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喩え。「押しつぶされたサッカーボール」という表現。

いま読んでいる本の中でちょうど南極大陸が出てきている。何がちょうどなのかと言うと、ちょうど見ていたニュース記事と被ったからだ。昨日の投稿とも被るが、6600万年前と言われてもピンと来ない。この時期の歴史にはとんと疎い。

なぜこの記事に目が行ったかというと、軟卵の表現が「押しつぶされたサッカーボール」だったから。どうしてこのような言葉になったかは化石を見ても分からないが、ことサッカーに喩えられるとどうしても読んでしまう体質でもある。

最近、この「喩え」というキーワードを意識するようになってきている。もちろんレゴ®︎シリアスプレイ®︎の構造表現である「メタファー」を意識してのことだが、どうもそれだけではないような気がしてきている。ここは経験がモノを言う。

ではなぜ「喩え」や「メタファー」は大事なのか。それは「伝える」ことよりも「伝わる」ことが大事だからだ。どれだけ綺麗な言葉で飾っても、それが相手に伝わらなければただの言葉遊びだ。いつもそう思いながら文章を考えている。

「伝わる」こと。そっくりそのまま刃となって僕に返ってくる。適当なワードを散りばめて表現しているだけの味気の無い僕の文章。一体誰が読んでいるのかも分からず、ただ書きなぐっているだけの文章に、惹かれるところは何も無い。

先日たまたま「伝え方が9割」のマンガを二冊読む機会があった。じゃないほうは読んではいたのだが、このマンガ版も意外と(というと失礼か)心にグッとくる内容だった。言葉の選び方、使い方など僕が苦手としているところでもある。

生きた言葉は人を幸せにする。僕が愛読している様々なブログの中でも幸せにする言葉が散りばめられている。人を読む気にさせ、そして読んだあとに何かが残る言葉。僕もなんとか見習って「伝わる」言葉を発していきたいと思っている。

NEVER STOP,NEVER GIVE UP


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