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東京都知事選に思う。

熊本県南部の大変な状況。ニュースを見てとても心が痛い。ちょうど映画「日本沈没」を見たこともあり、災害がいつ来てもおかしくないことを改めて感じる。関東近辺も最近では地震や余震が多く発生している。不安がかなり大きくなってきている。

今日は東京都知事選投票日である。地元の投票所へと向かう。22名もの候補者。掲示場にそのポスターが揃う日を待ちわびていたのだが最後の最後まで貼られていない枠が多かった。天下の回りものだとよく言うがやはり選挙にはそれ相応の金がいる。

それにしても、だ。街頭演説もほとんど無い(僕は街頭にも行っていないので知らないが)し、選挙カーも走っているのもチラホラなレベルだった。完全にインターネットの世界を中心に回している。これがニューノーマルになっていくのだろうか。

そういえば4年前の都知事選の際は、新宿駅西口であの御方と握手したなあ、とか、そういえばあの御方とはその昔に一緒にラジオ番組の1コーナーをやってたな(アニモセレッソは彼の中ではNGなのだろうか)とか。人も時代も、常に回っているのだ。

このコロナ禍での選挙でもあるので投票率はそれほど上がらないのだろうなと思っていたが予想通りだ。夕刻の投票だったがほとんど人もいないという寂しさも漂っていた。変わらないというよりも変えないでいいという理由だったら、それも寂しい。

戻るが「日本沈没」。東京都民が1200万人と言っていた気がする。1973年の映画なのだが今日では都民も1400万人と増えている。ましてや、都民の民意の選挙だが影響範囲は周りの県にも及ぶ。東京で働くすべての人に都の選挙権があるわけでもない。

言うは易く行うは難し。日本の首都はこれからどうなるのか。誰かが言っていたが問題は山積みだ。コロナ対策やオリンピックはもちろんのこと、多くの課題と向き合っていくことになる。都民の端くれとしてとても考えさせられる都知事選となった。

NEVER STOP,NEVER GIVE UP

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