているこの二つ折りの携帯電話をもうそろそろスマホへと移そうかとそう考えている。

この携帯電話会社の「二年割」というプランに契約している(というかこれしかないとショップの店員さんから言われた)のだが、このプランの場合、ちょうど二年後の2ヶ月程度しか手数料ゼロ円でのMNPができない。それが6月なのだ。ついにauから離れるのか。それとも継続なのかの境目なのだ。

ガラケーと言うと思い出すことがある。数年前に母親にiPhoneを持たせてLINEを使えるよう(これは弟夫婦のファインプレイだ)にしたのだが、本当に良かった。もしこのコロナ禍で、通話でしかコミュニケーションが取れなかったとしたら、一体どれだけのパワーを使うことになっていただろうか。

実際このような状況になっていなかったとしても、まめに連絡できない僕にとっては非常にありがたい。スマホというツールのおかげでお互いが簡単につながるようになったことで、時間の壁、距離の壁をスムーズに超えることができる。世界に比べて普及率はまだまだだが、本当に素晴らしいことだ。

そう言えばこのGoogle Bloggerもスマホから簡単に投稿することができるようになっていた。スマホファーストのなかで、ころころインターフェースが変わるGoogleサービスにはしてやられるケースが少なくないが、それでも、時間の壁、距離の壁を意識することなく記事を書けるのは嬉しい話でもある。

スマホファーストのサービスが多くなってきた昨今。通話という文化が少しずつ薄れていく昨今。そんな中でレガシーとして生きていくのはとても大変なこと。拒絶感とともに過ごすのも有りではあるが、スマホの世界にどっぷり浸かるのもそれはそれで有りだ。そんな僕は今、PCでブログを書いている。

矛盾したことを書いていたら、その昔、セレッソファンのためのSNSを作っていたことを思い出してしまった。その頃、僕はこのガラケーでSNSを利用していた。ガラケーと出会って約30年。人生の半分以上を共に生きてきたガラケーとお別れするのは寂しいが、これも人生だ(そんなに感慨深いか?)。

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記録というものは無いよりはあったほうが良い。

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