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変わるべきときに変わること。

創業初年度だろうが100年続いているだろうが、変わるべきときに変わらなければまったく意味がない、と僕は思っている。F.C.OITOもサッカーショップ蹴球堂も様々な改革を次々に進めていっている。組織とはそういうもので、それは普遍であり不変だ。

とある記事を見た。変わるときに変わらないといけない展開。バズワードに囚われるのではなく、トラディッショナルで誇り高く改革に取り組む様に感動すら覚える。当然時間もかかるし、それは上手くいかずに終わってしまうことだって充分にある。

しかしながら、一歩前に出なければいつまで経っても何も変わらない。だからこそ優しさと気遣いと、おせっかいが必要になってくる。だが、必要も無いのに理解を求めるための無駄な時間を使ったりしなければならないのは、企業独特の文化なのか。

変わろうとしているときに一歩先んじると出る杭を打たれる。容赦なく身内に背中から斬られる。伝統だのしきたりだのとこれまでもおよそ守ったことも無いのに簡単に振りかざしてくる。日本の組織はこういった類のものが日常茶飯事になっている。

そこに悩みがある。特に大きいのは人間関係でもあると僕は断じて言いたい。昨日も少し書いたのもあるが、アドラー心理学のアルフレッド・アドラー先生が言う「人間が抱える問題はすべて人間関係の問題」は、まさにその通りなのだと思ってしまう。

今日熊本戦でセレッソ大阪U-23のなかでもちょっと感じてしまった。ペナルティーキックの際に少し意見が合わないシーンがあったように僕には見えたが果たしてどうだったのだろうか。確かにプロなので良いとは思うが時と場所を考える必要もある。

書いてはいるが若い頃は僕もそれが当然だと思っていた節もある。丸くなったとよく言われる。変わるべきときに変われたのかなと自分自身は思っているが、周りの目からどう見えているのか。今の若者たちはタイミングを逃さないようにしてほしい。

かく言うF.C.OITOも蹴球堂も、越えないといけない、越えていくと信じて走っている状況のなかで様々な課題にぶつかることもある。考え方は人それぞれ。だが僕らは獣では無い。お互いをリスペクトして合意点を見出す。人間の、当然の行動なのだ。

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